【考察】日本の民俗音楽と音楽の価値観
今回は、音楽の美学、捉え方による価値の相違について民俗音楽研究を参照し、書いていこうと思います。
まず、民俗とは何だろうか。民族とどう違うのか。
調べてみると。
要は、「民族」は実体的な意味合いで
「民俗」は、属性的な意味合い、
ということです。
今回は、「民俗」の方に注目してみていこうと思います。
日本の民俗音楽はどんなモノか。
民謡。
主に口承によって受け継がれた歌です。
わらべ唄などが日本のそれに当たります。
これらに携わった日本の学者を2名紹介します。
小泉文夫と吉川英史。
では、
二人の民謡に対するアプローチを参考に民謡の音楽性と価値の相違を見ていきましょう。
ざっくりと解説します。
まず、小泉文夫から見ていきます。
彼は民謡を研究するにあたって比較音楽学という方法を参考にしました。
なぜ、民謡を西欧音楽と比べなければならなかったのか。
それは、民謡含め、邦楽は敗戦を機に、国粋主義の古臭いモノだと捉えられていたからです。
ゆえに、それを世界の中の「音楽」という軸に位置づけるためには、邦楽を当時の音楽の中心的な存在であった洋楽と結びつける必要がありました。
つまり、小泉の研究は相対的に邦楽の価値を見出すという方法です。
一方、吉川英史のアプローチも見てみましょう。
上に”邦楽は敗戦を機に、国粋主義の古臭いモノだと捉えられていた”と書きました。
ゆえに、吉川は邦楽に芸術としての価値がないという考えが、一般化するのを恐れました。
彼の主張は日本の精神的なものを強調することで、他国の音楽と比較できるものではないというものです。
整理します。
小泉→邦楽の価値を定めるため、他国の音楽を参照し、相対的に価値を見出す。
吉川→邦楽を内側から研究し、独自の価値を見出す。
こうしてみると、小泉は「外」を重視(相対的)、
吉川は「内」を重視(絶対的)しているのがわかると思います。
さあ、今回のテーマは音楽の価値観です。
皆さんは、ある音楽を聴き評価(私的でも、公的でも)する時、「外」からの視点で評価しますか?
それとも、「内」からの視点ですか?
外部の反応、海外のランキング等を参考にした評価は、「外」からの評価と取れます。
また、コード進行や、リズムは、一般的な音楽という括りの客観的な構成要素としてあります。
それは、世界で決められた評価対象としても見ることができ、「外」からの評価ととれるでしょう。
一方、個人の主観や経験に基づく評価は「内」からの評価と見て良いでしょう。
こうして見ると、「外」からの視点で評価する方が、正確性があり、万人が受け入れることのできる評価になるように見えます。
ただ、音楽はもとより価値というのは、人により異なります。
先ほどの、民謡研究の話に戻します。
小泉文夫の他国の音楽文化を参照する民謡に対するアプローチが、提示できる価値は、世界の人が受け入れる、また理解することのできるものです。
それに比べると、吉川英史のアプローチは閉鎖的であり、空想的に見えます。
世界に民謡の音楽的価値を証明する目的なら、小泉の研究が理にかなっています。
しかし、そもそも民謡含め、日本の民俗音楽は、近代になり、西洋の情報が流通する前までは、「音楽」という括りで扱われませんでした。
それは、「雅楽」「能」「歌舞伎踊」など細かく分類されていたということです。
そのため、吉川の「精神」を強調する考えは、正確性がないと一蹴できるものではなく、それぞれ音楽という視点で作られていないため文脈を理解することで、正しい価値判断ができるというのはもっともです。
わかりやすく例えると、ボクシングと空手の型は比較できるものではないということでしょうかね。
ボクシングでは「相手と戦う強さ」が価値に置かれますが、空手の型は「精神の強さ」「美しさ」が価値に置かれます。
つまり、価値を証明するには、その分野における価値の対象を明確にすることが重要なのです。
日本の民謡を西洋から輸入された「音楽」が持つ価値基準で測って、それが民謡の価値と言えるのか?
という話です。
最初に”音楽の美学、捉え方による価値の相違について書いていこう”と述べましたが、価値自体の相違は、主体を何で括るかによって変化するものだと考えられます。
以上です。
どの分野がどのような価値で測られているのか知ることが、音楽でも、なんでも評価の前提になると思います。
ただ、大勢の理解を得るためには、それを大きい括りで測ることも必要になると思います。
難しいですね!
参考文献
福岡正太 2003 「小泉文夫の日本伝統音楽研究 ―― 民族音楽学研究の出発点として」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?