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精神と霊性 ~知の衝突~ 無位の真人 ノンバイナリー 

更新 2024年6月16日

 私たちは男でなく女でなく、ノンバイナリーでもない。これに限らず、ステレオタイプの既成概念を持つと、思考は自由を失います。しかしこれは、特定の既成概念の問題ではありません。知性というものはすべて概念化に基づくため、知的概念の固定化は、知らぬ間に私たちの思考の自由を制限するのです。どのような用語でも、一度固定化されてしまうと、それらの固定概念から離れることは難しくなります。ところが、禅は、そのような固定概念から、私たちの精神を解放します。そして、人々が概念化以前のリアリティを生きられるように導いていきます。

 ふと世界を見渡してみれば、いたるところで、知性の暴力が猛威をふるっています。知性は、あらゆるものを対立概念に分けたがります。というよりも、何らかの概念が確立されるときには、対立する概念が自然に生まれるのです。白と黒、正義と不正義、苦と楽などのように。筆者は、この本質的に対立的な性質をもつ知性を「固い認識」と呼びます。とにかく、知性獲得後の人類は、対立概念を基軸とする固い認識により、闘争に明け暮れることになりました。

 そのような頻発する紛争や戦争を見るにつけ、筆者は二分性あるいは二元性の知性の欠点を強く感じます。言葉を獲得した後の人類は、敵と味方をキッチリ分けたがります。善と悪とは、キッチリとは分けられないでしょう。精神は常に対立者を作ります。それは、物質であったり他の精神であったりします。そして、力で相手を支配し、あるいは破壊しようとさえします。ある意味、知性を獲得した人類にとって、AIの台頭を巻き込んだ「知の衝突」は、人類史上避けて通れない一大事ではあるのです。

 この知性の好戦的な欠陥を補うものを、鈴木大拙だいせつ氏は霊性れいせいと呼びました。霊性は、相手が精神でも物質でも、常に調和的で、徒らに対立はしません。というよりも、相手にさえ成らないのです。霊性は、精神と物質を余裕で包みこみます。と言っても、それは物質的な何かでも、エネルギーでも、精神的な何かでもありません。もし、誰かが今、霊性とは〇〇だなどと言って知性による概念化を試みれば、そのような限定されたところには霊性はいません。それでいて、霊性は決定的な影響力をもっています。強いて言えば、霊性は抽象概念ではなくて、行為であり生きた実思考であり、物質の実働であり、しかも、現前の覚なのです。

 21世紀の今、何としても必要なものは、知性による二分性の思考力でなく、霊性による不二ふに性の思考力、すなわち「分かれていて、分かれていない」、特異な認識のあり方の獲得だと筆者は思います。分かれて見えるのは二分性の知識、過ぎ去った記憶の上だけのことです。霊性思考は、端的に言えば知性からの解放で、仏教、殊に禅宗で大切にされている「自然」とか「そのまま」という言葉に関連します。しかし、これは、私たちの普段の知性から見た「自然」や「そのまま」ではないのです。知性が解釈したものは、すでに二元性の害毒に汚染されています。

 これは、知性を捨ててバカになれということではありません。本質的に二分的性質を有する知性や精神の呪縛を離れて、分かれていて分かれていない、本来の、霊性の働きに気づくことなのです。霊性という特別な何かがあるのではありません。これは、過剰な知的拘束具を取り除いたところに感じられる叡智の働きです。それこそが、鈴木大拙だいせつが、日本的霊性をはじめとする日本語と英語の膨大な著作の中で教え続けた、主客未分しゅきゃくみぶん矛盾同一むじゅんどういつの、霊性的自覚なのだと思います。

 私たちは、男でなく女でなく、男女おとこおんなでなく、女男おんなおとこでなく、ノンバイナリーでも無記むきでもなく、また、日本人でなく、アメリカ人でなく、中国人でも、どこの国人でもない。だから、知性を乱用せず、精神に振り回されず、何の枠にもハマらずに、ただ節度を持って、無位むい真人しんにんとして、自由に、平和に生きていくことが大事です。霊性的自覚というのは、そういうことなのだと思います。

Aki Z


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