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逃げてた仕事を追いかける。地方広告業務範囲④

妊娠が分かった5月から事業開始の9月まで何をしていたか、怒涛過ぎて記憶は正直あいまいです。

覚えているのは最後の1か月、大きなおなかでお客様のところに毎日通っていたこと。「ここで産むなよ!」と冗談でよく言われていて、私も「ここで産まれたら名前は『あかり』ですかね」と返していました。夜遅くなった帰り際、お客様がそっとタクシーチケットを渡して「これ使って。安全に帰ってください」と言ってくださることもありました。ローンチ前の1週間はお客様企業の社員のように、そこの会社に通って働きました。

何よりも、お客様、事務局としてお仕事を引き受けてくださった方たち、そして代理店で仕事をするのも事業開発するのも初めてという私をヘルプし一緒にお仕事をしてくれた担当営業さん。当事者の方たちがみんな素晴らしい仕事人でした。それぞれの役割で「一丸となる」という言葉がぴったりで、誰が社外/社内なんて関係なかった。

初めての事業開発、不確実な中を進めていかないといけない私たち。じっくり考えるヒマはないので、走りながらいろんな知恵を出してきました。その中で当時「なるほど」と思ったことを3つ挙げます。

不確実の中を進むために役立った方法

1.始める前から出口戦略を決める
「この事業はX年経過でいったん終了する。それまでは続ける」と最初に決めておく。私たちの場合は仮決めにしかすぎませんでした。仮決めでもいったん決めると時間軸がはっきりするので、先が見えない怖さが和らぎ、前向きに考えられるようになる。

2.構想段階からITの専門家を企画側のチームに入れる
IT知識がなければ何ができるのかすら分からない。初期段階からエキスパートがいたら話がぐんと広がる。当時は人探しに苦労しましたが、今は当たり前のプロセスになりましたね。今後はこのITがAIになるのではないでしょうか。

3.不確定要素が多い中で人は雇わない
その代わり、仕事のできる外注先企業の方に、本業ではないけれども事務局を兼務する契約をしていただけないかお願いしてみる。
私たちの場合、とてもよいお会社にお願いすることができました。おふたりのライターさんだったのですが、この方たちの確かで丁寧なお仕事は、不安な私の心のよりどころになりました。
特におひとりはお母さんライターでもあったので、妊娠や出産についていろいろと教えてくださったし、私の体調を気にかけてくださっていました。この事務局の方には非常に恵まれていました。

リーダーの部下の守り方からも学ぶ

事業開発は、他社のリーダーの仕事のしかたを間近で学ぶ機会でもあります。

たとえば、部下の仕事のやり方に外部から物言いをつけられた時。お客様のチームリーダーは「それはそうなのかもしれないが、あなたに私の部下を貶める権利はない」とはっきり言って、部下を守っていました。
リーダーの方は高知出身の豪快な方で、話すととっても面白いけれど、お仕事では気を抜けない怖い存在でもありました。部下にも厳しかったと思うのですが、非常に慕われていらっしゃった。それは、一貫したポリシーのもと仕事をしているからで、いざという時には守ってくれる安心感があるからなのだろうと見ていました。
事業ローンチした後には「よくやってくれた、ありがとう。さすが薩長土肥やな」と、山口出身の私にねぎらいの言葉をかけてくださいました。

ローンチして1週間後に私は産休に入りました。産休第1日目、高松のホテルで(私が最初にお仕事したホテルです)お客様のみなさんが私の出産壮行ランチ会を開いてくださいました。それまでの怒涛の日々がウソのように、優雅にフランス料理をいただいたのでした。

その後、子どもが無事に生まれた時には、病院まで担当営業さんと事務局のお二人が会いに来てくださいました。(この3人は、お仕事関係で私のスッピンを見た唯一の方たちです)

嵐と谷の先には放牧地が

「新規事業開発をゼロからやった人は、私と営業さんだけ。この経験はむしろ貴重なのではないか」と思うようになってきた私。今後同じような仕事が来てももう怖くない。

「失敗するよ」の忠告の嵐や、「無理だ」の谷を越えた先は、険しい山が待っているのではなく、新しい放牧地が広がっていました。しかもまだ誰もいません。

「私コピーライターなんで」と自分の枠を狭めていてはだめなのだ。上司がCMの話をしながら事業開発のアイデアを出したみたいに、広い意味でクリエイティブになりたいと思いました。

広告表現ばかりを頑張っても、仕事として「お買い上げ」いただけないんだとも思いました。お買い上げいただけるのは、企業のお困りごとを解決するものだけ。ビジネスの仕組みをもっと理解できるようになり、クリエイティブな解決策を出したいと思うようになりました。

「効く広告」ってそういう中から生まれるんじゃないかと。

こうやって地方広告は、私の業務範囲を少しずつ広げる経験をさせてくれるのでした。1人で何でもしないといけないのが地方広告。それは時として「コピーライターが何でここまで!」と思うものでもあるけれど、経験値を否応なく上げてくれる。新しいものへの恐怖にも免疫がつきました。

コピーは自分のコアコンピタンスだけども、コピーだけ書いていたいという思いは薄れました。

純粋な広告が1を100や1000にする仕事とするなら、広告以前のクリエイティブ業務は0を1にするような仕事だと思ったのですが、いま、そんなお仕事に携わっています。これは間違いなく、地方に来たからできるようになったことでした。

「いやだ」と思ったり、怖くて仕方なかったことが、こうも変わるかと思うと…。次に私たちに来る「変な依頼」は、新たな世界を広げてくれるものなのかもしれません。

(この回おわり。お付き合いいただいてありがとうございました。)

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