入稿を終えて

 ウェブで1年連載したときは、反応はほぼゼロ。いつか手直しして本にしたいと思っていたら、千木良さんの評論が文學界に出て、本にもなり、柳沢健さんが待望の評伝を連載し始め、神奈川近代文学館での展示も始まった。
 それで私も、とにかく人の目に触れて評価を受ける(つまり批判をしてもらう)ために形にしておこうと、推敲と編集にとりかかったのが3月のこと。
 でも印刷して売るには、場所がいる。たとえ100部でも、5冊ずつ20の書店に置いてもらい、売れたらお金を回収するというのは、やってみるとわかるが、とても大変なことだ。しかも一つの店で本が5冊売れるというのは、それはそれでかなり大変なことなのだ。
 とりあえず文学フリマ東京に出すことを目標に決め、部数をどうするか迷って、ひとまずPDFをBOOTHにおいて反応を見ようとしたのが1週間前のこと。前に置いた書評集はまだ10も売れてないので、ほとんど期待していなかった。20売れたらその人は文フリで紙も買ってくれるだろうから、それを当てにして200くらい刷るか、と思っていた。
 だから当初はPDFの初速の10倍を刷る、と言ったのだが、今日までの分を10倍したらとんでもない数になるので、ひとまず500部でスタートする。
 昨日の朝に入稿したが、週末に刷り上がるまでは、手元に本はまだない。ウェブ上にある校了データと同様にアップデートしたPDFがあるばかりで、それもまだ売れている(注:早く購入してくれた方にも、最新版が再ダウンロードできる仕組みがあります)。
 そんな宙ぶらりんの時期に、いまは当たっている。これから本が出るというのに、この1週間がドラマチック過ぎて、少し虚脱している。
 印刷版は、展覧会の会期中、神奈川近代文学館が置いてくれることが決まったのが、何より大きい。本屋さんでもコツコツ売りたいが、取次を通すつもりはないので、たくさんの本屋にお願いできない。人が集まる場所、つまり文学フリマのような即売会、そして何より橋本治に興味がある人しか来ない展覧会で売るのが合理的だし、あとは場所を問わないネット通販が、やはり本を売るための基本的な場所にならざるを得ない。
 買う側ではなく、売る側になってみて、本屋で本を売ることの難しさを痛感している。本屋の側からも、ぜひ売りたいという声は、まだほとんど掛からない(知り合いの古本屋さん一軒のみ)。店長=オーナーである古書店、独立書店ならばお願いしやすいが、大手チェーン店は頼みにくいし、卸しにくい。だから、たぶんこの本はそこには並ばない。
 本を売るって、どういうことなのか、これから私にしては巨大な在庫を抱えて、思案することになる。自著でいちばん刷ってもらった『再起動せよと雑誌はいう』が6500部で、増刷はしなかったけど、いま思えばとんでもない数だったとわかる。せめてその十分の一売れてくれて、世の中にさざなみくらいは起こしたい。起こしたいなと思いつつ、本の完成と、本屋さんからの注文を待っている。
 学生によく言うのは、何かを始めるときに、失敗すること、うまくいかないことを予想するのではなく、うまくいってしまったときのシミュレーションをしなさい、という話。じつは私自身は、そんな成功の経験はないのだが、人の仕事を見ていると、ああ、これは成功するな、したときのハンドリングまで考えていて、だからこそ上手くいくだろうな、と分かることがある。
 軽出版というのは、大失敗もない代わり、大成功も考えない仕組みなので、すでにいまの時点で、私としては成功の部類に入る。
 でも、橋本治がよく言っていたように、自分の予想のなかには他人の考えや期待、希望は含まれていない。成功したときのことを考えろ、というのは、ようするに他人の考えを自分の考えのなかに繰り入れろ、ということだ。成功したとき、どこまでそれを受け入れるか、つまり他人の期待や希望に寄り添うかは、どんなことでもアクションを起こした側が引き受けなければならない。
 軽出版というコンセプト自体が、どこまで正しい考え方なのかが、これから試される気がしている。だから少し、ドキドキしている。


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