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一万年と二千年前から帰りたい

『君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない』(AKINO・創聖のアクエリオン)

「傾国の美女」という言い回しは、ほとんどの人の知るところだと思う。中学時代、漢文の授業でその言葉を聞いたとき、美しさの表現にこんなアプローチがあるのかと感心した。その美しさで国が傾く。実際「国」は傾かなかったとしても、自分という「国」が傾けば、もうあの人は傾国の美人だ。
この言葉は私の趣味にかなり影響を及ぼしたようで、高校時代まで続いた漢文の授業は、わりと好きな時間であった記憶がある。

約10年後、労働者となった私は、そのことを思い出した。そして「漢検の勉強をしよう」と決意した。

当時の私は、時間に追われているというより引きずられていると言ったほうが正しいくらいに、労働者だった。やらないとできるようにならないことは分かっているが、今の自分が抱えていいとは思えないような仕事に一生懸命食らいついている状態は、健全とは言えなかった。文字通り、寝ても起きても仕事のことを考えていて、笑い話にするのであれば、恋といっても差し支えなかった。ずっと交感神経がオンになっていることはよく分かっていたので、気持ちを切り替える努力をしてみた。漫画を読んだり、ランニングをしたり、イカになってシャケを撃退したり。最初は効果があったのだが、脳内キャパ戦争は、結局いつも仕事が勝利した。まるで飲み続けていると効かなくなる薬のように。
本気で集中できること、強制的に脳から仕事を切り離せることってなんだろう?と考えたとき、「勉強」しか出てこなかった自分にいささか動揺した。君、学生時代、受験勉強しかしてこなかったんだね。はい、おっしゃる通りでございます。

「勉強」をすることは決定したが、何をするか?まず仕事を思い出させるものは論外だ。よって簿記対策や外国語学習のようないわゆる「社会人の勉強」は不可。しかし、目指すゴールは欲しい。そして冒頭に戻る。漢検を受けよう。半年後にゴールを設定し、準一級を受けることにした。なぜなら英検準一級を持っていたから。万が一転職するときには、面接のネタにしてやる。

朝30分、夜30分の計1時間の勉強を半年間続けた。もちろんやらなかった日もあったけれど、思い返せば何かに取り憑かれていたとしか思えないくらいに、真面目に続けることができた。まあある意味、仕事から逃げたいという気持ちには取り憑かれていた。準一級の出題範囲に含まれる語彙は、普通に生活していると出会えないようなものばかりだった。特にことわざと四字熟語は、中国の香りがして、非常に面白く学ぶことができた。

例えば「沈魚落雁」とは、恥ずかしさで魚は水中に沈み、空飛ぶ雁は驚いて落ちるほど美しい人を形容する四字熟語だ(この意味は転用であるらしいが)。「傾国」以来の衝撃だった。美しい人を表現する方法は、きっと世界中に無数にあるに違いない。それなら私は「公司爆炸」系の美人を求む。魚を沈め、雁を落とし、国を傾けるような美人なら、会社を爆発させることも造作ないだろう。
また「帰心矢の如し」とは、自宅や故郷に帰りたいという気持ちが非常に強いさまを示すことわざらしい。このことわざがいつ生まれたのかは知らないが、仮に二千年前だとしてみよう。なぜ人間は、二千年前から帰りたいと思い続けながら、働き続けているのだろう?

といったように、漢検の勉強でさえ私と仕事を完全に切り離すことはできなかったのだが、面白い!という気持ちが消えなかったので、勉強し続けた。

本番、最後の問題で「玉の『台』」の読みを問われ、全く分からなかったので帰り道で調べた。分厚いテキストにも登場していなかったそれは「うてな」と読むらしい。「少女革命ウテナ」の「ウテナ」はキラキラネームの端緒ではなく、由緒ある古語だった。この半年間はこの学びのためにあったとしても、まあいっかと思ったが、合格していた。

その後、一切漢検には触れていないけれど、仕事を頭から切り離せるようになった。
単に労働者であることに慣れたのか、漢検のおかげなのかは分からない。


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