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稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――⑩

前回まではこちら。

10. モラとの旅行


 稲田との旅行はあれこれこじれたこと、楽しいこともあったことは書いた通りだが、誰かと交際して、「良かったこと」を数えなくてはいけないような付き合いはそもそも健全ではないのだろう。大切に思い合っていれば、普段の言動は自然と思いやりに裏付けされたものになり、何か齟齬があっても、自分本位な方法ではなく、互いのための最善を模索して問題の解決を目指すもの。色々苦しかったけれど良いこともあったとか、優しい時もあったとか、そんな風に美点を数え上げるのは欺瞞だ。よくある、DV男と共依存になっている女性が「でも彼にも優しい所があるの…」みたいな話だ。苦しかったこと、辛かったことの内実こそ大事で、時にそれは「他にどんなに良い点があっても、その一点で全てがダメになる」ようなものだったりもするのだ。普段どれだけプレゼントをくれていようが、紳士なふるまいを見せようが、一度殴ったらアウトで永久に退場してもらうべきだ。

・京都編
 確か、これが最初に一緒に行った旅行だった。真夏の京都に、青春18きっぷで向かう道筋は、健康で頑丈な男子である稲田にとっては何とかなるものだったろうが、私にとっては殆ど立ちっぱなしでそれはひどく辛い道のりだった。それでも、当時は兎に角愛情のために頑張っていた。弱音を吐かないように努力したし、稲田も鬼ではなく、一応休めるタイミングを見つければ私をどうにか座らせようとする程度の気遣いは持ち合わせていた。到着した時は、なんとなく感動したものだ。京都自体は中学の修学旅行で少しだけ行ったことがあるが、殆ど観ていないも同然だ。歴史的建造物の多い都市なだけあって、綺麗に整えられた街頭。寺社は白銀に照らされていて、蝙蝠が舞う。西洋かぶれの私でも、やはり京都は凄いのだなと思った。
 とはいえ、美しい街も稲田の性格を欠点を正せる訳ではない。私は本当はそこそこのホテル等でないと嫌なタイプだが、まあ若かったし、彼の提案したゲストハウスでの宿泊にチャレンジした。安上りだし、本当は銭湯を使うのは嫌だったが、せいぜい一日二日のことだ。偶には我慢も必要……と、大変な道のりの後で慣れない苦労を立て続けに偲ばなくてはならないというのが私の状態で、体力もあり、プランを立てた側である稲田は私の疲労や気疲れをもう少し労わってくれても良かったし、実際、労わろうとしてはいたのだと思うが、ふとした時に思いやりのなさとは出てしまうものだった。
 ここまで、私は稲田をモラハラだと糾弾してきたが、周知のとおり、モラハラとは身体的暴力ではない。DVといっても、言葉の暴力だけで、確かに殴られたことも蹴られたこともない。けれど、もしかしたら、あのままずっと一緒にいれば暴力を振るわれることはあったかも知れない…と考えてしまうような出来事だった。
 到着したその夜、腹がペコペコになっていたのは言うまでもない。お店に入って、漸く腰を落ち着けて食事をとった。張っていた気が緩んで、疲れがドッと出て、もうそのまま暫く立ち上がれそうにもなかった。東京から京都までの移動中殆ど座っていないのだ!私は元々女性の中でも体力がないほうだし、当たり前だ。それが嫌なら、稲田はそもそも私を連れていくべきではなかったし、なんならどんなところでも、どんな過酷な道のりでも耐えるボディービルダーのような女性を条件に絞って恋人を探せば良かったのである。自分よりも弱いもの、女だから格下だと見なしながら、気遣いは欠けていた。彼はいつまでも座っていたくなかったらしく、会計をして出ようとかそんなことを言ったのだったと思うが、私は殆どぼんやりしていて、彼が何を言っているのかよくわからなくて鈍い反応をしただけだった。兎に角、休みたかった。ものすごく疲れていたのだ。ところが、私のその態度にいら立ったのか、彼は突然憤然と立ち上がった。会計をしたのか、私もお金を出していたか、それもよく覚えていないが、彼はガンッ!!と扉を蹴って開けて先に出て行ってしまった。どうしておいていかれるのか分からなくて、慌てて立ち上がり、よたよたと彼を追いかけて外に出た。小川が流れている辺りで、ものに当たって彼はすっきりしたのか、私の当惑などお構いなしに彼はもう優しくなっていた。先ほどの暴力的な場面は見間違いか、何か私の勘違いか……と思ったが、追求することはなかった。疲れていたし、疲れていなかったとしても、怖くて追求できなかっただろう。今なら、「なぜ私が疲れていることへの配慮もしない上にあんな振る舞いをするのか」と此方から大説教を始め、プライドをポッキリと折るまで彼の振る舞いがいかに幼稚で粗暴で許容し難いかを大声で糾弾するところだが、当時の私には不可能だった。まあ、今度、生きている限り、どこかで彼にばったり出くわすことがあれば遅すぎることはないと思うので、そこが電車のホームだろうが国道沿いだろうがデパートだろうがお構いなくやっつける気でいるので、稲田はどこを歩くにもビクビクすれば良いと思う。

・人の持病を言い訳にするな!

 確か、2009年の5月だったと思うが、野辺山に行って民宿に泊まった。高地では桜がまだ咲いていて、日差しは強いが肌寒く、それなりに良い所だったと思う(が、私はやっぱりノイシュバンシュタイン城近くの湖とか、夕日に映えるスーズダリの中世ロシアっぽさが残る自然とかのほうが感動する。人の趣味は千差万別であり、稲田ほど私は日本大好きではないとしか)。この時も決して楽な道のりではなく、京都の時に比べればマシだったが、民宿にたどり着いた時には疲れ切っていた。

 この時、風景よりもなにより、良かった点を挙げるなら民宿の料理だ。旬の野菜の天ぷらなど、食事は本当に絶品だった。その点だけでも価値があろうし、そのまま何もなければ、これは純粋に良い思い出になったはずだった――が、稲田はやらかしてしまう男だった。まだ奴と決裂していない頃に、「やらかし君」とでも呼んでやればよかった。

 民宿には、夫婦はいるが、カップルは私たち以外にいなかった。そもそも、カップルで使うものではないという印象だった。婚前の男女が使う感じではなかったのかも知れないが、ともかく一泊して明けた朝だったか、稲田は一期一会を大事にしたがるところがあって、それ自体は別に悪くないのだが、偶々居合わせた他の宿泊者とコミュニケーションをとっていた。(あれ、モラは外面が良いという法則がここでも……)そして、夫婦できているのだったか、男の友人同士で来ているのだったか忘れたが、中年男性が私たちに、近くに良い所があるから良かったら車で一緒に行くかと誘いをかけてきた。私たちは私たちで予定があったし、誘い自体は有難いものだが、彼と口をきいているのは稲田なので、稲田が断るだろうと思った。

 確かに、稲田は断った。

えっと……その、この子が……体が弱いので、ちょっと」と。

 え、私?私の体が弱いから?じゃあそもそもなんでこんなハード旅行につれてくんの?あ、お荷物でした?そうですか。そうですよね、毎朝大量に薬飲まなきゃいけなくて、すぐ疲れて、症状出ると死にそうになるし、本当はつれてきたくなかったよね!!そうですか!ごめんね!!頼んだ訳じゃないけど、つれてきたくないのに仕方ないから誘ってるの読み取るべきだったよね!へえ~~そうですか!

 胸を突かれたような衝撃の後、多分私の頭の中を駆け巡ったのはこういう気持ちだった。

 その日、結局予定をこなしたのかどうかよく覚えていない。ただ、次の食事の時、私は稲田に話しかけられても「ああ……うん」とか、「そう」とか、素っ気なく対応するだけだった。というのも、ずっと泣きそうだったからなのだが。稲田は当惑していたが、そりゃ、かつての私が、非もない自分の言動を振り返ったように、自分の言動を振り返ればいいのである。私に冷たくされたのが予想外だったのか、稲田は戸惑っていた。

 その夜、部屋に一人で私は体育座りをしていた。帰りたかった。やがて稲田が入ってきて、流石に原因に思い当たったらしく、色々と言い訳をして、その後は涙を流して、「なんで俺あんなこと言っちゃったんだろう」と後悔を述べ始め、結局、私も彼の涙に流されてなんとなく許すような方向になってしまった。なんでってあなた、そりゃ、お前が、パートナーの感情やプライバシーよりもホモソーシャル内で「付き合いの悪い男」という烙印を押されたくないという気持ちを優先したからだよ!と、今ならわかるのだが、当時の私は、DVを受けているのに「彼、優しい人なの……」と言って学習しない女そのものだったので、救えない。

 しかし、この日最後まで稲田が優しかったのならまだよいのだが、民宿では風呂が夜10時までというルールがあって、ただ心身ともに疲れて何もできない状態だった私はその頃までずっと座っていて、時間を過ぎてから風呂を使わせてもらった。何かそのことで言われたのか知らないが(民宿のおじさんは、私に何も言わなかった)、稲田は「早く入っちゃわないから迷惑が云々」となにか不快そうに文句を言って、その後他の宿泊者たちと眠るまで歓談するために居間にいた。何があっても外面だけは整えるそのメンタル、大したものである(褒めてないからね)。

・タバコのために荷物番

 高山、妻籠という2か所を巡る小旅行に連れて行ってもらったことがある。これも、風情はあるが、私の本来の趣味からはかけ離れた場所ながら、昔の日本文学で旅館を舞台にした作品とか、そういうのに出てきそうな雰囲気だった。妻籠の時は登山つきで、私には正直きつかったが、稲田は「いざとなれば俺がおぶるから!」と、リュック2つ+私という実現不可能な気休めを口にして、登山ルートを決行した。実際、稲田を擁護する気はないものの、当人は多分出来るつもりだったのである。稲田がアクロバティックな所を見せようとして失敗した話を以前書いたが、どうも稲田は自分の身体能力を随分高く見積もっていて、不思議な万能感に支えられた男だったから、あれもこれも気力でいけると思っていたのだろう。稲田は他にも不思議理論の持ち主で、「電車より自転車のほうが早い」という思想を(私にだけ)喧伝していた。要は、電車にせよ車にせよ交通機関は思わぬ所で止まることになったり、自分のペースで動かせないが、自転車はずっと自分のペースで進むことが出来て、無駄がないということだったらしく、言いたいことは分かるのだが、やはり現実は、あなたがアラレちゃんでなければ、必要に応じて飛行機や電車やバスを使った方が早いのである。元サッカー少年稲田が頑なに自転車に乗り続けた結果が、作家だ外交官だと夢見る大学7年生なのである。

 さて、話がずれたが、高山に到着してすぐのことだった。宿は予約済みだったが、宿に行く前に、稲田がタバコを買いたいから待っていて欲しいと言い出した。日差しが照り付ける中、私はろくに反論もできないまま、稲田が置いていったリュックを足元に、ぼうっと立ち尽くして彼を待つ羽目になった。凡そ、30分程、見知らぬ土地で、置いていく訳にもいかない他人の荷物の番をさせられたのである。立ちっぱなしだ。このこともあって、稲田を恨んでいるのは当然だが、タバコもどうしても好きになれない。喫煙者の皆様におかれましては、身近な人間でもそうでなくても、誰かに一度でもタバコのせいで嫌な思いをさせないという鉄則を守って欲しい。でなければ、タバコなどやめてしまえ。

 さて、置いていく訳にもいかないと言ったが、今の私ならば喜んで、奴の荷物というか、そんな失礼な人間の荷物は置き去りにして帰る。「あなたの荷物はどこどこに置いてきました、さようなら」で終いだ。2度と口をきかないし、着信も拒否。モラタウンに、さよならバイバイだ。しかし、当時の私はバカみたいに良い子で、『進撃の巨人』のヒストリアが愛されるために良い子を演じ続けた気持ちがわかるのだが、好かれること・嫌われないことが目的になってしまっていたから、黙って忠犬のように立ちっぱなしで待った。ただ、やがて現れた彼に向ける笑顔はなく、湿った目で見たはずだし、彼の方も流石にばつが悪そうにしていた。申し訳なさは感じていたらしく、稲田は近くのカフェに私をつれていき、黙ってココアを奢ってはくれた――が、こんなことのために、こんなところまで来たのか、私はなんてみじめなのだ、という気持ちが湧き上がってきた私は、メニューを見ながらボロボロと泣き出していた。涙がボトボト垂れて、稲田は黙って罪悪感漂う表情で俯いていたが、さっさと謝罪するという誠実さは見せない。稲田のその後の言い訳は、「実は移動中、列車の中でタバコ切らしてるのに気づいて、それで頭の中がタバコでいっぱいになってしまった。ソラリスと一緒にいるのに、タバコのことばかり気にしている自分が嫌になったけど、早くタバコをなんとかしなきゃって思った」と、ニコ中の自覚がないのかボヨボヨと口ごもっていた。早く肺がんになってあの世に行ってくださいね

モラ疑惑のある男との旅行の是非

 さて、旅行について色々書いたし、正直、モラとの旅行に使った金も時間も勿体ない。けれども、一度や二度、冷静な頭で恋人と旅行に行くのは、同棲するよりはリスクが低いし、お勧めかも知れない。恋人が自己中心的なモラではないか、思いやりのある人間か、何かと難癖つけてくるクズではないか、見定めるには絶好の機会なのだ。わざわざ項を足さないが、箱根にいったときも、稲田は私の習慣にあれこれ些細な文句をつけてきて、なんだかうるさくて嫌な野郎だったので、捨てる良い機会だったのだが、冷静な頭ではなかったので、機会を無駄にしてしまった。恋人と旅行に行く時は、あなたがどんなに相手のことを好きでも、正体を見極める意志を秘めて向かうのが良いだろう。これで、少しは、迂闊にもモラと同棲したり結婚したりする愚行を避けることが出来るかもしれない。


★次回は、記念日やイベント絡みでのトラブルになります。


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