見出し画像

四月になれば彼女は


不意にギタリストの指が止まった。

それまで気軽にリクエストに応えて、映画音楽から懐かしい青春歌謡まで器用にこなしていたのに、あるリクエストを聞いて、指が止まった。

「明日に架ける橋、ねぇ、どうだったかなぁ、楽譜はあったかなぁ」

それまで楽譜などなくても暗譜で数々の曲を弾いてきたのに、急に歯切れが悪くなった。


10人入ればいっぱいになる、ジャズ喫茶である。
そこに13人が入ってクラッシックギターでのライブコンサートが始まった。

私以外は皆、顔なじみらしく、そこのお店の常連客というだけで、呼ばれた私は、少し居心地が悪い。

集まったのは50代から70代くらいの中高年ばかりで、カウンターの隅の席から見ていると、皆一応に身なりが良かった。

コンサートを企画したTさんとは、その店で知り合った。

彼は根っからの実業家らしく、その反面、往々に山師的なところもあって、ある事業に手を出してはやめて、また別の事業を始めて、またやめて、とそういうことを繰り返してきたらしい。
知り合ってからも、私とTさんとは、店の話友だちの関係でいたが、その中で、彼の華やかな交友関係も明らかになった。

彼の口から出てくる有名人の名前に少し大げさに驚きながらも、私もそれなりに楽しい時間を過ごしていた。

その彼が急にコンサートをしようと言い出した。私に何かを誇示したかったのかもしれない。

呼ばれたのは、世界的なコンクールでも入賞し、ある有名音楽大学の講師をするギタリストのNさんだった。

「久しぶりに連絡があったら、これだよ」、とNさんは苦笑しながらも、ライブ会場の小ささと観客の少なさに驚きを隠せない様子だった。
それでもプロらしくその場に合った演奏形態で聴衆の心を掴んでいた。

13人のお客も、どうやら、企画したTさんがフェィスブックで呼びかけたらしく、東京や横浜から、この八ケ岳南麓の小さな店に来たのだった。

「明日に架ける橋」で躓いたギタリストの動揺はその曲にではなく、どうやらそれを演奏したサイモン&ガーファンクルにあるらしかった。
もっと言えば、彼らの曲が多数流れる、「卒業」という映画にあるらしかった。

探り探りのように映画のテーマ曲だった、サウンド・オブ・サイレンスを奏でながら、思い切って弾き始めたのはその映画で流れた別の曲だった。


四月になれば彼女は  April Come She Will

April come she will
When streams are ripe and swelled with rain 
May she will stay
Resting in my arms again
June shell change her tune
In restless walks shell prowl the night
July she will fly
And give no warning to her flight 
August die she must
The autumn winds blow chilly and cold 
September ill remember
A love once new has now grown old

四月に彼女は現れる
雨で小川の勢いが増す頃に
五月に彼女はいてくれる
再び僕の腕で休んでいる
六月に彼女の様子が変わる
休むことなく歩き回り夜に出かけていく
七月に彼女は飛び出していく
何の前触れもなく
八月に彼女はいなくなる
秋風がひんやりと冷たく吹きつける
九月に僕は思い出す
かつて新鮮だった愛情も古びてしまうということを


弾きながら、ギタリストは小さな声で歌った。
短い曲が終わって彼は自分の思い出話をした。
学生の頃に付き合っていた女性と一緒にビデオで「卒業」を観たのだという。その女性とは結婚まで考えていた。
それがその数カ月後、まるで曲に合わせるかのように二人は別れてしまった。
「もう四十年以上前の話ですよ」、とギタリストはそう言って照れ笑いを浮かべた。

コンサートは盛況に終わった。
集まった13人の中高年たちも懐かしさでいっぱいになって、目頭を熱くしたようだ。

「音楽はいいですよね、やっぱり」
世田谷から来たというマダムが、私の横に座ってそう言った。
「こんな素敵な時間を過ごしていればうつ病なんかになることもないでしょうに」
「え?」
「いえね、近頃のお年寄りはよくそうなるって、テレビで言ってましたから・・・」
マダムはまるで自分に言うように、私に横顔を向けたまま、そう呟いた。

私は私で、コンサートの余韻を楽しむかのように雑談を交わす人たちの中で、別のことを考えていた。

一切皆苦、ブッダの言葉である。

人生は思い通りにならない。

諸行無常、その一方でこの世のすべてのものは移り変わり、永遠のものなどないという。

私たちはそういうものの中で帳尻を合わせながら生きているのか?

そして、ブッダはこうも言うのだ。

一切の生きとし生けるものは幸せであれ


私は心のなかで、「四月になれば彼女は」、を「四月になれば私は」、に変換してみる。

そう、四月になれば、私はどうするのだろう?
そしてどう生きていくのだろう?

一度変換したものを、「四月になれば私たちは」、とまた変えてみる。

もうそれ以上は何も考えなかった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?