見出し画像

スピリチュアルブーム

現代のスピリチュアルブームとは、1960年代からアメリカで巻き起こった「ニューエイジ」運動を日本に輸入したものであるが、これは神智学協会の教義から派生したものである。

神智学協会の創立者である、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky, 後1831–1891年)の代表作「シークレット・ドクトリン」は、スピリチュアルの聖典とも呼べる書物である。

スピリチュアルの教えでは、大本教の万教同源のように、世にあるあらゆる教えはすべて同じ源であると主張し、すべての宗教を包括した真理(ワンネス)を目指すのであるが、実は一つだけどうしても包括できない書物が存在する。

それが聖書である。

' 真理に勝る宗教なし "をモットーに掲げた神智学協会は「真理」と呼ばれる普遍的な思想で、聖書を含めて世界のすべての宗教を統合しようとしたが、聖書だけはその正統解釈を用いると、どうしてもその真理とやらに統合することができないのだ。すなわち水と油である。

以下はシークレット・ドクトリンの中の一部であるが、神智学協会は教会を批判し、聖書の正統教義及びその解釈を否定、神秘主義的な再解釈を試みていることがお分かり頂けるであろう。

引用 ー

神聖で十分に意識のある神、それどころか、最高の神になるためには、最初の霊的な"知性のある実在"は人間段階を通らねばならないとシークレット・ドクトリンは教える。p185

このように、人間がエロヒムすなわちディヤーニ達の一人のようになるのは、無知を追い出す智慧の木の実を食べることによる。そして一たびその世界に至れば、あらゆるヒエラルキアには統一の精神、完全な調和がその人の上に降りて来て、どんな時にもその人を保護するに違いない。p398

"魔は神の裏地である"(悪は善の裏面)と言う秘教学者は、二つの別の実在ではなく同じ統一体の二つの相、あるいは二つの側面を示している。神学の描写するような大天使と比べると、最良の人間でさえ悪魔のように見える。だから、その原型よりもずっと深く物質に陥った"複体"をもっと低く評価するにはある種の道理がある。しかし彼等を悪魔と見なすわけにはいかない。にもかかわらずローマカトリック教会はあらゆる道理に逆らって悪魔だと主張し続ける。p347

悪魔は神の逆さである。教会では今、悪魔は暗黒であると言われている。だが、聖書では、悪魔は“神の息子”と言われ(ヨブ記1の6)、明けの明星ルシファーと言われている(イザヤ書14の12)。混沌の深みから躍り出た第一大天使がルクス(ルシファー)、“朝の輝かしい息子”すなわちマンヴァンタラの息子と言われた理由の裏には、独断的で猾な思想体系がある。第一大天使は教会によってルシファー(サタン)に変えられた。それは彼がエホバよりも高く年上であったからで、新しい教義の犠牲にされなければならなかったのである(『シークレット・ドクトリン』(英語版)2巻参照)

彼は息子なる太陽として輝き出る。彼は燃えるような神聖な智慧の龍である。
“一なるもの”と龍は民族それぞれのロゴス達に関連して、古代人達が使った表現である。エホバも秘教的にはエロヒムとしてイヴを誘惑した蛇、または龍である。龍は原初の原則である“アストラル光”の古い象徴であって、アストラル光は"混沌の智慧"である。
古代哲学は善も悪も基本的な独立した力とは認めずに、永遠に普遍的完成である絶対的全から初めて純粋な光が次第に形体へと凝縮し、ついには物質すなわち悪になるという自然の進化の過程を遡って善悪の源を探ったのである。哲学的で非常に科学的なこの龍の象徴を“悪魔”と呼んで馬鹿馬鹿しい迷信に堕したのは、初期の無知なキリスト教の神父達であった。p138

ー 引用終了

上記は一部であり、挙げ始めればキリがないのだが、結論から言えばシークレット・ドクトリンは聖書の正統教義を否定する。

第一大天使は教会によってサタン(ルシファー)に変えられたと主張し、聖書における罪、すなわち善悪の知識の木の実を食べることを勧め、その神聖な知識によって人間が神になることが出来ると主張する。

創世記に出てくる蛇すなわちサタンは、シークレット・ドクトリンでは神聖視される。これを悪魔呼ばわりしたのは馬鹿馬鹿しいキリスト教の神父達であるというわけである。

遡ること約2,000年前、初代教会に徹底的に対立した勢力であるグノーシス主義、すなわち「知識」主義は、エジプトのアレクサンドリアを中心として栄えた思想または宗教であるが、このグノーシス主義もまた聖書の神を悪神として、この蛇を神とした。善悪の反転である。

引用 ー

ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
(イザヤ書 5章20節  聖書 新改訳)

ー 引用ここまで

グノーシス主義にとっては、この蛇こそが救世主であり、蛇のもたらす霊的知識によって真理(と呼ばれるもの)を感得して救われるという完全なる反聖書、反キリストの教えが説かれているが、彼らの一部は自分達の方が「真のキリスト教」だと自負していた。

このグノーシス主義は、聖書の中にも登場するが、聖書はこのグノーシス主義(霊知,gnosis)を避けなさいと教えている。

引用 ー

テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。
これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
(テモテへの手紙 第一 6章20~21節 聖書新改訳)

ー 引用ここまで

上記に示したシークレット・ドクトリンの教えとは、遡ればグノーシス主義に辿り着くのである。

歴史は繰り返している。
新しいものはない。
そう見えるだけだ。

"昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。"
伝道者の書 1章9~11節

スピリチュアルの教えとは、初代教会に対立した究極の反対論であるグノーシス主義の継承であり、すべてを包括する真理と謳いながら、聖書と聖書の神だけは絶対に否定する「反キリスト」の教えであることは容易に結論づけることが出来るだろう。

ここではあまり深くは掘り下げないが、全体主義の世界支配の手法とは、このシークレット・ドクトリンの宗教統合を用いるのである。

彼らが拝んできた神とは、聖書に登場するあの古い蛇のことなのである。

神だと思って拝んでいたものが、実はそうではなかったということもまた、人類の歴史において今日に至ってもずっと繰り返していることだ。

"しかし、驚くには及びません。
サタンさえ光の御使いに変装するのです。"
コリント人への手紙 第二 11章14節

人類は今もなお創世記の罪を繰り返している。
そろそろ人類は歴史的失敗から学ばなければならない。

その長きに渡る罪を悔い改め、神に立ち返る者は本当に幸いである。

.

参考文献:
・シークレット・ドクトリン 1 (宇宙発生論) (神秘学叢書 ; 1),H.P.ブラヴァツキー 著, 人智学研究会 訳,人智学研究会, 1978
・シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上,H.P.ブラヴァツキー 著, 田中恵美子, ジェフ・クラーク 訳,神智学協会ニッポン・ロッジ, 1989.10
・シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上 改訂版,H.P. ブラヴァツキー 著, 田中恵美子, ジェフ・クラーク 訳,宇宙パブリッシング, 2013.4
・シークレット・ドクトリンを読む,ヘレナ・P.ブラヴァツキー 著, 東條真人 編訳,出帆新社, 2001.5
・原始キリスト教とグノーシス主義,荒井献 著,岩波書店, 1971
・グノーシス : 古代キリスト教の<異端思想> ,筒井賢治 著,講談社, 2004.10
・グノーシス主義の思想 : 〈父〉というフィクション,大田俊寛 著,春秋社, 2009.11
・グノーシスの変容 : ナグ・ハマディ文書・チャコス文書,荒井献, 大貫隆 編訳,岩波書店, 2010.12
・聖書 : 新改訳 3版,新改訳聖書刊行会 訳,日本聖書刊行会, 2003.11

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?