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ひと夏の経験 その1 水俣と川本輝夫さんのこと

私は段々畑のあぜ道で、ふと、立ち止まった。
うずくまり、荒くなった息をゆっくりと整え、靴の紐を直すふりをして、さりげなく背後の景色に目を遣った。

鏡のように静謐な海。

私は複雑な感情を抱えながら、その海を見つめ続けた。
今は夏の光を浴びてキラキラと輝いているが、やがて夜になれば不知火という幻想的な光が暗い海にちらちらと現れて、人々の弛まぬ想像力を搔き立てることを知っている。
わたしはその時、まだ若く、心の何処かで詩人になりたいと夢想していたが、そのことを仲間には知られたくなかった。

暑い大気の中、ミカン畑に一陣の爽やかな風が生まれる。
私はまた立ち上がる。
私は何度でも立ち上がり、再び重い堆肥の入ったコンテナを抱えて、急斜面を駆け上がらなければならない。
どうしたのか、と、既に上がっていった仲間がこちらに呼びかける。
何でもないと快活に答え、私はわざと全身に吹き出た汗をごしごしと腕で乱暴に拭った。

ただ暑いだけの夏を本当に夏と呼べるのだろうか?
私にとっての熱い夏。それはひと夏の経験。もう四十年も前の話だ。

私はその夏、水俣にいた。

水俣は南九州の鹿児島県と熊本県との県境にある町。町の前に何処までも穏やかな不知火海が拡がっている。
水俣のことも、水俣病のことも、無論知らなかったわけではない。
私はそこから○○キロ北に離れた炭鉱町で生まれ育ったのである。

水俣が「チッソの城下町」として発展していったように、私の故郷は「三井の城下町」として発展し、仕事を求めて何処からともなく労働者たちが集まり、雑多に暮らしていた。私がいつも冗談交じりに言うように、生粋の労働者一族の出自というのは実はこのことで、父も祖父も叔父たちも炭鉱労働者であった。
皆日々の労働に明け暮れ、夜には六畳一間の部屋で車座になって酒を飲み、歌い、騒ぐ。そんな中で育った。
私はその暮らしを特に嫌いではなく、生きることは働くことだ、という誰かが言った言葉を疑うこともなかった。
生まれ育った町はいつも騒然としていた。
子供の頃、町で大きな労働争議が起きた。
周りのおっちゃんたちはよく戦ったが、結局総資本に負けて、職を失い、町を出た。
しばらくして大きな炭鉱爆発が起きて、458人の労働者が死に、800人以上の労働者がCO中毒患者となり、廃人となり、その家族は路頭に迷った。
労働者たちは結局のところ、雇われている限り、負けてばっかりだ。
そうわかりかけたころ、私は故郷を捨てた。
町さえ出れば、自由になれる、そう思って都会に出たが、それも大きな妄想だった。
私は何も出来なかった。自信に満ちていた私の内部はあっさり引き裂かれた。諦念にも似た将来を考えるだけで、希望らしきものは何もなかった。私の内部はいくつもの自己矛盾で引き裂かれていた。若い頃特有の蒼い潔癖さはいたずらに混沌とするばかりで、私は行き詰っていた。既に世間からは外れて、自分自身が一体何者なのかを見失っていた。

大げさに言えば、ただいつか詩人になりたいという夢以外は私を支えるものはなかった。・・・。

そんな折、東京大学の特別講座で、水俣病支援センター「相思社」代表世話人の柳田耕一氏の話を聞いたのだった。

ふらりと立ち寄った、まさにそんな感じで参加した講座だったが、私の中に特別な感情が生まれた。
柳田氏は「チッソ型社会からの脱却」と言った。変革といったかもしれない。
私は直ぐに直感した。
同じように見えてはいたが、私の生まれ育った町にはないものが、水俣にはある気がした。まさに故郷ではなく、都会に出て、「水俣」に気付かされたのである。

その頃、学者であり、医者であり、作家であり、映画監督であり、写真家であり、演劇家であり、いわゆる文化人と呼ばれる著名な人々が「水俣」に注目していた。
彼らはただの公害問題としてではなく、人間の問題として、命の問題として、それぞれのアプローチで「水俣」に関わっていた。
中でも柳田氏の活動は私の気を惹いた。
結局雇われている限り労働者は負けてばかりという私の中の諦念を、少しばかり変えてくれそうだった。
柳田氏は水俣病患者の戦いを支援する一方で、既に大きな産業社会に組み込まれた人々が便利さによって失った本来持っているはずの「生活能力」を取り戻し、それを礎とした考えの出来る人間の育成を急がなければならないと主張した。
そこで生まれたのが「水俣実践学校」である。
それはそのあとに続く一年間の「水俣生活学校」の一週間から十日というお試し期間ではあるが、私はその夏、それに参加したのである。

全国から集まった数十人の人々はいくつかの班に分かれ、その夏水俣を体験した。
私は柳田班に入り、労働し、町を歩き、患者さんの話を聞き、仲間とデスカッションをした。
班の仲間もそれぞれに熱かった。参加者には、学校の先生や、東京大学の学生や、福祉活動をする人や、会社員でも社会的な問題意識を持って、水俣に関わっている人が多かった。
私は若干の後ろめたさを感じながら、その日程を終えた。
告白すれば、私は結局、自分自身が変わりたかっただけだった。
私一人が社会的問題意識も持たずに、個人的な事ばかりにとらわれていた。

最終日、患者さんたちを交えてのお別れ会が開かれた。
その中に、川本輝夫さんの姿が見えた。
川本輝夫さんについては、私があえて述べるまでもない。
水俣病患者の運動のリーダー的存在である。
「水俣」に関わる人なら名まえを知らない人はいない。その小さな体に熱い魂を燃やして、半生をその活動に捧げた。
中でも、水俣病を引き起こした「チッソ」本社に乗り込み、自主交渉を続けた日々のことはその活動においても、水俣病運動の歴史的にも意義がある。

その日、言葉は悪いが、お別れの酒宴に集まったプチ・インテリの中で、川本さんは手持ち無沙汰そうであった。
彼の活動は、主義主張というより、ましては思想的なものからはかけ離れたもの、生活や人の一生からやむを得ず生まれてくるもので、本来はそういう堅苦しい場が苦手なのかもしれない。

酒宴は盛り上がらないまま、進んだ。
その時、不意に柳田さんが私に向かって、こう言ったのだ。

「○○さん、あれ、やってよ、振りつけ付きの、歌、・・・」

思い当たることがあった。
日程の半ば、無人島での漁業体験のあと、キャンプファイヤーを囲んでの中、私はかくし芸として、振りつけ付きでの歌を披露したのであった。

あの時は、さして受けたようにも思えなかったが、もう、自棄である。
車座になって座るみんなの中央にしゃしゃり出て、私は、その時、山口百恵の「ひと夏の経験」を歌い始めた。
時にはセクシーポーズを、時にはコミカルな振り付けをまじえて・・・。
これが意外に受けた。
空気が急に和み、周囲で手拍子が始まった。
演じながら、私は、ふと、炭鉱社宅の狭い一画で、労働者たちが酒を飲みながら楽しく騒いでいた、幼い頃を思い出していた。
私は完全に調子に乗っていた。
歌の間奏で、ディナーショーで歌手がそうするように、私は川本さんの前に手を差し出した。
川本さんは、少しためらいがちに、苦笑しながら、私の手を取った。
二人の握手が熱かったのは、体にまわった酒のせいだけではあるまい。
私はその時、夜の暗い海でちろちろと燃える不知火のような川本さんの魂に触れた気がして、何だか負けはしたが故郷の大きな労働争議の時頑張っていた父や、祖父や、叔父や、おっちゃんたちと、再会した気分になって胸が熱くなった。

それが私と川本輝夫さんのささやかで、唯一のふれあいであった。

近年、水俣と関わったアメリカの写真家ユージンスミスを主人公とした映画「MINAMATA」が話題になっている。
制作・主演が著名な俳優ジョニー・デップということもあり、日本公開においてはまた「水俣」に人々の注目が集まることだろう。
ユージンスミスは先述した川本輝夫さんのチッソとの自主交渉においても同行し記録を撮り続けたカメラマンである。

蛇足ではあるが、全くの無名で愚か者の私だが、ここでの今回の投稿で、一人でも多くの人が、新たに「水俣」を知って、自分のこととして感じてくれたら、私のささやかな「ひと夏の経験」も報われるというものである。


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