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薄情の涙

涙はどうして流れるのだろう。                    悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、出会いの時も、別れの時も、時には思いがけず心を動かされ、感動した時も。                涙はどうして熱いのだろう。                      たまには冷たくたっていいはずなのに、頬に流れてくる涙はいつも熱い。たぎった血潮が耐え切れず、零れ落ちたように。             そして涙はどうして乾くのだろう。                  また立ち上がりなさい、と優しく手を差し伸べる。        Lagrima、涙、ポルトガルのファドの中にある。            アマリアロドリゲスが詩を書いているが、私はDulcePontesが歌うこの曲が好きだ。                              聴いた後心は軽くなり、明るい未来を想像できる。           私は前に進むためにLagrimaを繰り返し何度も聴く。

きょうママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。                               有名なカミュの「異邦人」の冒頭である。ずいぶん前に読んだきりになっていて、最近その本を探してみたが、どこにも見当たらない。人間社会に存在する不条理を書いたという世間的に評価の高いこの作品が当時の私にはあまり響かなかったのか、どこかにしまい忘れたままだ。           あるいは直後に読んだケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の印象があまりに強烈だったからか、こちらは、事あるごとに読み返している。今も目立つ場所に置いてある。                       それが何故急に「異邦人」の冒頭部分を思い出したかといえば、自分にも同じようなことが起こったからだ。                   父が九十二歳の天寿を全うし、旅立った。               遠く離れて暮らしている私は、通夜と告別式の日程を親戚の人から聞いた。覚悟はしていたが、一瞬動転し、心は悔恨でいっぱいになった。来れるか?と訊かれて、行けると思うと答えた。                 実の父親の葬儀に行くのに、そんな答えはあまりに、ひどかった。親孝行の一つもしてこなかった。                       電話を切ったあと、ふと、父の死の詳細を聞かなかったことに気付いた。死んだのがきょうであるのか、昨日であったのかも、知らない。まさに、「異邦人」の主人公のムルソーを責める資格はない。            告別式の終わり、押し出されて、列席してくれた人々にお礼の挨拶することになった。何も言葉を用意していなかった。涙を見せない私を列席者は薄情な奴と思っていたに違いない。私は思い付くままに正直に父への思いを語った。                                それがその後の会食の席で複数の人に、「あんな心のこもった挨拶はいまだかつて聞いたことがない」と言われた。意外だった。きっと私は本当に自分の親不孝を恥じていたのだと思う。そして父への感謝を涙ではなく、そういう形で表したのかもしれない。                    薄情の涙はきっとひねくれている。

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