引き出しの手前の方に、「引き出しの手前の方」とかいう言葉がある


ちょっと前に一緒に仕事をしている人にちょっと怒られて、それについてわたしには「わかります、反省」という心と「いやでもそれはだってさ〜」という心が半分ずつあり、だから少し言い訳をしてしまって、そのこと自体は本音でもあったし伝えたことにも意味はあったと思いたくは思っているけど、でもやっぱり言い訳をしたことへの後悔が大きくてへこんだ。なぜすっきりと「はいすみません」と言えなかったのか、という己の未熟さへの後悔が大きくて下を向いていたら、怒ってきた人が「テンション下がった?ごめん」と言ってきて、それがすごく嫌だった、という話を書く。

怒ってきた、とは言ってもその人はそのことをわたしに伝える前に「いい話じゃないんだけど」と言ってくれたし、おそらく本人が感じているであろう不満の大きさからすればかなり優しい言い方でそれを伝えてくれたし、態度としては怒っている時間とかはなくて、ただ単純にわたしの仕事のやり方に対して不満がありそれを解消したいというだけのことだった、それは感情の爆発ではなかったし極めて理性的な振る舞いで、わたしはそのことについては大きな感謝!といった気持ちではある。

ただでも、そもそもこの問題自体がわたしとその人とのものの考え方や感じ方があまりにも違っているということに起因するものであったこともあって、「テンション下がった?」と言われたのがどうにもやるせなくてわたしは余計に塞ぎ込んでしまい、相手の極めて理性的な振る舞いとは反対にかなり感情で動いてしまう結果となったし、そのことは余計にわたしに己の未熟さを感じさせ自省を助長させる結果となった。負のスパイラル。感情に正直でいたいわたしと感情的であることを否定するわたしが常に心の中に同居しており、まだ一度も折り合いをつけられずにいる。

「テンション下がった?」に関する嫌さを、系統立てて説明するのが難しい。
わたしは決して怒られて項垂れているわけではないし、あなたに感情を負の方向に動かされて苛立っているのでもない。わたしが沈んでみえるのだとすればそれはあなたの指摘が妥当でだからこそ反省しているから、であったり、しかし一部自分の中には反論したい部分もありそれをうまく伝えられずに困っているから、であったり、いま突然解消できることでない問題を提示されて途方に暮れているから、であったりその理由は一つではなかったけれど、でもそのどれもが「テンション下がった」などという言葉に代替される感情ではなかった。と思う。少なくともわたしは。わたしはこういうときにはその言葉は使わない。
まぁ、わたしが沈んだように見えてそのことを「テンション下がった」と表しているのならそれはそうだろうとは思うが、だとすればわたしはどうしたらよかったのだろう。わたしの振る舞いに対してこの人が良くないと指摘をして、わたしの心が沈んだとしてそれは当たり前のことで、わたしにわかってほしいからそれを伝えたわけで、ならばあなたの発言でわたしのテンションが下がることはもちろんのことで、あなたが謝ることでは全くないではないか。ある種、そのためにあなたは指摘をしたのではないか。わたしがその意見をきちんと受け止めて反省して「テンション下がった」としてそれはあなたのしたいことだったのではないか。なんで謝るのか。わたしが平気で「はいはーい」などと返事をした方が良かったのだろうか。

とか書いてみるとやはりわたしは怒っているので、やはりこのことに対して腹を立てているのだ。そう言われたことが嫌だったことは確かだ。

「テンション下がった」という言葉をわたしが使うとすれば、たとえば「きょうマスカラしてくるの忘れた!テンション下がるわ〜」とか、「いつものランチセット売り切れでテンション下がった」とか。まぁ考えてみて思ったけどわたしは「テンション下がった」という言葉は基本的に使わない。いまの例も、こういうときならわかるけど、程度のもので、自分だったらもっと違う言い方をすると思う。「きょうマスカラしてくるの忘れちゃったんだよね😢」それで十分だし。
いずれにしても、なんだろう、やはりこれは「ごきげん」に関係した言葉で、だから頭を使ってどうこうということではなく、気持ちだけに関わる言葉だから、仕事の話の中で持ち出された時に嫌だったのかもしれない。ちゃんと頭を使って考えていることがたくさんあって、その中には自省も、配慮も、しかるべき対処もたくさんあって、それなのにいきなり「テンション下がった」などという言い方をされたらやはり、そんなのは問題じゃない、その指摘はまったくもって妥当ではない!仮にそうだとして、だったらなんなんだ!と思うよな。思うよ。思うだろうが。

しかしまぁ、向こうだっておそらく別にわたしにここまで考えられて憤られると思ってその言葉を使ったわけではないだろう(と思いたい)。多分、ただわたしが悲しい顔をしたから、悲しい顔をさせてごめんと言ってくれただけなのだ。わたしだって「仕事終わりに嫌な気持ちにさせてごめんね」だったらこんなに突っかかってない。同じ意味だったとしても(言葉通りの意味で、わたしをより傷つけるための発言だった可能性もゼロではないけど)、同じことを表すために選ぶ言葉の違いに、そういう小さなわかりあえなさに、日々ちょっとずつ絶望している。苦しい。この人はそれを表すために「テンション下がった」を使うんだ、「テンション下がった」が引き出しの手前の方にある人なんだ。わたしの使わない言葉を使って生きている人なんだ。こういうのをちゃんと均して、慣らしていかなくてはならないという事実に、絶望してしまう。わかりあう必要はないのだとしても、わかり合える気がしないとやはり絶望してしまう。言葉は思考だし、使う言葉があまりにも違うから、同じことを考えられていないんだ、だからこそこうして仕事にも支障が出るんだ、と思ったら、なんだかへとへとになってしまった。

使う言葉のワードローブは、服と一緒でそれぞれのものだし、系統が揃っていたり、いなかったり、だから似ている人がいたり、奇抜な人がいたり、それぞれで、自由で、わたしだって相当好き勝手個性的なファッションで言葉を使ってて、だから自分と一緒じゃないからって絶望するなんて、こともあろうに「絶望」をするなんて本当に馬鹿げていて、でもそれでもそのがっかりを、徒労を、へとへとを、避けることもやめることもできない。結局そうやって問題は己の未熟さに帰着し、思考は自省へと導かれ、また悲しい顔をして、「テンション下がった?」などと聞かれてしまう。

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