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相馬野馬追は千年もの間どのように守られてきたのか?日常の中の野馬追文化を訪ねる旅


7月末に野馬追を観戦し、すっかりその虜になってしまった私たち。
相馬野馬追の凄さは祭りの3日間限定のものではない。その日のために毎日馬を飼い、甲冑の手入れをしている人がいて、野馬追を中心に回っている日常があるのだ。
(そもそも、野馬追自体が有事の際にスムーズに召集し、出陣するための軍事訓練なので当たり前と言えばそうなのであるが。)

ということで、第2回目の相馬藩訪問ツアーは、「馬と甲冑」をテーマに、相馬家代34代相馬行胤さんと相馬野馬追に関係する場所をめぐり、この地にとっての野馬追文化の意味について考えるツアーになった。


甲冑馬具工房あべ(南相馬市原町区)


まずは、鹿島区の甲冑馬具工房あべを訪問。
現在、日本にいる甲冑師は10名ほどと言われるが、阿部さん(雅号・岩井光福)もそのひとりだ。

野馬追当日は400騎もの侍が甲冑を着込んで行列し、御神旗争奪戦では人馬が激しく揉み合うので武具の消耗は免れない。それらの甲冑の修理や新調などを一手に引き受ける甲冑師は、野馬追を支え続ける影の立役者である。
ショーケースの中に飾られているいくつもの甲冑や武具を見せてもらいながらお話を伺った。

甲冑は数千ものパーツを紐などで一つひとつ組み上げてつくられる。良い甲冑は堅牢さがありながらも身体にフィットし、動きやすいのだという。痛んだ箇所があればその部分をほどき、修復し、再度組み上げるが、全て手作りのため、部位によってはとても時間がかかるそうだ。

武具・馬具は新たに制作するのが困難なものもある。例えば、武士が跨る鞍は、曲がるように育てられた特別な木を削ってつくるが、現代ではその木を育てる技術がないため、今あるものを直して大切に使っていくしかないそうだ。

もれなく後継者問題がある。
鞍のように使う人がいなくなれば作る人もいなくなり、失われた技術も途絶え、二度と取り戻せない。相馬野馬追が甲冑文化の継承に多大なる貢献をしていることは明らかだが、野馬追自体も


#今回は特別に、参加者の1人が甲冑を着て記念撮影させてもらった

<info>
甲冑・馬具工房あべ
福島県南相馬市原町区小川町16-3
営業時間:9:00~18:00(不定休)
TEL:0244-22-0334
WEBサイト:http://www.yabusame-1.com/index.html 


絶景の烏崎海岸で乗馬体験〜馬と生きる日常〜

そして、野馬追に欠かせないのが「馬」。車を走らせると、民家のそばに馬小屋がある家がいくつもある。この地域では、野馬追に出陣する馬が家族の一員として飼育されているのだ。

南相馬市博物館にほど近い「ふれあい牧場」では、かつて重賞馬として活躍した競争馬を4頭(ユビキタス、エンゲルグレーゼ、オーブルチェフ、マイネルワグラス)を家族の一因として飼育している※。相馬野馬追は、引退した競走馬のセカンドキャリアの場でもあり、事実、多くの競馬ファンが彼らの活躍を見るために野馬追に訪れているそうだ。


その後、馬チームの一行は昔からサーフィンの名所として名高い鹿島区の烏崎海岸で乗馬体験を行った。
烏崎海岸では実際に野馬追の訓練にも使われており、野馬追直前になると早朝から出場予定の馬を鍛える錬馬(れんば)風景が見られるという。


野馬追の練習場にも使われる海岸で乗馬を楽しんだ

今回の乗馬の手配をしてくださったのは、NPO法人相馬救援隊。相馬行胤さんが代表をつとめ、引退した競走馬を受け入れ、馬事文化や地域振興活動を行なっている。
2日目には、相馬救援隊の拠点(原町区の馬事公苑)を訪問。馬のお世話の体験や、馬の特性を活かした新しい調教の仕方「ホースマンシップ」などを教わった。

殿自ら、相馬救援隊の活動について紹介

※ユビキタスは、2022年12月5日に17歳で死去したとのことです。ご冥福をお祈りします。

<info>
南相馬市ふれあい牧場(門馬光清)
福島県南相馬市原町区牛来字出口82
夏季 9:00~16:00、冬季 9:00~15:00 ※2〜3日前に要事前予約
TEL 0146-43-2121(日高案内所)

烏崎海岸
福島県南相馬市鹿島区烏崎牛島256−2

南相馬市馬事公苑
福島県南相馬市原町区片倉字 畦原4−1
https://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/13/1380/2/2164.html 

全てを失っても野馬追に生きる男 菅野長八さん

旅の最後に私たちが訪ねたのは、相馬野馬追に60年以上出陣し続けている、菅野長八さんのご自宅だった。
家の中には、陰干中の甲冑や陣羽織が所狭しと並べられていた。
長八さんは、2011年東日本大震災の津波で家を流され、お母様、奥様、お子様2人を失った。
菅野長八さんはこの年縮少開催された相馬野馬追に出陣している。


その年の野馬追開催について、『俺に人生で大事なものは家族と野馬追だ。津波で家族を失った今、俺から野馬追まで奪わないでくれ』と当時の総大将である、相馬行胤さんに懇願したそうだ。
そして仲間に声をかけ、集まった数十騎で野馬追は執り行われた。遠くの避難先から駆けつけた者もいたという。

同席していた相馬さんも「津波で多くの人が亡くなり、家もない。『こんな時に野馬追やっている場合か』という思いは自分の中にもあった。そんな時に長八さんから電話がかかってきて、本当に背中を押された。やるしかない、と腹をくくる最後のひと押しになった。」と涙ながらに話していた。
結局、伝統とは死ぬ気で襷をつないできた人なのである。江戸の飢饉、太平洋戦争を乗り越えてきた1000年の歴史は大地震や疫病でも崩すことはできない。

しかし、この相馬野馬追も存続の転換点にあるという。
「今年の騎馬武者は総勢350騎ほど。コロナぶりの有観客開催、大熊から震災ぶりの出陣など嬉しいニュースもあったが、昔とくらべるとまだまだ足りない。これまでの伝統を見直し、若い世代の掘り起こしをしていかないとこの先続いていかなくなってしまう。」

野馬追出陣には地元の騎馬会に所属し、寄り合いに参加することが原則ルール。さらに馬や馬具・甲冑などを手配するとなると手間・費用ともに多大なコストがかかる。
現在、菅野さんは野馬追に出陣したい人の相談を受けたり、口利き役をするなど野馬追文化の存続・発展のために尽力されている。
「野馬追出たい人はいつでも相談しにきてくれ。今はいろんな支援制度もあるし、俺も相談に乗るから。」


とにかく野馬追がもっと盛り上がってほしい!と話す菅野長八さん

長八さんは最後に、過去の野馬追の写真や自分が保有している甲冑や装束を見せてくれた。今も毎日甲冑の陰干しなどの手入れを怠らず、衣装のアイロンかけも自ら行っている。
悲しみを抱えながらも、野馬追について語る長八さんの目はこどものようにキラキラしていた。


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