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稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――⑧

前回はこちら。


8. (泣かせた)涙の数だけ強くなれるモラさん

 モラと関わったことのある人なら、何度か泣かされた経験はあるだろう。勿論、誰かと深く付き合うということは、親子でも友達でも時に不快な出来事を伴うし、泣かせたり泣かされたりすることも少しはあるだろう。だが、何の縁か偶然この記事にたどり着いて、モラハラを対岸の火事だと思っている誰かがいて、その人に今交際相手がいて、二度、三度、四度……と付き合いが長くなるにつれて何度も涙をこぼすようなことがあったならば、それは本当に普通のことなのか、少し考えて欲しい。
 結婚してしまえば、確かに、色々な事情があるから、泣かされたから別れよう!と決意するのは難しいかも知れない。が、少なくとも、交際の時点では、嫌いになったら別れる自由がある。お互い好きで付き合っているはずなのに、お互いに相手のことが大切であるはずなのに、あなたがしょっちゅう泣かされているなんてことがあったら、それは絶対におかしい。だって、大切な人を泣かせたいものだろうか?愛している相手には、無理に作ったのではない、自然と笑顔が出てくるような穏やかな生活を送っていてほしいものではないか?心から愛していたら、仮に相手の心が自分から離れていても、本気で幸せを願うことができるのと同じように。なんでもいいから自分の傍に置いておきたい、泣かせても苦しめても自分と一緒にいてくれなければ嫌だなんていうのは、幼児の我儘と変わらない。でも、守るべき存在である幼児が庇護者を求める愛に罪はなく、傷つける相手もいないのとは異なって、モラの愛は身近な人間を苦しめてこそ成立する類のものだ。ハッキリ言うと、彼らに人と関わる資格はない。でも、人と関わるの好きなんだよねやつら……人に依存してるからね。モラキャップとモラジェット、誰か開発してくれませんかね?え、男性の半数以上が死ぬって?仕方ない。自然淘汰です。

・お前の友達より俺を優先しろ!のケース

 私には、高校生の時からの友人がいる。お互い色々あって、顔を合わせる機会は持てていないが、彼女とは今も交流があり、親友と友人で分けるのはあまり好きではないが、敢えて親友は誰?と言われれば思い浮かぶような存在だ。

 さて、彼女のほうでは怒っていないそうだが、私としては彼女に頭が上がらないし、何よりも稲田に腹を立てている出来事の一つを書く。

 モラ夫あるあるで、配偶者の人間関係を制限したがるというものが挙げられるが、稲田にもその傾向があったという証左にもなる出来事だろう。まあ、稲田の場合、意図して私の人間関係を狭めようとしたというよりは、私を思い通りにしたい余りに、結果的に私の人間関係を尊重することを怠ったともいえるのだろうが、そもそも、人として、近しい人間の近しい人たちに敬意を払えないのは大問題である。もし、偶然この記事を読んだどこかのあなたに嫉妬深い恋人がいて、男女問わず、友人よりも自分を優先させようとする人ならば、それは愛情の強いことを意味しているのではなく、単に支配欲が強く、「僕ちゃんだけを見て!僕ちゃんから離れないで!僕ちゃんだけに優しい君でいて!」という幼稚なメンタルの人間であり、いい歳してそれでは成長も期待できないので、天地開闢以前の混沌の中に還してあげてほしい。

 一浪して大学に入り、二年目。五月だったか、六月だったか、兎に角、彼女と久々に会って飲んで話そうという運びになり、私はとても楽しみにしていた。木曜日だったことだけはよく覚えている。その日の授業は確か午前中か、兎に角早い時間で全て終わっていて、夜はフリーだったのだが、翌日はまた朝から授業だったから、夕方から会ってあまり遅くならない内に解散する予定にしていたように思う。さて、彼女と会うために、高田馬場に早めに着いて過ごしていた時、稲田から携帯に着信があった。何か用事かと思い出ると、稲田は、今日、これから会いたいと言ってきた。私は突然会いたいと言われるのが元々苦手で、決まっていた用事を覆されるのが大嫌いなのだが、それはそれ、勿論、古くからの友達と久しぶりに会うから無理だと伝えた。しかし、稲田は引き下がらない。

 日にち変えられないの?(だから、お互いに予定を合わせてやっと実現した日程なんですが)今日、どうしても会いたい。(同じ大学の同じコースで同じ授業出てるんだからいつでも会えますが……)じゃあ、終わってからでもいいから。(一体、私は夜中まで帰らせて貰えないのですか?)

 ()内の反論を逐一することは出来なかったが、私はどうにか稲田に納得してもらって、彼女との約束は死守しようとした。だが、怒ったり厳しいことを言ったりすれば、折角私とこんなに会いたいと思ってくれている純粋な彼の心を傷つけてしまう……という超絶無用な心配をしてしまったのだ。こういう優しさにモラは付け込んでくるんだよね!よく考えろよ、大事な恋人困らせて平気とか、クズ丸出しだろ!生きてるだけでクズ陳列罪だよもう。モラはボコッて傷だらけにしてから、よく塩をもみこんで漬けておいた後なら、なんとか人前に出してもいいかも知れないが、基本的に社会に出てこなくていい。

 電話をしている間にも約束の時間は迫ってくるし、友達も彼氏も大事だ……と解決策が見いだせず頭から煙が出始めた頃、私の脳はバグり、愚策を考え付いた。

 仕方ない、親友に彼氏を紹介するという作戦でいこう。

 バカだったとは思うが、やっぱりどう考えても稲田が悪い。兎に角、会える時間になったら連絡すると告げて、私は彼女との待ち合わせをしているお店に向かい、無事に再会を喜び、酒を飲み、話に花を咲かせた――が、心の裏側には大きな荷物を抱えていた。

――稲田さん、適当なタイミングで呼ばなきゃ。

 そして、致し方なく、彼女に、彼氏を同席させることを伝えると、彼女は驚きながらも怒ったりはせず、快諾した。マジでマジで、私に勿体ないくらい寛容な人なのだ。

 さて、現れた稲田は、聊か不服げには見えたが、一応外面の良いモラ気質を発揮して、それなりに場になじもうとして、好青年を演じた。彼女から後に、ソラリスの彼氏は優しそうな人だと言われた。実際、優しそうだし、普段は概ね優しかった――度が過ぎるほどに優しい時もあった。どこで読んだのかよくわからないような甘いセリフも吐かれた。数少ない恋愛経験を元に断言することが許して貰えるのなら、大仰な甘いセリフを真顔で口にする男は多分地雷で、あまりロマンチックなことを言ったりはできなくとも、きちんと連絡をするとか相手の都合に配慮するとか、地味な気遣いが出来る人のほうが絶対にまともな男だろうと思う。

 話が大いにずれない内に戻ると、稲田が本音を垣間見せたのは解散する時だ。私と彼女が駅で別れの挨拶を済ませるのも待たず、「じゃ」と冷たく乾いた声で言い放ち、そそくさと彼は去った。あれだけ私に会いたがって、引き下がらなかったのに、突然冷たくなった。少しうすら寒いものを感じたが、このうすら寒さは錯覚ではなかった。

 翌日、授業で顔を合わせたかどうかの記憶は微妙だが、兎に角本来なら一緒の授業があり、そのまま流れで昼食を済ますのが習慣だった。稲田は時々授業はさぼったが、私には会いに来た。多分この日は授業には出ていて、終了後、普段通り合流しようとしたら、奇妙な扱いを受けたのだったと思う。まず、ろくに目を合わせてくれないし、変に不愛想だ。仏頂面で、殆ど受け答えはしない。だが、一緒にはいて、こんな重い空気で一緒にいるのは正直嫌だなと感じた気がするが、物理的にはくっついてくるので仕方がない。なぜ、突然微妙に無視されるのか、理解ができない。

――私、何かしたかな?まさか昨日、稲田さんの希望通りにしなかったのが不満で……いやいやいや、子供じゃあるまいし、それはないでしょ!そんな幼稚な人のはずないじゃん

 そんな幼稚な人なんだよ、バカ野郎!!!(涙目)

 私が好きになった男が、サークルできらきら輝いていた先輩が、そんな幼稚なはずはないという希望的観測から別に答えを探した。黙りこくっている彼に気を遣い、優しく言葉を選びながら、お弁当を買って公園に行ったのだったと思う。そこで思い至ったのは、稲田は実家に猫を飼っているというから、猫ちゃんにでも何かあったのかという、かなり無理のある結論であった。それを尋ねると、稲田は生気のないぼーっとした顔つきながら困惑したように首をふり、やがて……涙を流した。私は茫然とした。しかしモラってよく泣くよな。

 そこで、彼は自分の心情を吐露した――正しく、私が、彼を優先してあげられなかったことへの不満だった。だが、そうはいっても、自分が我儘で困らせているのは理解していたから、こんな風になっていて恥ずかしいとか何とか、色々言った気もするが、どういうわけか。

 最後に、泣きながら謝罪していたのは私のほうだった

 オイ稲田、てめーみたいなクズに私が悪くないことで謝罪させやがってよー、慰謝料出せや(本気)。……というのが今の私の心情である。私の涙で、稲田は随分良い気持ちになったことであろう。兎も角、稲田には「理屈的には確かに正しくないかも知れないけど、俺の気持ちは凄い強いものだから受け止められるべき」という絶対の基準が存在していて、自分にどんなに非があってもその非を認めないというのが仮に定型モラだとすると、稲田はややズレて、「非はあるかも知れないけど俺の気持ちが一番大事」という宗教の信徒だった。この時もそうだし、他にもあったのだが、最後には伝家の宝刀「でも、俺はこうしたかったんだ!」が翳されてしまうので、論理で戦える相手ではない。そんな、そもそもヒットポイントを削れない仕様になっている敵をどうやって倒すのかと問われれば、この敵、人前に出すと紙より脆いんで、戦いは公衆の面前で行うのがお勧めだ。

 

・×素敵な俺の全てをあげたい! 〇ありのままのクズな俺の全てを受け入れてくれよ!

 さて、これについては、前回までの演劇云々を知ったうえで読んでもらった方が理解が深まると思うが、取り敢えずああいうトラブルがあったという共通認識を持ったものとして書いていく。

 ある時、うちに夕飯から遊びに来ることが決まっていた稲田だったが、丁度、稲田がお世話になった先輩カップルが結婚式を挙げる日に重なってしまった。なんだかんだで、サークル内カップルは必ずいたし、中にはうまくいって子供のいる人もいる。だが、40過ぎて20前後の現役生に手を出すおじさんOBもいたりするので、まあその辺りの詳細は省くが、今の私は個人的にはサークル内でのお付き合いは、何がなんでも、絶対に、対等な関係を築けるのでなければ禁止するべきという考え方だ。サークルでなくても、集団内での恋愛は制限つきで当然だと思っている。だって、権力を握った人間はやがて横暴になることが多いし、暴君になりやすい性質の人間に限って目立ちたがりだから、権力を振るうついでに若手に平気で手を出したりする。若手も若手で、若い内は世間知らずで、なんだか特別な人に見出されたような気持ちになってしまったりする。醜悪さに気が付くのは、すっかり摩耗してしまってからのことだ。

 話を戻すと、結婚式が終わってから現れた彼は、少々酔っていた。珍しいスーツ姿で、稲田が少しだけ格好良く見えた。身長が大きいから、細部を見なければそれなりに様になっていたと思う。私は彼を温かく迎え入れて、夕食を共にした。酔いが残っている彼は、先輩たちに纏わる思い出話をしている内に、過去の杵柄話が楽しいばかりに、昔の春公演についてしゃべりだしてしまった。自ら地雷に向かってジャンプしていくスタイルだった。ただし、爆破されるのは奴ではなく私のメンタルなのだが。

 稲田にとって、昔話が楽しいのはよくわかる。当たり前だが、大学に居続ければ同期は進学や就職で減っていき、若くて新しい個性がどんどん入ってくる。いくら中心に居続けたくても、流石にそれはできない。顧問のN先生に、稲田は一応私への申し訳なさからか、次の年だったか忘れたものの、春公演をやってみたいという話をしてみたらしいのだが「だから、私はあなたに自分の劇団を持てといったの」と、いつまでもサークルに寄生して自己実現しようとする姿勢をやんわりと、だけれどチクリと指摘されたのだそうだ。正論だが、自分の劇団を持てる程の才能もカリスマ性も根性もない人にそれを言うのは酷かも。兎も角、寂しく過去のささやかな栄光に縋る気持ちからか、懐かしい顔ぶれが並ぶ結婚式の後で、能天気が服着て歩いている稲田が私に対して気遣いをするなどという高等技術を披露するのは難しかったのだろう。稲田が一緒にチェーホフの「子犬を連れた貴婦人」を演じたK先輩という女性は美人だったが、それ自体は私にとって問題ではなく、ただあまりにも「Kちゃんがー」「あの時のKちゃんはねー」と、私は殆ど直接やりとりのない世代なのにKちゃんKちゃんうるさい上に(この辺りは、野原広子さんの「妻が口をきいてくれません」の丸山さん丸山さんと連呼されうんざりする妻の気持ちに似ているかも)、K先輩には恨みはないが、私は稲田と春公演やる気満々でいたのに手ひどく裏切られた状態で、そこで過去の楽しいささやかな内輪っぽいほのぼの公演のことを楽しげに語られ、その主要人物な訳だから、一方的に嫌いにもなる(K先輩、申し訳ない。悪いのは稲田なので、そこは分かってますがね……)。兎に角、私が稲田のせいで如何に辛い思いをして、機会を奪われ、いつ出来るかもわからない春公演の話をされることで胸が痛むことも想像できなかったアホな稲田は、私が黙って涙ぐんでいるのを見て、漸くハッとした。

 ――ああ、やっと気づいてくれた。

 まあ、モラだって、目がついていれば流石に相手が泣いていることくらいには気が付くが、奴らは大体ズレている。同じ時空で生きていると思わないほうが精神衛生上良いかも知れない。そこで始まったのは、さらなる地獄だった。酔いの回った赤い目で私を見つめ、稲田はどうにか私を慰めようと思ったらしい――彼なりに

俺の全てをあげたいと思うのは……いけないことだろうか?

 精神的に削られ切った後の、このこっぱずかしい駄ポエムの一撃である。後にまた書くかも知れないが、彼の文豪気どりは分かる人には分かるもので、とある関係者は「太宰治を気取っている」と看破していた。太宰治を気取るなら、取り敢えず太宰レベルのイケメンに整形して、心中してくれそうな女を数人捕まえてみてから考えて欲しいところであるが。そういや、「~な…でした」とか、そんな言い回しの多い男だった。文学青年系モラというジャンルの先駆けだったのかも知れない(いや多分、量産型)。稲田くん、君がこれを読むことはないだろうけれど、偶々出会ったら、今までの自分の恥ずかしいセリフ、鏡に向かって復唱してね!その面から垂れ流される駄ポエムを我慢していた私の気持ちになってね★

 ゴホン。生々しくて恐縮だが、別に子供ではないのでこの後どうなったか書いておこう。上述の出来の悪いセリフを吐いた後、稲田はショックで固まっている私を、自分の過去を伝えるのは君を大事に思うがこそだとかそんなことを言いながら抱こうとした。『凪のお暇』のシンジ君も似たようなことをやっているが、まあ、シンジ君は必ずしもクズではないと思うが、ここで、この書きたくもない汚らわしい出来事を書いたのには、伝えたいことがあるからだ。

 あなたが傷ついている時に、どんなに優しい素振りでも、性欲を満たそうとしてくる男は100%クズですよ!!

 性欲そのものを悪く言う気はない。恋愛を幾ら綺麗に語った所で、そこに性欲が介在していないことなど殆どない。でも、明らかに自分のせいで傷ついている相手が目の前で泣いているのに、自分の動物的な欲望を遂げようとする行為のどこに思いやりが見いだせるのだろうか?どんなに優しい事を言いながらでも、どんなに激しい愛を伝えながらでも、まあ、映画なんかでよく見る、女性のほうから「お願い、抱いて!」みたいな状態なら兎も角、それは、なし崩しに抱いておけばなんやかんやで仲直りも出来て解決するという相手を舐めた下半身脳から来るものでもある。私は昔トルストイの『クロイツェル・ソナタ』を読んで数日の鬱状態になったことがあるのだが、それは、あの作品が実に色々と鋭い真理をえぐっていたからだ。若い時は欲望のままに遊びまくったトルストイさんが人類股間絶滅計画を語るのはちょっと説得力がないけれど、夫婦の「なんちゃって仲直り」がいつもセックスで終わるということを描き出した辺りにはちょっとゾッとするものがある。だって、そういうカップル多そうだもの。互いに傷つけあい、憎み合ってさえいるのに、最後には、人によっては「仲良しする」なんて気色の悪い表現で片付けてしまっているなし崩しのセックスで全て解決したかのように装う――ゾッとするような共犯関係だ。覚えのある人、もうやめなさい。

 ちなみに、私はこの時、泣いていたし、完全に固まっていたので、彼も流石に私の心が硬直して石になっていることに気付き、ことは進まずに済んだ。ただ、稲田は私が全く乗り気ではなく、手っ取り早く傷口に包帯でも巻いて彼を優しく包み込むモードにならないことに対して、聊か不貞腐れていたのだが。兎に角ヤりたがる男にロクなのはいないと言えば、誰もがそうだと分かっているはずだが、実際にそれが自分の恋人や配偶者となると、応えてあげなくてはいけないような気持ちになってしまう。しかし、相手の心身の状態を慮らない身勝手な性欲に応える必要はないし、なんなら、一度でレッドカード案件であるということを伝えておきたい。(それでも強引にことを進めようとする人間があなたのパートナーなら、どれだけ親密だろうがDVなので警察に届け出ましょう)

・モラはバカにするのがお好き:かしこぶってんじゃねーよ!勉強したいのかよ!バカ!

 一見、オラオラ系ではないものの稲田は先ほどの件で既に露見した通り、下半身に脳がついているタイプだったので、それなりの名門私立で文学青年を気取ってはいても真の知性は持ち合わせていない男だった。しかも、そのことを薄々と自覚していなかった訳ではないのだ。「自分は本物ではない」というのが彼のコンプレックスであり、何かの拍子に私に対して「いつか、俺が偽物だと分かるのが怖い……」と駄ポエムシリーズに混ぜ込んで本音を吐露したこともある。

 これは私が三年生になった時のことだったと思う。例によって、いやなことが多い春先だったと思うが、私が味を気に入って授業後の昼食を取るのに時々入っていたお店があった。茶が基調となったシックな店で、系列店がいくつかあったが、私はそこが気に入っていた。今はない。高いから外食をこの頃はあまりしないが(消費税なくせよコラ)、当時は牛トマト丼なんかを食べていたっけ……。このお店で、何気ないひとときを送っていた私は突然の稲田の暴言に泣かされることになる。それが、「かしこぶってんじゃねーよ!」事件だ。

 そもそも、「かしこぶる」という言葉は正確な日本語ではなく、せいぜい「利口ぶる」がまだ正しいと思うが、稲田はそういう自覚はなく、コーヒーを口にしながら、私がその日受けた講義の話を聞いていた。確かに、稲田が今までまじめに授業に出ていた人間ならば、新鮮な話ではなかっただろう。だって、ロシア文学のコースでは必修の授業だったのだから。でも、私にとっては初めて知る話もあったし、興味深いこともあり、丁度知的探求心がメキメキと育ってきていた頃なのもあり、私は復習をかねて授業の話をしていた。退屈させた私が悪いのだろうか?だが、考えてみて欲しい。大前提として、興味があるからそのコースを選択しているのであり、同じコース・同じサークルの先輩後輩だ。共通の話題でないはずがない。稲田が不真面目でセックスすることにしか関心がない男というのが本性だったとしても、自分で「知的ぶった」役柄を選んで女を狙った以上、設定は貫き通すべきだ。付け焼刃でもいいし、いい男と思っていて欲しいのなら必死こいて自分が勉強したら良い。モテたいからバンドをやるみたいな発想を悪いとは言わない。だが、稲田は、もうそういう努力をする気はなかった。穏やかなほほえみを浮かべたまま、稲田は突然、私に向かって言い放った。

かしこぶってんじゃねーよ

 これだけ書くと、日ごろから暴言を吐いていたようにも見えるかも知れない。ところが、普段は優しく、此方が恥ずかしくなる位に好き好きしてくるタイプなのだ。それが突然、表情を変えずに、こんな暴言を吐く――そこが、真正モラ男の怖い所で、強烈な悪意を以て害をなすのではなく、安易に、息をするように簡単に人を傷つけるのだ。突然のことに、私は何が起きたのか正確に理解が出来ず、硬直し……すぐに涙が溢れだし、慌ててトイレに駆け込んだ。稲田は、やってしまったという顔をしていたが、謝るでもなく、ただずっと座っていた。

  涙が収まってきて、席に戻った私は、稲田を責めなかった。なんでと言われても、稲田が悪いことが明らかでも、できなかったのだ。自分のほうにも問題があったと考えていたのかというと、そうでもないと思う。彼の言動に正当性があるかどうかを考えるエネルギーもなかったし、そもそも、恋人とは自分を大切にしてくれるはずの味方であり、敵対している相手でもなければいきなり自分を攻撃してくるとは思わないものだ。信頼する身内と一緒にいて、防御など全くしていないところで、いきなりグサッとやられたようなものだった。殺人事件なら、私の今際の言葉は「なんで……?」になるだろう。なんで乱暴な言葉で突き刺されるのか、私にはわからなかった。今ではわかってはいるが、できれば稲田自身の理屈を聞かせて貰いたいものである。ダラダラ遊んでいるだけの坊ちゃん大学生が、知的探求に目覚め始めた後輩に、そんな言葉を投げかけても許される理由を、お得意の美辞麗句でも並べて正当化してみせればいい。まあ、理屈などないのだから、できないだろうが。
 さて、稲田への怒りのままに書いたが、実は、この日稲田は半分くらいは正直な心中を明かしたのである。この日ついに謝罪はなかったが、次の授業が終わり、帰り際、稲田は謝罪する代わりにぽつりぽつりと言い訳を始めた。しかし、この言い訳には真実が含まれていた。
「あんなことを言ったのは……俺が、本当のインテリじゃないから……うん……」
 そう、自分には本当の知性も教養もない、野蛮で粗雑な人間なのだという自覚がなかった訳ではないのだ。稲田自身の理想の姿とはかけ離れているその事実から、稲田自身は常に逃げていたが、ふとした時に本性がこぼれてしまう。だが、これでは告白は不十分だ。稲田は、こう続けるべきだった。即ち、「俺が似非インテリでダメな男でも、女であるお前には、俺よりも少しだけバカでいてほしい。俺よりも広く深い知識をつけて賢くなってほしくない。女がしゃしゃり出るのは我慢できない」と、自分の男尊女卑をはっきりと明かすべきだった。差別をしないのが一番だが、こういう場合、自分がどういう人間であるかを隠さずに明示してくれたほうが、その場で別れる決意が出来るのでまだ親切だ。稲田にとって女とは、いつでも優しくしてくれて、どんな我儘でも受け止めてくれて、彼以外の男性には全く興味がなく、慈悲深い聖母でもあると同時に自分専属の娼婦でもあるべき存在だった。だから、自己主張がしっかりとできる成熟した女には興味がない。今の私がどのくらいあのころから変化したかは分からないが、今ならば、かしこぶるな等と言われれば、黙って水をぶっかけてその場でクズ男など廃棄処分である。しかし、当時は、私は泣いているだけの大人しい、人生経験の少ない未熟な人間だった。
 また、こんなこともあった。ある名物教授の上級生向けの演習に私は潜っていて、稲田は授業を選択していたので一緒に出ていたのだが、少しだけ難しいテクストを扱っていた。予習もなかなか大変だったが、その日の内に、夜一緒に課題をやってしまおうということになった。私にとって、恋人と一緒に勉強するというのはとても喜ばしいことだったのだが、稲田の方では当然、勉強など口実に過ぎないと思っていたらしい。家にやってきた彼と暫く他愛ない話をして、雰囲気も和やかだった時、私は、じゃあそろそろ課題にとりかかろうと提案した――その瞬間、稲田は顔色を変え、声を荒げた。
勉強したいのかよ!
 いや勉強したいよ!当たり前じゃん、したくなかったらこの大学選んでないわボケ!お前はなんで大学にいるんだよそんなに勉強が嫌いならずっと天丼屋のバイトで皿洗ってたらいいだろうが!!!(※彼は神保町のとある天丼屋さんでバイトをしていたことがある)いや、バイトで皿洗いするのは良いんだけども、それらはお金を手に入れる手段であって、学問や芸術に一切興味はなく、お金を稼いで食べて寝てセックスできればいいというのが人生の理想ならば、確かにバイトだけやって勉強などする必要はない。稲田に勉強は不要だ。こういうことがあったから、稲田がサークルの先輩として、文化系の人間を装って現れるのが腹立たしくてならない。
 それでいて、稲田は私のちょっとしたミスは許さなかった。バカでいて欲しいのか、バカが嫌なのか微妙なところだが、最適な回答は「自分よりもちょっとだけバカでいてほしい」であろう。ある時は、駅を降りて、案内板を見るために少しだけ立ち止まった私が、結果的に狭い階段脇の道で通行者の通せんぼをしてしまったために、少し迷惑をかけた形となった時には、稲田は大声で「このバカ!!」と、私を罵った。それでいて、言ってしまった…とハッとした顔をする。私は驚いて黙り込み、胸から湧き上がる苦さをずっと堪えているが、外に出て数歩で勿論涙はこらえ切れなくなり、ボロボロと泣き出した。それでも、稲田は謝らない。申し訳なさそうにしてはいるのだが、明確に謝らない。謝ると死んじゃう病が蔓延する星から来た宇宙人なのだろうか。
 こういったやり口が重なって、私は彼の顔色を伺いながら付き合うようになった。しかし、彼と別れ、別の男性と学問上のやり取りをした時に、「男は女が何か知識をつけたり、成果を出したりするのが気に入らないものだ」という呪いはいくらか消えた。私が良い成果を伝えた時、別の男性は、まるで自分のことのように喜び、お祝いしてくれた。そうか、これが普通なんだと、漸く理解した瞬間だった。稲田が異常だったのだ――だが、実際、ああいう「異常」は、家父長制を是とする今の日本のような社会では無数に服を着て歩き回っているだろう。ダメ押しだが、何か妙な偶然でこの記事にたどり着いたあなたに恋人がいて、その人があなたが一生懸命やっていること、興味のあること、頑張っていることに対して、敬意を払わず、見下したような発言をするのならば、その彼がどんなに素敵に思えても、運命の人だと思っていても、悪いことは言わないから、すぐに捨てるべきだ。ストーカー化しそうだったら、勿論色々な対策が必要だが。

 余談だが、今回出てきたお店に私がまた行きたがった時、稲田は「あそこはケチがついちゃったからやめよう」と言った。なぜ、お前の暴言が原因なのに私の好きなお店に行くのをやめなければいけないんだ?と突っ込みたかったが、時すでに遅し。ケチがついてるのは、お前の存在だ!と 言ってやりたかったな…。

★まだまだあるが、長くなっているので、旅行や留学に纏わる話を次回に纏めて書きたいと思います。

 嫌な経験にはなりますが、旅行はモラ発見の試金石になるかも?タバコ事件、壁蹴り、私の健康問題に関する配慮のなさ、海外になんかまともに行ったこともないのに留学に関する上から目線のお説教諸々など、盛りだくさんです!




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