見出し画像

みんな「失敗する」って言う。地方広告業務範囲③

急に新規事業の立ち上げをすることになった新入りコピーライター。困って本屋さんに行ってみたものの、2002年当時は「事業の作り方」なんて本は見当たりません。(2020年のいまはそんな本が書店で山積み。)

私はむしろ、別コーナーにある広告業界誌『宣伝会議』や『ブレーン』に載っているような仕事がしたかった。

「せめて事業ではなくTV番組にしませんか?そしたら“制作”というクリエイティブ仕事の範囲内でできるのに…」。できない理由を考えうる限り並べて、何日も社内相談を重ねて。並行してお客様とも話し合いを重ね、進むべき道を探していました。

とある残業の晩、営業さんとの打ち合わせ中「もうこれ、やらないっていう話はないんですよね」と言った私に、営業さんが答えました。「ないでしょうね」。

このとき、腹をくくりました。

私も受注側として、いっぱい失敗する理由を考えた。でもそれ以上にお客様は、社内でいっぱい「ダメ出しの嵐」に遭遇しているはずなんだ。それを越えて相手は「やる」って言っているんだ。もう逃げる道はない。やるしかない。

そもそもこの「瓢箪から駒」こそが、自主提案の醍醐味なのです。(これはあとで思ったことだけど。)

まずは、自分が何を分かっていないのかすら分からなかったので、状況の整理をすることにしました。30歳にして初めて、MECE、4P、3Cでの情報整理や、ディシジョンツリーで優先順位をつける、という考え方を知りました。
なぜ今まで知らなかったのか?それは「マーケの人の仕事」と思っていたからです。私はコピーライターだったし・・・。
ところが入社した広告代理店にはマーケティング部署がありません。その代わり、社員全員が、営業もコピーライターもイベントプランナーもデザイナーも、ひととおりのマーケティングの知識を持っているのでした。私はここから追いつかねばならない。

やることは膨大にありました。コンセプトづくり。チーム編成、事務局体制、説明行脚、ルールづくりなどのオペレーション設計。社内稟議用のプレゼン資料づくり。各協力企業への説明会。
並行してクリエイティブ業。事業名称決定、ロゴづくり、コミュニケーションの世界観づくり、ユーザーが情報を得て申し込めるWEB設計、告知…ようやくここでTVCMや新聞広告、リーフレットなど広告の出番です。

私たち3人ではまかないきれないので、外部の方に事務局のお仕事をお願いすることになりました。事業の大枠が決まり、いよいよローンチに向けて本格始動というところで、あの言い出しっぺの営業局長が、なんと「転職する」と言うのです。。。はァ?

腹くくったんは、私たちだけだったんかー!

深夜の会議室に営業局長を呼び出して、担当営業さんと私で詰め寄りました。しかし文句を言ったところで、去る人は去るのです。なので途中から詰め寄るよりも、今後営業局長がいなくても仕事をどう進めるかという打ち合わせに…。それだけ状況は切羽詰まっていました。願わくば、つぎの上司がリーダーシップを発揮してくれんことを!

営業局長の退任の挨拶と、新しく責任者として上司が挨拶をしにお客様を訪問した日。上司は実情に驚いたようすでした。帰ってきて言われたのは「本当にやるの、これ。絶対に失敗する」。

だから、失敗しないよう、いま頑張っているんです!

いや、私は叫びませんでしたが、思ったのはこんなことでした。

「そうか、みんな新しいことには基本、『失敗する』って言うんだ」
「でもそう言う人は、当事者の私たちほど、何が失敗なのかを突き詰めて考えているわけじゃない」
「つまり、分からないのに、分からないからこそ、そう言っているんだ」
「傍観者こそ、失敗するって言うんだ」
要するに、新しいことに対する拒否反応は、人体における脊髄反射みたいなものだなと。大脳は通過していない。

そんな声に右往左往してる暇が私にあるかな? ないのです。彼らが言う失敗の理由、その議論は、私たちの中ではもう終わったのです。仕事で「悟り」というのがあるとしたら私の場合はこの瞬間でした。相手を責める気も出てきませんでした。目の前の人はただ怖がっているだけなのです。私もそうだったから。
そして、頼れる人はもういないんだ、という事実を、静かに受け入れました。

その時私は妊娠3か月だと分かったところでした。事業立ち上げの忙しさで全然気づいていませんでした。
新規事業立ち上げの成功は不確定なうえに、頼れるのは自分とチームメンバーだけ。出産という初めての経験と急激に変わりはじめた体調も気がかりでした。

2003年5月。先行きはまったく見えていませんでした。事業スタートは9月です。
(つづきます。ゴメン長くて!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?