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    友禅を再定義してみる

長い間キモノ作りの現場にいます。
3次元の世界を、2次元の中に誘います。
色の海から、模様が浮かび上がり出します。
3次元に纏われるとき、本当に綺麗だなぁと思います。

2019 海 サンゴ礁 

手描き友禅染めを、言葉で考え直してみます。
少し堅苦しいとは思いますが、今の心境も含めて捉えてみました。
よろしくお願いします。


手描き友禅の「手描き」って? 

§ はじめに

手描き友禅とは、模様を染める技法のひとつです。
単に友禅と呼ばれる場合もあります。

もっと具体的に詳しく述べてみましょう。
(ここでは、絹地のキモノを想定しています。)

図柄の輪郭線を生地(布地)の表側に、人の力を用いて描いたものを下絵とします。その線の上にペースト状の堰、つまり防染用の糸目を置くことで、括られた面を設けます。輪郭線となる糸目を生地に定着させた後、括られた内側の範囲に色を挿します。その色が繊維の中へ十分染みわたるように、生地全体を蒸した後、防染糸目や余分な色を洗い流します。このような工程を経ることで、図柄を染めて、模様を作り出す、そのような技法と言えます。

つまり、生地の上に直接「形」を作り、そして、「色」を染めることに他なりません。

ここでの「色を染める」は、「着色する」ではありません。

色を染めるということは、水(水蒸気や加熱水も含みます)を使って、布や糸の繊維の内部にまで、色素をしみ込ませて、留まらせることです。
そして、たっぷりな水で、余分な色素や残渣を洗い落とし、透明感ある色と、しなやかな触感を得ようとするものです。

日本画や油画、水墨画や水彩画のように、色素を接着剤(膠やリンシードオイルなど)で紙やキャンバスなどの表面上に固着させるものではありません。
また、色素の剥落を恐れて、触れることや、巻いたり、曲げたり、畳んだりすることに、ためらいがあるものでもありません。

様々な染料がない昔には、顔料を布に固着させて模様を生み出した歴史があるでしょう。
また、生糸に天然染料で染めることがメジャーだったこともあると思います。
しかし、今はもう令和の時代です。
過去に縛られることなく、友禅について述べたいと思います。

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巷には何々友禅と呼ばれる摩訶不思議な品物が溢れています。

昭和、平成を通じ、数十年あるいは、それ以上の百年近い年数をかけて、和装産業に関わる様々な人々(職工人、仲買人、加工請負屋、染め屋、問屋、担ぎ屋、小売屋ら)が、自分達の都合で曲解し、そして、違う意味を含ませて、世の中に流布してきたのではないでしょうか。

無線友禅(濡れ描き友禅、カラ描き友禅)、金彩友禅、手挿し友禅、真糊友禅と呼ばれる、友禅にまつわる色々な技法が喧伝されていますが、これらは「友禅」、元々の意味を持つ「手描き友禅染め」ではありません。

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友禅染めにまつわる言葉の中に、別の意味合いが恣意的に入り込んでいる問題例、「真糊」を挙げてみましょう。

真糊友禅という言葉は、平成の中頃から耳に入るようになった記憶があります。
言葉としては、昭和の昔からありましたが、加工現場では全くと言っていいほど、使わない言葉でした。
糊糸目友禅という、”まっとうな言葉”があったからです。
わざわざ、真糊友禅なんて”しょーもない言葉”を聞くと、下品に思えました。
ですから、真糊という言葉を使う人に出会うと、いつも尋ねます。

「真糊があるのならニセ糊があるでしょう。ニセ糊は何を指すのですか?」と。

この質問に、まともに答えてもらえた人には、結局、令和の今でも、出会うことはありません。

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製作現場では、「ニセ糊とは、抜染剤を混ぜ込んだ、もち糊のこと」、として扱っています。
抜染という化学作用を利用して、従来のもち糊の持つ防染力に、下駄をはかせる効果があるものです。
本当の力ではなく、化学的に高めた、偽りの力がある糊となるために、ニセ糊と呼びます。

ですから、「防染糊糸目に対して使われる真糊」という言葉を、「抜染薬品の亜鉛粉末が加えられた糊」の場合にまで拡大使用する人は、虚言を吐いているように見えてしまいます。
もち糊が持つ防染力以上に整える、そんな作為的な方法にまで、「真」という言葉が使われてしまうことは、賛成出来ないからです。

「真糊」と言うと、うそ偽りがなく、本当の糊であると、正式な感じに聞こえてしまいます。
酸化還元作用効果を人為的に取り入れた、そんな場合にまで使用されてしまうなら、「真糊」は、ただの”しょーもない言葉遊び”です。
呉服屋や仲買い問屋など、製作現場にいない流通業者の中には、ゼニ儲けをしたいために、亜鉛入りの抜染糊が使用されたモノであることを知っているにも関わらず、そのことに口を閉ざして販売する店もあるようです。

製作現場では、亜鉛粉マツが入ったもち糊のことは、真糊と言わずに、マツ入り糊と言います。
もちろん、ニセ糊とも呼んでいます。
亜鉛末の入っていないプレーンなものは、白糊と言います。
蘇芳入りの糸目糊場合には、赤糸目糊あるいは、単に糸目糊と呼んでいます。
白と赤のもち糊、それらが、本来の防染効果を持つ真糊となります。
(その他、白糊にカーボン顔料や群青顔料で色を付けたもち糊など、加工する人によって、様々なパターンがあります。抜染剤を添加しないもち糊は、全て真糊です。特別なモノでも、高度な感覚が求められるモノでもありません。染色材料屋さんに行けば、いつでも販売されています。)

繰り返しになりますが、真糊という言葉を、製作現場では使いません。

そもそも、材料としての糊に、真や偽は、無いからです。
また、抜染剤を含んだ糊で加工するか、否かの、加工方法選択の問題であるはずが、「真糊」という言葉のせいで、あたかも本物で、なおかつ、上等の何か別のモノを連想させる話にすり替わってしまい、加工方法をどの様に選択するかという意味合いが失われてしまうからです。
さらに、当たり前のことですが、同じ人が、抜染剤を入れて加工することもあれば、しないことも、あります。
もち糊を施す人の腕や、もち糊で加工する難易度に関して、抜染剤が入っているかどうかは、全く関係がありません。
つまり、真糊であろうが、抜染剤入りのニセ糊であろうが、付加価値に変わりが無いということになります。

一般消費者に向けて「真糊」という言葉を使えば、よりゼニ儲け出来るかもしれないという、さもしい意図があるから、流通業者の中には、そんな印象操作するような言葉をよく使う場合があるのでしょうか

皆さんは、手描き真糊友禅なんて言葉を使う、そんな呉服店や仲買問屋、悉皆屋や職工人に出会った時、どのように感じますか?

(キモノに関わる業者さんに、「真糊の反対語の、ニセ糊って何ですか?」と質問すれば、どの様な返答があると思われますか?
中には、「真糊の反対となるニセ糊は、ゴム糊だ」なんて、真面目な顔で答える老害やポンコツ業者に出会えるかもしれません(笑)。)

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あやふやな言葉が流布される現状に疑問点を見出し、そして、本来の意味を明確にし、令和現在の手描き友禅染めの定義を導き直したいと考えています。
特に言葉に焦点をあてながら、深めていきたいと思います。


§ 手描き友禅染めの「手描き」って、どのようなもの?

手描き友禅染めという言葉は、何となく知っているけれども、じっくり考える機会がない言葉の一つです。
そこで、理解を深めるために、手描き友禅染めを「手描き」と「友禅染め」の2つの言葉に分けて、順序良く把握しようと思います。

手描きという言葉は、「人の力を用いて、描く」という意味です。

「人の力を用いて」は、「生身の人間の身体を主動力とし、筆などのアナログ的道具を使って」ということを指します。

一方、「描く」という言葉の使い方には分かりにくい部分があるかも知れません。
「描く」は動詞です。その目的語は、大抵の場合「絵」となるでしょう。

しかしながら、手描き友禅染めでは、「絵」を描くことがありません。

別の言い方をすると、水に溶いた色素を含んだ筆などを用いて、形と色を同時に施す行為がないということです。

ですから、絵画を描く場合と同じような、防染用の輪郭線が無い状態で染める「無線友禅(濡れ描き友禅、カラ描き友禅)」なるものは、友禅染めの範疇にありません。そのような加工方法は、本来「無線染色」あるいは「無線彩色」と呼ばれなければなりません。「無線友禅」(濡れ描き友禅、カラ描き友禅)という言葉は、「手描き友禅染め」にあやかって作られた造語でしょう。
特に、この無線友禅なる無線染色を、日本画を描くように表現するものだと標榜する方がいらっしゃいますが、日本画では顔料の膠着を駆使し、極めて繊細な表現が求められるものです。おおらかに作成する染め技法への例え話に使うには不適切です。

また、キモノとなる染めものには通常、染料が使用されます。
高い透明性、発色の良さ、延びの良さ、そして、柔軟性を損なわない特性があるからです。
岩絵の具のように、不透明な顔料を用い、膠で固着させる日本画を、キモノの加工に照らし合わせることは、どだい無理な話です。
(顔料が固まると、生地の柔軟性が損なわれてしまうからです。ましてや、金属である金や銀、鉱物であるキラをボンドで接着させた状態を友禅と呼ぶことは出来ないでしょう。)

何か日本画に似ていると言えば、言葉の響きだけで価値が上がるとでも勘違いしているかのようにも聞こえます。
仮に、どうしても絵画の制作方法に似ているものを探したいのであれば、隠ぺい力が弱い性質の、透明水彩絵の具を使う水彩画に近い、と言ったほうが良いと思います。

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「手描き」の「手」は、「身体と道具」であることは前述の通りです。

「何を」手描きするのかは、手描き友禅染めの場合、「下絵」ということになります。

では、「何に?あるいは、どこに?」下絵を描くのかと言えば、「生地に。あるいは、布に。」です。

手描き友禅染めの「手描き」は、「人力で、直接生地に、下絵を描く」ことを意味します。

人の手を使ったとしても、紙やデジタル画面に何かを描く意味を持ちません。
紙に施す場合には、「草案を作る」と言います。

当然のことですが、友禅染めは、布地に行われるものですから、染めることのない紙に下絵を描く行為はありません。

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手描き友禅染めは、防染をするための輪郭線の形と、その内側に染められた色で構成されます。
(ここでは、輪郭線の外側にある地の部分については触れません)

それぞれ独立した別の製造工程が存在しますから、形と色を同時に作成することはありません。

基本的な手順では、形が出来上がった後に色が施されます。前述の通り、手描き友禅では、絵を描くことはありません。
ただ、友禅染めを行うために必要な防染用の下絵、つまり柄となる形の輪郭線を描く場合にのみ、「描く」という行為があります。

この下絵は絵という言葉があるものの、絵ではありません。
奇妙な言い回しになりますが、防染をするために必要な線だけを指すものです。

防染のためのこの線は、立体感を生み出す稜線を意識することや陰影を描くことは、全くありませんし、素描のような空間感や質感を必要としません。
また、白描画で見受けられる静謐な美意識を求めることもありません。

それらの感覚については、色の染め方で、表現しようとするからです。
ですから、あくまでも、染める目的に適した、防染糸目を置きやすくするための線です。
下絵は、絵画ではなく、描線に過ぎないということです。

下絵段階での筆致の抑揚や、たおやかな描線は、無用となります。
描線の太細や止め、はらいの表情が優先されると、次の工程である防染糸目との調和がとりにくい状態となるからです。
最終的な結果として、形と色が響き合わなくなってしまう恐れがあります。
(下絵は友禅染めを引き立てるための防染用の線、言い換えれば、下支えをする線です。色を表現する友禅染めに従属し、防染用の輪郭線を描くことが、下絵に求められることと言えるでしょう。下絵の意味合いは、絵画における習作や下描きとはかなり異なります。)

生地に描かれた形以外に、下絵の良し悪しは、線の細さに現れます。
生地の凹凸に左右されず、均一で細い、はっきりとした線描は良い状態とされ、筆が立っていると言います。
反対に、線に太細や濃淡があったり、筆先の打ち込みや、はらい、ちぎれ、かき消し、滲みがあったりする線描の場合には、筆が寝ていると呼ばれ、劣ったものとして扱われます。
(友禅に関わる習慣的な言い回しであって、決して直筆や側筆のことを指しているのではありません)

「手描き」とは、「人の身体やアナログな道具を使い」「直接生地に」「下絵となる防染用の輪郭線を」「描いて」「形を作る」ということを意味します。

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「手描き」という言葉の中には、「手作り」を表す意味はありません。

「機械で作り上げたものではなく、人の手で作り上げたものだから手描きだ」という考え方は、誤信です。訂正される必要があります。

あくまでも、生地に直接下絵を描くことが、「手描き」です。

したがって、生地に下絵を描かずに染色される種類のもの、つまり「人の手で糸目型を使い、人の手で染められた型染め」や、「人の手で紙に描かれた草稿線を生地に透かし、人の手で糸目を引き写すもの(手挿し友禅)」、は「手描き」ではありません。
また、「手描き」を「色を施す行為」として扱うことも、間違いです。
つまり、手作業で色を施せば、手描きだということではないということです。「生地に色を施す行為」は「染める」という言葉を使うからです。
ちなみに、「模様を描く」という言葉がありますが、これは、紙面上での行為として使われる言葉です。
生地の上では、「模様」を目的語とする動詞は、やはり、「染める」です。
「染める」は捺染と浸染に分けられます。
模様が染められることを中心に考えるときには、捺染の方が基本となります。
捺染の範囲の中で、模様の図の部分を糸目防染によって色面で染め分けるときには、「挿す」と言い、模様の地の部分を染めるときには「引く」と言います。

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この「挿す」や「引く」という言葉は、本当にピタッとくる言葉だと思います。
キモノの模様染め分野では、柄を染めるときには、まさしく「色を挿す」感じです。
地色を染めるときには、腕を大きく使って染めることになるので、「色を引く」という言葉になります。
柄を「挿す」時の道具は、刷毛が普通です。
つまり、「刷毛で色を挿す」ということになります。
もちろん、筆を使って、柄を染める場合もありますが、その場合には、イメージ的には、染めるというよりも、筆で塗っている気持ちになります。
筆には、やはり、筆先があるので、いくら含みが良い状態でも、刷毛のような挿して染める感覚よりも、塗っているように感じてしまいます。
刷毛は面で染めていくことが出来ます。
筆とは異なる使い方になります。
柄を染めるときに刷毛で臨むと、染めるという動作から、生地に色を挿し込んでいく感覚に変わります。
ですから、柄が染まった友禅を、挿し友禅と呼びます。
染め友禅とは呼びません。
もちろん、筆塗り友禅なんて言葉もあり得ません。

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友禅染めは、防染糸目で括られた内側の面に、色を挿すことです。
この色は染料で構成されます。

かつて、江戸時代には、顔料色素を布に固着させることで、柄を表現したことが知られています。現在では、染料を用いて柄を染めています。
唯一、白い色を表す場合にのみ、不透明な顔料であるチタン胡粉(酸化チタンの粉末)を使用し、白い色を得ています。
絹地の場合、生成り色よりも淡い白色を染めることは不可能です。
よって、生地白の生成り色よりも、より白い色を求めたい場合、顔料に頼らざるを得ない状況にあります。

ただし、あくまでも顔料は不透明なものです。
また、水に溶けない性質があり、生地に染まることはありません。
そのためカゼインやアクリル樹脂などの接着剤で固着させる必要があります。
顔料は不透明ですから、染料部分の色に比べてくすんで見えます。
また、接着剤を使うために、生地のしなやかさを阻害します。
よって、顔料を多用すれば、手描き友禅染めが持つ特性の範囲から逸脱してしまいます。
あまり顔料に頼りすぎると、タブー視されることもあるでしょう。
染めるという意味合いが薄れ、顔料を接着するという加飾の意味合いが強くなるからです。
染色品ではなく、顔料プリント品に近くなるからです。

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胡粉顔料を含んだ色を指して、くすんだ色になっているにも関わらず、「むっくりとした色になった」と言って、アピールする方がいらっしゃいます。

顔料が、染料の鮮やかさを押しとどめ、彩度が下がり、発色が悪くなっているにも関わらず、色かさが増えたかのように訴え掛けるのです。

透明感を無くしてしまった残念な状態を隠したいのでしょうか。
あるいは、あたかも付加価値があるかのように、思わせたいのでしょうか。
言葉使いを故意にあいまいにして、けむに巻き、他人の印象の操作を行おうとされるようです。

ちなみに、この「むっくり」という言葉を頻繁に使われる御仁は、何に対しても「むっくり」という言葉で形容され、連呼される傾向にあるようです。「むっくり」=「大安売り」に聞こえてしまいます。


§ おわりに

今回、手描き友禅染めとはどのようなものかという定義を導き出しました。市井の参考書などには、上述とは異なることが記載されているかも知れません。
また、産業の中で長年活躍されているような方々から伝授、教示されたものとかけ離れているところがあるかも知れません。

しかしながら、経済活動や思い込みを優先しない、客観的な立場で、冷静に「手描き友禅染め」を考えると、中々見破ることが出来ない精緻な見せかけが、言葉の端々に隠れているように感じないでしょうか。

これからの世代の方々に向けて、あるいは、それ以上の未来の方々に向けて、少しでもお手伝い出来るように、手描き友禅染めを深く見つめていこうと思います。

〈おしまい〉

PROFILE
中井 亮 | nakai ryou
1966年生まれ。京都在住。
誂呉服模様染め悉皆経営。染色家。
友禅染めを中心に、古典柄から洒落着まで、様々なジャンルの後染めキモノ製作に携わる。
また、中高校生へ基礎美術の指導を行っている。
      
個人作品では、日常で捉えた事物を空想視点から置き換えて再構築し、
「着るキモノから見るキモノへ」を主題に制作する。

#着物

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