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いのちを考える

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらいするだろう

金子みすゞの「大漁」という詩である。

私たちは、生きていくために、どれほど多くの「命」を糧としているのだろう。
主義主張や単なる綺麗ごととして、話しているわけじゃない。
現実的にそうなのだから、仕方がない。
普段何気なく、スーパーで買ってきて美味しそうに食べているパック詰めの肉も、産業動物としての家畜の命を頂いているし、極端のことを言って、植物にも「命」があるとすれば、野菜と称してそれも「命」を頂いている。

そのものが高等であるとか、意思や感情がないとか、そういう話ではない。
キリスト教的に言えば、原罪として、人間は罪深いものだとなるのだろうけれど、「生きる」ということが本来そういうものではないのだろうか。
だからこそ、私たちはいつも「命」の前では謙虚でなくてはならないし、真摯でなくてはならない。

人間はその歴史の中で、多くの動物たちの「命」の犠牲のもとに生きてきた。
それは単に食料としてのものだけでなく、たとえば、昨今のコロナワクチンの生成においても、それが性急であったからこそ、相当数の実験動物が犠牲にされたと想像できる。

命の重さは平等である、という言葉は美しいが、虚しい。
だが、それを踏まえても、そうまでして生きている自分のいのちについては時として、立ち止まり、見直す必要があるように思う。

都会では実感がないだろうが、この時期、熊の出没情報が世間を騒がせる。
多様性の観点からすれば、野生動物との関わり合いも人間には重要な課題だ。
プーさんやバンビを持ち出すまでもなく、ディズニーの世界では熊や鹿は愛すべき可愛らしい動物たちだが、いざ現実の問題として考えるとき、田舎では切実な問題になる。

増えすぎた鹿が、各地の森林に深刻な被害をもたらし、農作物にも被害をもたらし、ひいては、生物多様性を保全することに支障を及ぼしていることは、ここにいらしている方々なら、周知の事実であろう。
そこには、可愛い、可哀そうだ、とか言っていられない問題が存在する。
もはや、増えすぎた鹿は害獣となって、管理捕獲の対象となる。命を奪うという、良心に訴えるその処分を、誰かが引き受けなければならないのだ。

また今年ももうすぐ猟期シーズンが訪れて、都会からも銃を担いだハンターたちが、八ヶ岳周辺に訪れる。全くのレジャーやスポーツとして狩猟を楽しむ人々は、地域社会の要請で、生活や森林保護のために有害駆除を普段から行っている、いわゆる猟師とは違う。命を奪う、という根源的な部分で、既に違っている。

豊かな自然に恵まれたわが国では、昔から、地域社会では、野生動物との共存を図ってきた。その過程で、森林行政の失敗や、動物保護の失敗を重ねて、今があるという歴史がある。

羽澄俊裕さんという、この方は長い間野生動物との関わりを持ってきた方だが、この方の書いたものを読むと、その辺のところがよくわかる。時として、私は、何度も読み返し、いつも感動する。

この地球に人間以外にも多くの生き物が生きていて、それらとどうやって、共存していくかを、真剣に考えることは、ひいては、自分自身の存在意義にも資するものだと、そう思う。

極論すれば、これは、地域社会に限ったことではなく、都会でも結局は同じことなのだ。
犬や猫を中心とした、伴侶動物と、どう暮らしていくのか、他者の命との向かい合いで、その人の「生き方」がきっと変わるに違いない。

「俺にはお前が言う、そんなこと全く関係ないぜ」
と、うそぶいてみても、あなたが今振り下ろした足の、アスファルトの上で不格好にうごめいている虫けらにも命がある、と考えたら、ゆめゆめ乱暴に足を降ろせませんぜ。

こんなことを言っていると、身近な人々は、私にこう言う。

「あなたがそんな大それたことをとうとうと述べても、どうなるものじゃなし、それよりもっと、日々の生活をもう少し、しっかりとやってくださいな」

確かにその通り。ぐうの音もでない。

だけど、愚か者だからこそ、自分がこの世界で少しの役にも立ってないのじゃないかと、いつも疑っているからこそ、この世界で生きている自分の存在意義をいつも考えている。
だからこそ、いのちについても、・・・。

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