話頭「橋は流れて水は流れず」「黒豆」鈴木大拙の「霊性の思想」
更新 2024年4月16日
鈴木大拙の名著に「日本的霊性」というのがあります。この霊性ですが、哲学的に記述しようとすると、どうしても経験事実から離れてしまいます。例えば、大拙ならば「体が用で、用が体だ」などと回互的に表現するところを、学者は、「体はこうで、用はこうだ」と言って分けたがるのです。それが知性と思考の弱点です。正確に定義するほど、霊性的直観を離れて、知性的解説になってしまい、宗教経験の直叙からは遠く離れてしまいます。
ここでは、主客未分の現前意識の風光を示した話頭を、一つ紹介してみたいと思います。これは、傅大士という人の詩です。この詩は何やら美しく気になっていましたが、謎めいていて、最近まで、正直、何のこっちゃと思っていました。少し短く編集し、漢文は読み下したものを載せておきます。
般若というのは悟りの智慧を表す仏教用語で、古代インドのパーリ語のパンニャーや、サンスクリットのプラジュニャーが語源です。上記の話頭ですが、私も以前は知性で追いかけようとして、解けず、どうも腑に落ちないままに、まあ、「霊性的直覚というのは、そういうもんかなぁ。」くらいに思っていました。そこは、大拙信者らしく、複雑な知的アクロバットで乗り切ろうとしていたわけです。今は、少し、近づけた気はしますが、これは知的には整理はつきませんね。これは、禅経験の直叙です。
この話は、主客未分の霊性の上に立って観ないとわかりません。自分が、橋と水、手と鋤、人と牛になって、「動くものが見るもの、見るものが動くもの」という直観を体験しないとわからないのです。(筆者自身、想像の域を出ていませんが、)自分が水や橋と一つだと実感するとき、流れるのは水であり橋でもあるわけです。自分が手になり、鋤になれば、把るも把らないもありません。そして、牛は牛、人は人ですが、禅意識の上では全体が差別なく自由に動いています。
その意味では、禅経験の中では空間的差別が薄れると言えるのかもしれません。また、時間的差別も消えてしまいます。この話頭の理解を助けるために、次に、大拙の別の文章を引用します。これは、宋末に、虚堂智愚という和尚が、黒豆の芽の出る前と後を尋ねられて、いずれに対しても「黒鱗皴地」と答えたという、その話頭についての大拙の解説です。
この解説、空間的円環性と、時間的円環性が少し混雑して見えます。実際を言うと、禅経験の中には時間的経過の記憶と再生はない、現前の実働しかないのです。それは、過去・現在・未来を包含とか、超越とか言うよりも、そうした区別がない、三世心不可得なのです。記憶と再生の世界、すなわち日常意識の中で、時間の経過の上に個多を観察するときには、観察中に時間差があるから個多が空間的に定位してくるのです。時間差がなければ、空間差もありません。ですから、現前覚の中では、自分と対境の区別はなく、自分が橋と水、手と鋤、人と牛になってしまいます。なるというよりも、初めから分かれていないのです。分かれてないけど、分かれています。識別はできるのです。即今ただいまの現前では、黒豆は育つ前も後もありません。現前意識では、全体と個多は一体として自覚され、個々は全体作用として活動して、誰でもない宇宙が只今の活動を意識しています。これを無我と呼んでもいいですが、この無我は、自我がない、何もないというよりも、いわば無目的の自我、無功徳の自我なのです。
上記の大拙の「時間の円環性」の説明は、かえって分かりにくいとも言えますが、これは、過去や未来の出来事が現在の中に亡霊のように内包されていることではないと思います。そうではなくて、現前の意識の中には絶対の今しか無い。禅経験の外では過去とか未来とか言葉で言っても、絶対の現在の中で動いているものがすべてですよということだと思います。
最後に、禅経験の話と霊能力の話は、ごちゃ混ぜにしないほうがいいです。禅経験とは、思考上の仮想空間が構築される以前の話で、そのような意識の中では、空間的隔絶や時間経過の認識が忘れられてしまうのです。「霊性」という言葉も、精神と物質の思考上の分離を補正するためのもので、すくなくとも、霊能力にフォーカスした言葉ではありません。あくまで、私の理解ですが。
Aki. Z
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