日本的霊性 抄(要点まとめ)
鈴木大拙著「日本的霊性」の入門的紹介 (更新 2024.9.1)
はじめに
鈴木大拙の「日本的霊性(i)」は仏教を題材にして霊性を探究していく。太平洋戦争末期の言論統制の下にあって、本書で大拙は軍部による無鉄砲な「日本精神」の宣揚をやんわり批判する。戦後に発行された続編では、今度は明示的に「御稜威」の思想を批判している。戦争が世界に再び蔓延しつつある令和の今、平和を願うすべての人に読んで欲しい良書であり、また大変な難書でもある。
結論から言えば、大拙のいう「霊性」とは大智と大悲のハタラキである。この書は知性の及ぶ範囲を超えていて読み進めるうちに読者にはさまざまな疑問が湧いてくる。「霊性って何?」「日本的霊性って?」「霊性と大地の関係は?」「超個己とか一人とは?」それから霊性は無矛盾指向の知性とは異なり矛盾を許容するところがある。そこで、大拙は矛盾の無い哲学体系を造らずに、その場その場で思想に融通をつけていく。矛盾許容論理を包含する霊性を語るのだから根源的に矛盾は約束されているのである。それでも、上に挙げた疑問の数々は著者の立ち位置が分かると解決する。この本は知性の立ち位置からでなく霊性の立ち位置から書かれているのだ。「日本的霊性」という書を理解するための唯一の道は読者みずからが日本的霊性になって読むことなのである。
大拙自身がその序に「全編が試論で、組織的にまとまっていない」と書いているように、同書は長編の書である上に、「霊性とは何か」というテーマが、「日本的とは何か」と、「鎌倉時代における霊性の顕現」と絡みあい繰り返し顔を出す。これらのテーマを切り分けて整理することで大拙の意図をなるべく正確に読み取れるようにしたいというのが筆者の執筆動機である。編集に際しては本書の続編に当たる「霊性的日本の建設(ii)」「日本の霊性化(iii)」からも霊性に関する記述を引用した。
大拙は、明治から昭和に生きた金沢出身の偉人で、世界の禅者とも呼ばれている。そして、彼の代表作の一つの「日本的霊性」の初版は1944年(昭和19年)に大東出版社から発行されている。この本は浄土宗・真宗、および禅宗を題材にしているが、主題は鎌倉時代に顕現した「日本的霊性」なのである。また、これは単なる個人的宗教意識を意味するのではなく、宗教意識に日本における情調的・思想的展開の傾向までも含めて日本的霊性なのだ。日本人のためには日本的霊性の価値に気づけと激励し、世界の未来に向けては、ここに無価の宝があるぞと紹介するのである。
同書は大きく、緒言と5つの篇からなる。第一篇「鎌倉時代と日本的霊性」、第二篇「日本的霊性の顕現」、第三篇「法然上人と念仏称名」、第四篇「妙好人」、第五篇「金剛経の禅」。そのうち第五篇「金剛経の禅」は大東出版社発行の初版には含まれているが、昭和24年に鈴木大拙選集に収められる際に大拙自身により削除され、現在はこの篇を含むバージョンと含まないバージョンとの2バージョンが世に出回っている。
本小論文は、第一章で霊性とは何か、第二章では日本的霊性の特徴を概括した。第三章では鎌倉時代に日本的霊性が開花するまでの経緯をまとめ、「日本的」という言葉の意味について考察した。第四章は「国家と霊性」について、第五章には大拙の真骨頂の「自由」に関する文章を紹介した。第六章は、霊性進化に関する筆者の一考察である。この霊性史観は「日本的霊性」という書の全体構造把握のための足掛りにして欲しい。
本論は日本的霊性の入門編的な解説である。そのため、引用も、緒言、一篇、二篇に集中している。興味のある方はより深い解説の含まれる三篇、四篇、五篇も合わせて是非とも原書を手にとってお読み頂きたい。つたないまとめだと大拙にも叱られそうだが、「日本的霊性」という難書を理解する上で何かの参考になればと思う。
目次
第一章 霊性の定義
1. 霊性と霊界
2. 霊性の定義
3. 即非の論理
4. 霊性と日本的霊性
第二章 日本的霊性の特徴
5. 直接性
6. 大地性
7. 超個己性
8. 一人性(いちにんせい)
9. 円環的時間性
第三章 精神から霊性へ
10. 古代、万葉集
11. 平安時代、古今和歌集、源氏物語
12. 最澄と空海、神道
13. 親鸞への日本的霊性のあらわれ
14. 妙好人(みょうこうにん)
15. 日本的霊性の顕現
16. 日本的とは何か
第四章 国家と霊性
17. 御稜威(みいつ)
18. 世界主義と国家主義
19. 日本国憲法
第五章 自由ということ
20. On Liberty
21. 自由と華厳的組織
第六章 霊性の進化
22. 霊性進化の三段階
23. 下萌えする日本的霊性
24. タマシイ、レイセイ、アミダブツ
第一章 霊性の定義
まず、鈴木大拙が日本的霊性という代表的著作の中で「霊性」をどのように定義したのかを、大拙の文章を拾い出しながら調べていきたいと思う。はじめに書いておくと、「霊性」を矛盾なく定義することはできない。それでも、大拙の思想について考察するときには、このようなザックリした言葉の定義を試みることは大いに意味のあることだと思う。
大拙は「日本的霊性」というタイトルに込めた思いをその序文の中で、「この書を貫く思想、即ち日本的霊性なるものを日本宗教思想史の上に跡づけたい」と説明している。大拙はここで、思想と言っている。大拙が他の仏教者にない印象をあたえるのは思想を大事にするからだと思う。だがそうすると、日本的霊性も一つの思想だということになるのか。また、この書を読み進めていくと「霊性」と「日本的霊性」とではその用語の守備範囲が、空間的のみならず質的にも異なることに気づかされる。ここに、三つの重要な視点が浮かんでくる。
① 日本的霊性とは思想なのか
② 霊性の意義の二重性
③ 霊性の複合性
このことについては、本論の中で少しずつ明らかにしていきたい。
1. 霊性と霊界
はじめに多くの読者が持つであろう「霊性とはいわゆる霊なのか」という素朴な疑問に対しては、「大拙においてはノーだ」と言っておく。まず、下記引用から始めよう。
「魂のようなものとは違う」ので「霊」とは別ものだ。それから、霊性はある程度の文化段階に進まないと覚醒されないという。霊性は知性以前の話なので知的レベルに左右されることはなく、ともかく知性がありさえすれば文化レベルには関係なく覚醒しそうなものだ。しかし、霊性は覚醒するときを待つ。それは、文化が古代の感性的・情緒的なものから知性的なものへと成熟し、知性自身が己の限界を感じるレベルにまで論理性を高めるのを待つのである。そのときが、はじめて真の宗教意識が芽生えるときなのだ。万葉時代も平安時代も知性的熟成が不十分だった。平安時代の「物のあわれ」を感じる程度の知性では、業苦の不可欠の原因が言語意識にあることにはなかなか気づけない。従って、論理を超えようという強い意欲も出てこない。それで、ある程度の文化的発展が必要ということになるのである。結果的に大拙の「霊性」には文化の香りがつきまとうことになる。次の項では霊性という言葉の定義について、もう少し考えてみたい。
2. 霊性の定義
はじめに、一般向けの解りやすい「霊性」の解説を見てみよう。
4種の心的作用を自己の知性で処理せずに、感性や情性や意欲を超個己の一人の上に動かすハタラキが霊性なのだという。このような心理学的説明は現代人には理解しやすい。だが、本書の大拙の真意を正しく読み解くためには、そこに留まらずに、もっとハッキリと直付けに霊性をつかみ取る必要がある。
大拙が特に霊性を取り上げる理由は、読者に知性のもつ二元対立性の弊害に気づかせることにあると思う。時代が戦中から終戦へと向かう中で、大拙は当時の日本のリーダーたちが民衆を先導するために用いた「日本精神」という用語に対して批判的な考えを持っていた。戦争のための人心掌握、そして国家間対立の根底に、大拙は人間精神のもつ根本的二元性・二分性を見ていた。この二分性、対立性の源泉は「精神」以外を知らないことにあり、人間が「霊性」に目覚めない限りこの二分性・対立性は無くならないことを、大拙は彼の霊性の底で感得していた。
物質と対比した「精神」に留まる限り日本人に自由はない。「日本精神」という言葉で大衆を支配しようとする暴挙を批判する一方で、大拙は「霊性」という言葉に精神とは異なるハタラキを割り当てた。そして、精神では言い尽くせぬ意義を霊性に託し、当時の日本の知識層に広く問いかけた。「日本的霊性」はそのために書かれたのである。その書の冒頭の緒言の中で大拙は以下のように霊性を提示する。
「精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。」と言うが、普通に考えると、べつに相互に入れ込まなくてもいいだろうということになる。これは、精神と物質の隔絶の問題ではあるが、それ以前に、精神と物質を概念的に切り分けたがる人間の意識のあり方に人々の注意を向けさせようとするのである。大拙は精神と物質に峻別される以前の認識世界を見ている。大拙はつづけて、霊性という言葉の本質を以下のように説明する。
ここで大拙は精神と物質を包んでと言わずに、何か二つのものを包んで、と一般化しモデル化しているところが興味深い。大拙においては、二はいつでも、それがいかなる二であっても、完全に分割され切り離された、排他的かつ鉄壁の二としては意識されない。「二は二でなくて二だ」というのが大拙の好む言い回しである。精神と物質の対立は最も重要な例だが、それに限らず、結局、この「二の不二性を見破るもの」が霊性だということになるのである。
このような「二は二でなくて二であり、それを見破るものが霊性だ」といった説明はなんだか不合理に聞こえるが、これが、私たちの知性一般あるいは精神がギリギリ理解可能な範囲での「霊性」の描写なのである。大拙は以下のように続けている。
ここでは精神と物質の関係として語られているが、実際には、ひとつの二元性が破れてしまえば、あらゆる二元性が破れてしまうことになる。闘争の源となる二元性・対立性、その基盤に絡みついた人間の凶暴性・残忍性を、根こそぎ取り去ってしまうのが、「霊性」のもつ特異なハタラキである。
もう少し見てみよう。
これらの文章から、霊性的直覚が悟りを意味することは明らかだ。しかし、霊性が悟りだとしても、それで全てが解るわけではない。霊性とは何か。私たちの普段の意識とはどこが違うのか。こうした疑問に応えるべく、次にいくらか専門的になるが、知性と霊性についての説明を引用する。
話が仏教哲学講座のように難しくなってしまったが、仏教にあまり馴染のない読者は、般若の智慧というのは簡単には人知を超えた仏の智慧のことだと理解してもいい。ただし、仏は自己の外には無いし、内にも無いのだ。とにかくここに、霊性はプラジュニャーで、「般若の智慧」だという明快な解説が与えられている。ところが、まだ続きがある。次の引用を見て欲しい。
大拙は一体と書いているが、本当は体も用もないが、ひとまずは、霊性はハタラキだとしておいた方が分かりやすい。この文章で大拙の主張する霊性の意味は最終的に定義されている。つまり、般若の智慧すなわち「大智」に仏の慈悲すなわち「大悲」を合わせた、いや、合わせたと言ってはもう遅いので、二つに分かれる前の大悲即大智のハタラキが「霊性」なのである。
ここに、霊というものについて一言しておきたい。この章で筆者は霊と霊性の区別を明確にするように努めたが、霊というものの存在を全否定しているわけではない。また、大拙自身も霊は霊として考えるべきもののあることを認めている。ここに、大拙の「秘書のような同志」とも言うべき岡村美穂子氏の「思い出の小箱から」という書籍から少し引用する。
この項の最後に、日本的霊性という言葉を理解する上での重要な資料として、「日本的霊性」の収められた鈴木大拙全集第八巻の巻末にある古田紹欽先生の追記を引用する。
もう少し補足したい。大拙の日本的霊性は日本精神に対する批判として提示されたという解説がときどき見られる。それはその通りだと思う。ただ、この著作の中で、大拙自身が、「日本的霊性の主体性」を繰り返し強調している。従って、日本的霊性を日本精神に対する単なるアンチテーゼと受け止めてはならない。日本的霊性の働きに極めて主体的なものがあるわけなのである。古田先生の追記も、そのように理解されるべきだと思う。
3. 即非の論理
日本的霊性の定義については 2.項で一通り説明した。しかし、日本的霊性とは何かを論ずる上で、大拙の最も独創的な解説の一つである「即非の論理」を忘れてはならない。ここで、初版の第五篇「金剛経の禅」から、有名な「即非の論理」の解説を引用する。
即非とは「即ち非ず」で、「A=Aであり同時にA ≠ A」となる絶対的に矛盾した存在あるいは認識のあり方で、日本的なものの見方の深層にはこのような不思議な洞察がある。即非については本論ではこれ以上深入りはしないが、この即非の論理こそは日本的霊性の論理に他ならない。その意味で、「霊性」は矛盾同一論理の発祥の地なのである。
(文末に「不生」の文字が見える。大拙の不生思想については別の投稿に既にまとめてあるが、不生は知性以前であり、つまり、不生は霊性である。)
4. 霊性と日本的霊性
大拙は、緒言の「1『精神』の字義」の中で「精神」「意志」「注意力」「心」「神」「たましい」「理念」「倫理性」「物質」などの字義を分析し、つづいて「2 霊性の意義」で霊性について説明する。このような方向から霊性の意義を考えていくと、霊性は宗教意識だということになる。実際、本小論文の「2. 霊性の定義」でもそのようなところに落ち着いた。これは、知性の側から霊性の意義を詮索した結果である。この場合、霊性は「主客未分の宗教意識」という比較的狭い範囲に限定されてしまう。
ところが、この本を読んでいくと、これは霊性の定義の一つに過ぎないことに気づかされる。つまり、大拙の場合はこれとは逆方向から、すなわち霊性の側から霊性を解説するのである。そうして、私たちの住んでいるこの世界を思想、信仰、情調をも含めてただちに霊性の所産として捉えているのである。これが、第一章の冒頭で触れた第一の重要な視点「① 日本的霊性とは思想なのか」に関係する。
上記引用で語られている内容は日本的霊性そのものではなくて、日本的霊性の所産と見た方がよいと思う。このように、日本的霊性という言葉は霊性のハタラキの方を指すのか、認識世界に現れた霊性の所産を指すのか紛らわしいときがある。霊性のハタラキの方は宗教経験あるいは宗教意識なのであって、所産としての思想ではあり得ない。しかし、背後に宗教意識が動いているときには、思想もまた霊性の一部になるのである。これが、「① 日本的霊性とは思想なのか」に対する答えの一つである。そしてこれは第二の重要な視点「② 霊性の意義の二重性」を意味するものでもある。言葉の定義としては、日本的霊性の核心は宗教意識としての狭義の霊性にあるが、本書の主題は広義の日本的霊性だとも言えると思う。
大拙においては、「思想」という言葉には二つの使われ方がある。一つは霊性的直覚を解説し人々を霊性に目覚めさせる【知性を超えた霊性教導の思想】であり、もう一つは先に挙げたように、霊性の所産として【知性の中に生み出された思想】である。しかし、この二つの思想の定義はよくよく考えてみると結局は同じ要素、「主客未分の霊性の働き」という果汁で満たされているのである。
第二章 日本的霊性の特徴
ここから、日本的霊性の特徴について整理してみたい。その特徴は主に、直接性、大地性、超個己性、一人性、円環的時間性、などの言葉で表される。大拙自身は日本的霊性の特徴として、初版第五篇「金剛経の禅」のまえがきで「大地性・一文不知性・単刀直入性・具体的真実性・即生活事実性」などを挙げている。これらの他に日本的霊性の情緒性が挙げられるが、これについては16.項の「日本的とは何か」で考察する。さっそく「直接性」から始めよう。
5. 直接性
大拙は日本的霊性の特徴に単刀直入性を挙げる。日本的なものには「直接性」があると。まずは浄土系仏教を例に日本的霊性の直接性に言及している文章を引用する。
衆生、すなわち私たちと無上尊の阿弥陀仏との関係は、有限と無限の関係に等しい。それは対等な位置関係にはない。ところが、有限の真宗篤信の徒は、無限そのものともいうべき阿弥陀仏と難なく対峙するのである。浄土系の仏教では浄土は西方に十万億土離れたところにあると説明はされるが、それは真宗信者の実感ではない。浄土は今ここにあり、阿弥陀への信は実に直接的なのである。浄土系における直接性に続いて禅の直接性について、大拙の説明を聞いてみよう。
これは禅が生じて日本に辿り着いたルートの話で、禅の直接性そのものの説明ではないが、インドの民族的直覚性が日本的霊性との関係で語られているところが面白い。禅は中国に起こり、唐代から宋代に栄えた後に中国では消滅した。それで大拙は日本に定着した禅の起源を中国禅に見ずに、インド民族的直覚性に似た日本的霊性に見ている。
6. 大地性
大地は霊性の奥の院だという。まずは、それを語っている大拙の解説を引用する。
ここでは、「天」との対比の中で「大地」の親しみやすさや愛すべき性質を指摘し、大地について「これほど具体的なものはない」と言っている。この具体的なものから宗教が生じるので、霊性の奥の院は大地の座にあるとしている。
普通、宗教は天を崇める。キリスト教の宗教意識はなかなか下に向かない。キリスト教のみならず仏教でも、盧遮那仏(大日如来)はもとより、阿弥陀仏だって光の如来である。ところが大拙は光を大地に向ける。日本的霊性を天上界に設えずに大地下に還相させるところに、大拙の深い宗教的洞察がある。
霊性の奥の院が大地の座にあるとすれば、もっとも深く霊性に接しているのは農民たちだ。大拙は大地と人間の交錯の上に霊性の実働を見ているのである。
大悲と一体になることの重要性を説いている。「大悲に摂取されよ」というのは霊性的直覚を持てということだ。だが、霊性も直覚も見性経験を持たない一般の人には分かりにくい。それで、霊性の実働としての大地に視線を誘導するのである。
更に、大拙は感性・情性と霊性とを対比し、浄土系仏教を念頭に置きながら日本的霊性について解説する。
知性は一瞬一瞬空想的に移り変わり情性は戦くが、霊性はそのような浮遊的なものでなくつねに現前に落ち着いている。知性に騙されず現前をそのままに観察するものが宗教意識なのである。
大地性は大地の精神性と物質性を峻別すると見えなくなってしまう。既に 2.「霊性の定義」に書いたように、大拙自身が霊性という言葉を精神性と物質性を兼ねるものとして打ち出していたことを思い出して欲しい。大地は物質性と精神性を受け入れる霊性そのものである。そして、物質性・具体性の大地の上で、大悲は実地に試されることになる。
地は天よりも身近にあり、霊性は知性よりも身近にあるのだ。だから、霊性は決して単なる抽象概念ではない。大地の物質性は霊性の具体性に他ならない。
大地は自分である。大地から個が出てくる。
なお、霊性の大地性というのは必ずしも田舎暮らしの勧めではない。別に都会で暮らしても構わない。観念的・概念的な生活に溺れずに生きることが霊性を生きることに他ならない。「大地」という言葉に生活の現実を積極的に肯定して行く霊性の姿がよく表れている。
7. 超個己性
大拙は超個の人を略称して「超個己」と言う。超個己は自我を超えている、分別を超えている。「超個」の語を冠するところに、仏心を超越的に見る気分が表れている。一方で末尾に「己」や「個」の字を置いて、内在的観測を忘れずにいる。超個己は自我の輪郭の外れた境地なので、超越的に見ても内在的に見ても結局は同じところに行き着く。ただ、その見る方角の違いから、超個の人というときには個を超越している面の印象が強くなるように思われる。まずは、超個己の記述の見える文章を引用する。
この引用文の冒頭で大拙は心理学的な分析をして、感覚や感情や知性といった精神活動はもともと霊性に根差していると言っている。また、霊性は超個であるから、個人の意志の思い通りにはならないわけだ。下記の引用には「超個の個としての一人」が出てくるが、一人は本来の自己を指し、親鸞聖人が用いた言葉である。
超個己も「超個の個」も同じ。いずれにしても、単に超個と言わずに超個の己、超個の個など、個に還らざるを得ないのは人間の宿命ではある。それでも、超個の個には自我の輪郭がないので、自もなし、他も無し、従って、絶対に孤独だとも言える。超個己では宇宙的広がりが感じられるので、ある意味で禅的な仏心の表し方とも言える。また、超個を言うときには視点は観察面、すなわち大智の面、般若智の面に置かれているように思う。また、この引用には一人という言葉も出てきている。次の項では一人について見ていきたい。
8. 一人性(いちにんせい)
大拙はまた一人を説く。「超個」の文字が無い分だけ「一人」という言葉は内在的に響く。主客未分の霊性から見ると、超越も内在も結局は同じことだ。ただ、「超個己」が哲学的な響きを持つのに対して、「一人」という言葉は人間的な面が強調されて、生活を離れず、より具体的に響くようだ。
一人は内なる宗教意識の発現であり、この場合、日本的霊性は人間意識の上に情性的に現れる霊性的直覚と言える。一人はまた、大悲そのものの揺らぎと言ってよい。超個己がある意味知的で禅的なのに対して、一人は情的で真宗的と言える。
超個では視点は大智に置かれているが、超個己、あるいは超個の人とするときには、霊性が知性に働き掛ける面、すなわち大悲の面に焦点が移ってくる。これが更に一人になると、力点は完全に大悲の面に移ってくるように思われる。一人性は行動の原理である。ただし、大悲に由来する人間の行動も、そこに自覚がない場合には、分別によって無残に歪められてしまうことになる。
大拙はまた、【禅の思想】の中で以下のように言う。
超個は超個でそのまま個多であり個多は個多としてそのまま超個であるというのは、知性にとっては拷問だ。暴言、狂言、強弁の類に属すると言ってよい。二分性の知性はこの在り方をきちんと整理することはできない。だが大拙の手に掛かると、その非合理が許されてしまうところがある。「そのような在り方は受け入れられない」と言うとき、私たちは何か既に受け入れている。禅の思想はいつもここを狙っていて、知性を超えたところに霊性を見出そうとする。
大地性に比べて超個己性や一人性はわかりにくい。矛盾を含む概念だからだ。最も具体的な個己がただちに最も抽象的な超個己だというのは、矛盾同一[12]である。ただ、真宗では超個の阿弥陀仏の側は必要以上には強調されず、大悲の一人的情緒に吸収されてしまう。そして、阿弥陀と自分が一つだと言えばまだ理事無礙[13]的に響くようだが、一人が強く叫ばれるところに、生活を離れぬ事事無礙の境涯がうかがわれる。この「一人性」は筆者が持ち出したキーワードだが、大拙自身の言葉で言えば、具体的真実性・即生活事実性が、一人性に近いと思う。大拙はこの一人性を日本的霊性の神髄と見ているようだ。
9. 円環的時間性
鈴木大拙は哲学者ではあるが、それは不二性の東洋哲学であって、二分性の西洋哲学ではない。科学的な話題に触れることもあるが、それは科学嗜好のつよい現代人の趣向に合わせたもので、純粋に科学的あるいは数学的に厳密な思想を展開するわけではない。そこは十分に気をつけて読む必要がある。その上で、以下の考察を進めたい。
大拙はときどき、覚者のもつ時間感覚に言及している。私たち一般人の感じている直線的に進む時間の矢の感覚は本当のものではないという。少し奇異に感じられるかもしれないが、日本的霊性の特徴を考える上では、この風変りな時間感覚を避けては通れない。まず、時間に関する説明を一つ引用する。
時間は過去にも未来にも続いていき、感覚的には永遠性を有するとも言える。そうすると無限というのは分かる。だが、円環性とはどういうことだろう。
過去・現在・未来が同時に成立する、これでは解りそうでますます解らない。思うに私たちの観察している時間は、実は記憶の中にあるのである。現在の瞬間と言っても、その観察された現在は既に記憶中の現在なのである。そして過去の記憶を現在の記憶と比較検討するときに、その間に時間が観測されるわけだ。一方、霊性的直覚の中には時間の後先というものはない。そこを、直線的ではないぞという意味で、無限大円環性というのである。これを知的に理解しようとすると、肝心の霊性的直覚を取り逃がす恐れがある。
自分の現前の意識というものは、円周のない無限大の円の中心を占めている。どこでもが中心だ。それは、時間的にも空間的にもそうなのだ。霊性的直覚が先であるし、現実の世界には本当は現前しかない。現前が過去も未来もなく自分も環境もなく動いている。現前の直覚の中には基準点となる自我はなく、現前の他には時間差を計るために比較すべき記憶もない。ただ永遠の今ここを現ずるのみなだ。
大拙の説く「霊性」とは何か。第一章、二章ではこれを探求してきた。だが、鈴木大拙が「日本的霊性」を主張するのは、鎌倉時代になって武士階級や民衆の間で一気に禅や真宗が花開いた事実に着目するからだ。インドや中国では仏教は消えていったのに、日本においてのみ、また、鎌倉時代になって初めて突如として禅や真宗が民衆化した理由をここに見るのである。つまり、中国から伝わった仏教が悟りを伝えたのではなくて、日本的霊性が日本人一人一人を内から揺さぶって禅や真宗を内側から展開させたと見るのである。第三章では日本的霊性の覚醒の経緯を見ていきたい。
第三章 精神から霊性へ
大拙は日本的霊性の冒頭の緒言で精神と対比して霊性を解説する。これにより読者は精神から霊性へという霊性史観を意識させられる。この章では日本の鎌倉時代に精神の中へ霊性が割り込んでくる様子を大拙の文章に沿って確認していきたいと思う。
10. 古代、万葉集
大拙は鎌倉時代における日本的霊性の覚醒を論じる前に、それ以前の日本人の精神性について古典を繙きながら解説を進めてゆく。これは万葉集の研究から始まる。
死者を悼み、君を敬い、神々を畏れても、それは原始的感情の発露で人生の一大事を論理的に解決はできない。知性の限界を踏み破れない。それで、感性的・情性的直覚はひとたび否定されなければ本物にならないと言う。つづいて大拙は万葉集から十七首の和歌を取り上げる。ここでは一首だけ例を示すに留める。
万葉人に知性がないとは言えないが、かなり感情的ではある。これでは自我を超えるものに対する真に知性的な反省は出てこない。霊性的目覚めには遠くしてまた遠いと言わざるを得ないだろう。
11. 平安時代、古今和歌集、源氏物語
次に大拙は、平安時代の日本人の精神について、古今集や源氏物語を例にとりながら検討を進める。
平安時代の400年は優美・繊細な文化の花開いた時代で、かな文字の発明などはあったが、平安人の心の基調は感性的・情緒的な範囲に留まる。みやこの上層部においては、むしろ意図的に感情の起伏とその繊細さを高めようとしていたようでもある。仏教も神道も形式的で表面的な知的構築物の範囲を抜け出せていない。一部には例外的に高い霊性的自覚を持つ者はいただろう。しかし、インドや中国からどれだけ精緻な仏教哲学が伝わっても、それらは仏教関係者の間でのみ広まり、多くは知識としての理解に留まり、霊性の自覚までは至っていない。この時代でもまだ、貴族にも民衆の間にも情性や知性に対する十分な反省の記述は少ない。
12. 最澄と空海、神道
奈良時代から平安時代にかけて、日本人一般の精神的発展度合について検証を進めた後で、大拙は鎌倉時代以前の宗教の中に日本的霊性の兆しを探しにゆく。ここに空海と最澄および神道について論じた文章を引用する。
ここでの大拙は祖師方の業績に敬意を示しつつもとても冷静に批判をしている。彼は単発の覚者の存在を日本的霊性の発現とは見ていない。また、空海や最澄の到達点では、まだ十分に観念性・概念性を抜け切れていないと指摘する。思想的に無明の闇を破ることは知っていても、大地と一体の日本的霊性の顕現とは見なせないと。次に、大拙が神道をどう見ていたのかを見ていきたい。
大拙の神道観をまとめると、日本的霊性の未発達の源流は神道にも潜んでいるということになるだろう。緒言「日本的霊性につきて」、第8項「禅と浄土系-直接性」で、大拙は日本的霊性の特質は莫妄想にあるとして、「神ながら」もまた莫妄想的南方思想の表現だと言っている。
それと、少し脇道に逸れるが、神道批判の文中に他の大拙の著書ではあまり見かけない「無意識の暗窟」の文字があるので、ここに紹介しておく。
これを読むとドキリとさせられる。私たちは精神的存在であると同時に動物であることを免れない。自分の中の深いところにある動物性をいかに制するか。なかなかに厄介ではあるが、その克服なしでは人間界の闘争や戦争は止められないことになる。なんとかして動物性に引きずられずに、霊性的に生きたいものだと思う。
13. 親鸞への日本的霊性のあらわれ
大拙は親鸞聖人こそが真に日本的霊性的自覚に徹底した最初の人だという。実に日本的霊性という書は親鸞聖人を主役に書かれていると言って良い。
「仏の本願は親鸞一人のため」という自覚はきわめて直接性が高い自覚と言える。みんなのための仏の大悲ではなく、自分一人のための大悲と親鸞は感じている。一人の現前がただちに弥陀の大悲になってしまっているのである。ここに、部分が全体に含まれるのでなく、部分が直ちに全体だという理事無礙的直覚が表現されている。他の宗教でも言葉は違っても、このような宗教経験はあるに決まっている。ところがそれを言葉で表現するときには禅者や真宗信者の言葉は世界に類を見ない直接性を発揮するのである。他国にそこまでの表現がないのは言語の特性の違いによるところが大きいと考えられる。しかし直接的な表現が出ないということは、そこまで直接的な把握はできていないということを意味する。
西洋的表現の中で神と人との一体が語られていても、その一体感は十分に直接的ではない。日本的霊性という書の「超個が個で個が超個だ」という表現は誠に徹底している。日本の親鸞以前には霊性がそこまで直接的に体得された例は稀だというのが、本書における大拙の主張の肝なのである。以下、大拙が親鸞宗の特徴を語っている文章をもう少し引用しておこう。
浄土はあってもなくてもよい。光の中に包まれているという自覚があればそれで足りる。真宗の教えの本質は浄土よりも他力にあると大拙は主張する。
浄土よりも霊性の悟りが目的なのである。そして大拙は因果の束縛と弥陀の大悲の関係を以下のように説明する。
浄土系は現実否定のように誤解されやすいが、本当は他力に裏打ちされた絶対的な現実肯定なのである。だから、因果の束縛すなわち業を尽くした後で浄土に行くのではない。業を抱えたそのままで阿弥陀の大悲に救い取られてしまうのだ。ここにも日本的霊性の直接性がよく表れていると思う。
親鸞聖人への日本的霊性の顕現についての大拙の説明は上記のとおりである。ただ霊性的自覚を持たない人にはこうした解説が十分な説得力持つことはない。大拙や親鸞を本当に理解したければ直に日本的霊性に出会わなければならない。
14. 妙好人(みょうこうにん)
妙好人とは浄土系信者の中で信仰に厚く徳行に富み、しかも知的階級に属さない人をいう。浅原才市は船大工で、安心の境地に達したのは五十を超えた頃だという。彼は生業の下駄作りのかたわら、その独自の信仰を身辺にちらばる 鉋屑 に書きつけた。飾らない素朴な文字の中に安心の境地が丸出しになっている。才市の詩をひとつ引用する。
この才市の詩は2.霊性の定義に示した「二つのものが結局は二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つである」という大拙の言葉と同意と言ってよい。
15. 日本的霊性の顕現
日本的霊性は日本的特質をもっていてそれが鎌倉時代に法然・親鸞らの活躍で日本史の表舞台に登場することになる。その経緯をもう一度まとめて引用する。
上代とは飛鳥・奈良時代の約200年、中古は平安・院政時代の約400年のこと。仏教は貴族階級の間で指導的思想にはなっていたが、一般大衆までは浸透していなかった。
平安時代の初めに最澄や空海が据え付けた仏教思想は鎌倉時代になって大地に落ち着いて、農民や武士にまで浸透していった。思想は下層階級の生活の中で体験され実証されていった。
浄土系は農民や漁民、一般大衆の中に浸透し、禅は武士階級に取り入れられていった。
鎌倉幕府を支えたものは武力だけでなく大地に落ち着いた日本的霊性的自覚、すなわち大悲のハタラキであった。
霊性的自覚は決して抽象的なものではない。弥陀の大悲は生活の実相を破壊せずに、因果をそのままに、民衆を苦厄から救いとる。
日本的霊性の源流はもともと日本にあって、それが仏教的なものを消化しながらみずからの姿を顕したのだと。これが、本書を貫く中心思想である。
16. 日本的とは何か
ここまで日本的霊性の定義、特徴、歴史的展開について大拙の説明を追ってきたが、「大拙が日本的と評したその要素は何か」ということについてはまだ十分に明確にはできていないと思う。この項では霊性の日本的というのは一体何のことをいうのか、それを考察してみたい。
霊性の日本的な特徴について考えてみると、すぐに「情性的」という要素が候補として挙がってくる。まず、これに関連する文章を引用する。
浄土系を情性的、武士禅を情意的だというならば、日本的とは情性的のことか。しかし、これは霊性そのものではなくてむしろ日本的精神の特徴であろう。それならば、真に霊性の日本的なるものとは一体何をさしていうのだろうか。
日本的ということのより本質的な解釈として次に思いつくのは「直接性」である。しかし、これもよく考えてみると、直接性は日本的霊性の特徴というよりも「霊性一般」の性質だとも言える。ここをどう見たらよいのか。次の引用文を見てほしい。
上記引用では「直接性」と共に「単純性」が取り上げられている。しかし、いずれにしてもこれらは霊性というものを対象的に見て、霊性そのものの性質が直接的だとか単純だとか言うのではない。日本的というのは霊性を外から見て言うのではなくて、霊性の精神への現れ方のことだとわかる。
大拙が我らの霊性が日本的であるというその理由は、以下の言葉によく表れている。
大拙は、たとえば「中国民族的霊性」とか「欧州諸民族の霊性」のような表現も使っている。これも中国や欧州の人たちの精神的気質の方面に焦点が当てられていて、霊性の質の話ではない。霊性そのものの質ということになると、おそらくは国による違いなどないのだ。そもそも、このような「霊性そのもの」などいう切り取り方が、適切では無いのである。それを言い出すと、言葉というものはすべて象徴の域を出ないのだが。
更に二つ引用しておく。これは「霊性の世界性」についての説明である。
大拙は日本的霊性という言葉が単なるお国自慢にならないように心を砕いている。その点には注意が必要だが、「日本的霊性は霊性としての現れ方がもっとも直接的で単純で情性的だ。」というのが大拙の主張だと思う。
日本的といえば国土と結びつき、空間的に限定されてしまう。それから鎌倉時代に顕在したと言えば時間的に限定されてしまう。しかし、霊性自体はどうしても、無限で永遠の性質をもっていることを忘れてはならない。
第四章 国家と霊性
日本的霊性の続編にあたる「日本の霊性化」と「霊性的日本の建設」では、政治や組織や人間活動と、霊性との関係が論じられている。まずは日本的霊性(第二刷)の序文から、戦前・戦中の仏教界に対する大拙の批判文を引用する。
大拙はこの書を通して、人々の日本的意識の中から霊性的自覚を呼び覚まそうとしている。
また、世界中の人々に日本的霊性の特異性を説明し、それにより、世界の人々の中から霊性的自覚を呼び覚ますことも、この書の遠い目的の一つではあるだろう。
17. 御稜威(みいつ)
組織と自由の問題を考えるときには日本の戦時中の不自由を考えてみるとよい。ここではまず、大拙が戦時中の行き過ぎた天皇崇拝思想に言及している文章を見ておきたい。
御稜威は今はあまり聞かない言葉だが、太平洋戦争で行き過ぎ国家主義の基本思想になったと大拙は言う。21世紀の現在も独裁国家で行われているような馬鹿げた洗脳と言論統制は、80年前の日本にも行われていた。
他国と戦争するにしても、国民を支配して「聖戦」と信じさせるようなことは、現代の日本人から見たら信じられない愚行ではあるが、これは実際に起きていた。
現代日本人が見れば、当時の日本の蛮行は阻止したいと思うだろう。戦時下の日本には現在の北朝鮮やロシアの独裁と重なる面がある。原爆の被災は無用な悲劇ではあったが、聖なる戦いなるものはいずれ終止符が打たれるべきではあった。
18. 世界主義と国家主義
21世紀初頭の今、世界的に保護主義や組織我の台頭が目立ち始めている。国家我とか組織我、個人我などの我力が勢いを増すと、組織間や個人間には争いが絶えないことになる。
国家主義がすべて諸悪の根源というのではない。ただ、独裁的体制下で独我的に構想された超度の国家主義は、国民と国家に多大な被害をもたらす。
19. 日本国憲法
日本的霊性に続く「日本の霊性化」より、大拙の憲法観のうかがえる記述を引用する。
最高の理性が人間のために考えたら、兵力の廃絶を訴えるのは当然だと思う。一方で、21世紀初頭の現在、ロシアや中国などの力による現状変更の試みを見ると、他国の侵攻に対する十分な備えを持つことを怠ることはできないだろう。
「どうあっても戦争はしない」というビジョンは、周辺にならず者国家がある状況下では現実的でない。防衛力は周辺国とのバランスをとって控えめに装備するのが良いのだろう。ある講座で、「ケンカはしてもいいが、いらぬケンカはやめたらどうかな」と諭す大拙の肉声が残っている。憲法9条は平和憲法としての理念は残しつつも、歯止めの制度は国民的議論を尽くしてもう少し現実的に修正するのがいいと、今は思う。
第五章 自由ということ
日本的霊性の本質を一言で表現すると「自由」ということに行き着く。ところが現代日本ではその自由という言葉の真の意味が失われて本当の意味を知るものが少なくなりつつあることを大拙は危惧する。本当の自由とは何か、これを、ここにまとめておく。
20. On Liberty
大拙は、普通に使われている「自由」という言葉は、本来は、より深い宗教的意義を持っていたのだと説明する。まずその「自由」という言葉の真の意義について、大拙の解説を読んでみよう。
大拙晩年の「東洋的な見方[iv]」から自由に言及している記述を更に引用する。
神と人とを二分してしまうと、創造性は神にあり人間の創造性は限られることになって、何やら不自由なものが出てくる。しかし禅は、神に奪われた自由を取り戻そうとする。
21. 自由と華厳的組織
組織とは窮屈なものだ。「みずからにより、他によらず」なんて現代組織ではとても許されない。組織の在り方を考える上で華厳の思想は重要なヒントを与えることになる。まず、大拙は現代社会における華厳思想の位置づけを以下のように説明する。
集団生活の実際面に華厳思想を具現化するとはどういうことだろうか。そもそも事事無礙とは何なのか。まずは大拙の解説を見ていきたい。
この引用で「特殊」とあるのは「一般」に対する「特殊」を言うので、特殊の個々といっても珍しい特別の個々というのではなく、ひとつひとつの具体的な個々を言うのである。個々とせずに個己としているのも面白い。だが、これは無我の己であるから、個己は個々としても差し支えないと思う。この無礙の個々からなる法界について、大拙は以下のように説明する。
ここまでが、事事無礙という世界観の基本的な解説になっている。そして、事事無礙という霊性的直覚は、独特の時間感覚を伴っている。大拙の解説の続きを見てみよう。
これは霊性的直観を体験した個人による時間感覚の直叙である。霊性的直観の中にあるのは絶対の現在で、流れていく時間と一つになっている人にとっては過去も記憶もない。そして、記憶の無いところには時間の感覚はないのである。この人にあっては、時間も空間も、絶対現在の中に溶けてしまっている。
続けて大拙は、事事無礙と、その前段階の概念とも言うべき理事無礙との違いを説明する。事事無礙を簡単に部分と部分の無礙性とすれば、理事無礙は全体と部分の無礙性を意味する。
そして、事事無礙の世界観を大拙は以下のように総括する。
大拙は事事無礙に基づく独自の組織論の概要を以下のように説明する。
事事無礙に徹底する時には理事も事事もない。大拙は事事無礙の組織論をさらに以下のように展開する。
そして大拙は、人間集団と蟻や蜂の集団との違いを説明する。
人間に至って進化は一変し、種族繁栄に留まらず、思想や美に対するあこがれ、霊性的直覚の世界などが生まれてきたのだと。
人間に自我意識が発生し経済生活のみに制限されずにこれを離脱しようとする。このとき人間的集団生活は知性的概念のみで規制していけなくなる。
人間は弾力性を欠いた知性的概念的な機構の中では生きてはいけない。各個人に自由を享受させ、しかも組織としてまとまっていくことが、人間的集団組織の原則だという。そして人間的集団生活を可能にする政治の在り方にも言及している。
正直なところ華厳思想は難解だ。華厳を知性の上で矛盾なく整理することはできない。華厳は主客未分の現前の中で、霊性的直覚によってのみ理解され得る思想なのである。そしてこの章に示した「真の自由」についての大拙の解説は、現代日本人にも大いに参考になると思う。
第六章 霊性の進化
ここまでは大拙による「日本的霊性」の解説を追ってきたが、この章では鎌倉時代に開花したという日本的霊性を歴史的に捉えて考察してみたい。これは筆者個人の解釈にはなるが、この霊性史観は「日本的霊性」という書の全体像を把握するための助けにはなると思う。
22. 霊性進化の三段階
人類の進化を三段階に見て、これまでの話を整理したい。三段階の一つ目は生命の時代、二つ目は精神の時代、そして3つ目が霊性の時代である。
※ この表に示した三時代は日本的霊性という書を読み解くために本論内のみで用いる便宜上の区切りである。
第一期「生命の時代」は知性獲得以前の生命史の中にあり、約二十万年前のホモ・サピエンス誕生が最大のイベントだ。「霊」と呼び得るものはあるとしても、未だ人類が動物として生きていた時代である。とはいえ、犬や猫などの動物に霊性がないとはなかなか言い難い。それは霊性の定義によるだろう。ただ知性発生前の霊性は霊性としての本領を十分に発揮し得ないので、本格的な霊性とは言えないことになる。
第二期「精神の時代」はサピエンスが知性に目覚めた「認知革命」に端を発する。「サピエンス全史[vi]」の著者のハラリ氏によると、それは七万年ほど前のことになる。精神の時代は個という虚構の世界的発展の時代である。つまり、個人や企業、政治体制や宗教などの強力な虚構が発展し、人類を支配した時代のことである。人類は言葉を最大の武器として社会を認識し、再構築し、科学技術を発展させた。実際をいうと現代人の99.9999%は今もこの第二期の精神の時代を生きているのである。第二期は知性的二元対立性をもった個の時代であるから、戦争が無くなることはない。
第三期は、大拙のいう「日本的霊性」が覚醒した時代である。この覚醒により、個は個のままに個への執着を破った。この変容は日本の鎌倉時代に、不二的二の直覚として、禅宗や真宗などの仏教徒の生活の上に姿を現した。霊性は「二の二たる理由」を直覚し、「二は二で二だ」という知性の独断を破った。あたかも粒子的に虚構されてきた個あるいは我が、粒子性と波動性とを同時に備えるものとして再発見されたかのように。これにより、少数の覚醒した人たちの心の中に、みずからを、自我、宗教、地域、経済、政治などの虚構の束縛や、情性的論理の罠から解放する素地が生まれてきた。こうして二つ目の林檎をかじった人、すなわち霊性に目覚めた一部の人々は、内なる戦争を終わらせた。日本的霊性は人類第三期に現れた「真の自由」の境涯を指しているともいえる。
23. 下萌えする日本的霊性
それにしても、本当に現代は霊性の時代なのか。霊性などというものは現代社会の中にはあまり見当たらないのではないか。これに関する大拙の文章を、また少し引用する。
全員が霊性に目覚めるものでないなら100万人に一人か。そんなものをあたかも人類全体の一大事のように、霊性の覚醒などと呼べるのか。今の日本人全体の中に霊性はあるのか。
大拙は空海や最澄の到達点は日本的霊性に裏打ちされていないと言っている。唯識や、般若、法華、理趣、華厳思想等の体得があっても、それは日本的霊性の発露ではなかったと。
日本民族の間に鬱然として下萌しているもの、そこに日本的霊性の基盤があって、人間の知性的・思索的な構築物はその上に積み上げられる。霊性について、大拙は以下のように注意を与えている。
まず霊性的自覚がなくてはならない。知性は霊性的自覚の上に設えられている。肝心の霊性的直覚は人間精神の歴史的発展の上に自然に経験されるのだという。だが、その霊性とは何なのか。結局よくわからなくなってしまって、話は元に還ることになる。最終的に、大拙は以下のように解説する。
これなどは身も蓋もない感じもするが、霊性は魂のような「体」ではないので「働き」と呼ぶしかないのだ。霊性は宗教意識である。この直覚を得た者には霊性が何を指すのかは明白なのだ。これを知性の上で表現しようとすると無理が出る。言葉の限界を超えている。現前に展開する霊性を生で捕まえるより他に方法はない。
24. タマシイ、レイセイ、アミダブツ
いかがでしょう、タマシイすなわち霊と霊性の違い、お解りいただけたでしょうか。魂とは個体の情意だと言っていいと思う。魂の中心は意欲なのだから。そういう意味では霊は自我の源でもある。一方霊性の方は、自我とか個などの虚構には縛られない超個の実動である。また、この霊性は決して自分勝手ではなく、他者や環境の都合も聞き、宇宙霊、全体霊、超霊の性質を示し、それは必ず個人の心を通して私たちの日常世界に働きかけて来るのである。
霊性とは知性や感情を超えた現前の直覚と言って良い。しかし日本的霊性となるとそれだけでは足りない。現前には本質的に主体も客体も無いがこれをあえて主体的に表現するならば、日本的霊性は、普段は意識されなくても、日本人の周辺に鬱然として下萌していて、日本的な特徴をもち、常に人々をして現前意識への参画を促しつづけている。それは「大地的・一人的直覚の地盤」であり、「生きた超個の人格」であり、私たちを情性的に、直接的に、矛盾同一的に現前へと誘うものである。
ここに阿弥陀仏について触れておく。阿弥陀仏は大悲の実動であり、霊性のニックネームとも言える。問題は、21世紀の現代にそのような存在を信じられるかという点にある。大拙は「弥陀の誓願を信ずるというのは、無辺の大慈悲にすがることである」と言う。このインターネットの時代になんでいまさら阿弥陀仏かというと、そこに大悲のハタラキが認められるからだ。ご利益なんて要らない。助けてくれるからすがるのではない。弥陀を信じる理由は、霊性的直覚の中に大悲の現前が実感されるからなのだ。
ただ、現代人には、大悲のニックネームとしては阿弥陀仏よりも、盤珪禅師の不生の方が響きやすい思う。盤珪のは不生禅であるが、よく見れば、不生は大悲であることが解ると思う。不生は大悲である。だが、阿弥陀仏に親しみを感じる人には、阿弥陀仏は最後まで面倒を見てくれる。仏の大悲にすがるのであれば、阿弥陀仏こそが大悲の源泉になるだろう。ただ、あくまで個人の感想としては、阿弥陀仏の名はやや古めかしすぎて、現代の若い人たちの耳には響きにくい傾向があると思う。
最後に、大拙の晩年に執筆され「東洋的な見方 (昭和38年)」に収録されている「東洋的思想の不二性 (昭和37年)」から、不ニ法界の働き方に関する記述を引用する。
人類は霊・生命から知性・精神を経て、その上に不二的二を見抜く霊性に目覚めた。ここに、少なくとも万人が不二的二を自覚するための地盤が生まれた。日本的霊性は人間の矛盾を解決する。現代的に表現するならば「矛盾同一性」である。絶対的矛盾は自己同一し、柱は柱のままで、馬打の球になる。真宗ではこれを煩悩即菩提という。矛盾が矛盾のままで矛盾でなくなる時節がある。西洋的な二分対立的な闘争を横跳的に解決するもの。そういうものが日本にはある。
最後の最後に、大拙最晩年の昭和40年に書かれた「東洋の主体性」から、もう少し引用する。
大拙は「最も抽象的なものが最も具体的」だという。ここに生きた一人がいる。そして、その一人を最も深く体現したのは、他ならぬこの本の著者であった。大拙こそは日本的霊性の人であった。
それにしても悟りの経験が全人類に行き渡るまであと何千年くらい掛かるのか。人類はそれまで殺し合わずに生き残れるのか。人は自由を求めて修行中、未熟なのはお互いさまだ。だが未熟は未熟なりに最勝を目指し、無意識の暗窟からにじみ出る悪意やら動物的本能に流されず、分かれていて分かれていない一人に徹底しなければなるまい。我らを包み飽くことを知らない霊性の無量の光に照らされて、ただ精進して生きていくだけだ。
おわりに
限られた紙面内に先生の主張を体系的・包括的に折り込むために、畏れながら先生の長文を短く編集した。興味を持たれた方は是非とも文豪大拙の珠玉の名文に触れて欲しい。
私たちが普段接しているこの世界の全ては自我が六識を元に再構成したバーチャル・リアリティだ。われらは心の奥のメンタル・スクリーンに映し出されるヨシナシゴトの上で日々を暮らしている。このメンタル・スクリーンの外には何もない。人間の喜びとか苦悩とかいうものは、このメンタル・スクリーンの上映会のようなものだ。
このスクリーンを壊してその先に何があるかを見よと禅はいう。真宗は、そのスクリーンを裏から叩く者は誰か、阿弥陀仏は何処にいるかと迫り来るのである。そのスクリーンを壊せば自分もなくなる。そのいなくなったところが霊性の活躍の場で、アミダも大拙もみんなそこでお祭り騒ぎをしているのに違いないと思う。
これが、一技術者としての小生の理解であるが、こういう考えもまたメンタル・スクリーンに映しだされた絵模様の一つであることを免れない。映写機はどこか、上映者は誰か。最も具体的な霊性とは一体どこに住んでいるのか。「霊性とは何か」、これはまだまだ今生は、小生の研究テーマでありつづけそうだ。
最後に、③霊性の複合性について、第一章冒頭の重要な視点に含めた理由をここに追記したい。本論で筆者は、日本的霊性を何か単一のハタラキとして捉えようとしてきたが、結局そのような意識を持っていては、日本的霊性は捕まえきれないのだ。複合と言ってもカウンタブルな複合ではない。そもそもが事事無礙の世界の消息なので、キッチリ分析することはできない。だが、単一のハタラキとして捕捉しようとする試み自体が知性の働きなので、そのような試みはきっと初めから、知性の無駄なあがきなのだ。本当は単一とも複合とも断定できないところに、日本的霊性の本質があるのだろう。
初稿 2018.8.11
Note に引っ越し 2024.4.22
[1] 理法界: 現象・差別の世界の事法界に対して、原理・平等の世界。理事合わせて法界。
[2] 法身: 色も形もない真実そのものの体。永遠の真理としての仏。
[3] 意識: 対象を分析し分類して認識する作用。般若はんにゃに対し、一般的な意識。
[4] 末那識: 一般に「意」と訳される。仏教に説く8識のうちの7番目の識にあたる
[5] 般若: 般若はんにゃの智慧。仏智。悟りの意識。大智ともいう。
[6] 衆生: 仏教用語で、生命のあるすべてのもの。ここでは、人々。
[7] 無上尊: 仏教用語で、釈迦または仏の尊称。ここでは、阿弥陀如来を指す。
[8] 無辺の大悲: 阿弥陀仏の無限の大慈悲心。浄土宗、真宗でいう他力。霊性の情性面。
[9] 人: 超個己の個に目覚めた霊性。この場合「ひと」と読まずに「にん」と読んでおく。
[10] 本願: 阿弥陀仏がいっさいの衆生(人々)、すなわち個々を救うために起こした誓願。
[11] 皮膚脱落し尽して唯ただ一真実のみあり: 中国禅の、六祖慧能の三代後の、薬山の言葉。
[12] 絶対矛盾的自己同一: 大拙の親友で著名な哲学者の西田幾多郎の言葉。⇔即非の論理。
[13] 理事無礙: 全体と部分、抽象と具体、平等と差別、一般と特殊が互いに妨げないこと。
[14] 嬰孩性: 赤ん坊、ちのみご、嬰児の持つ性格。
[15] 御幣: 神祭用具の一つで、紙または布を切り、細長い木にはさんで垂らしたもの。
[16] 妙諦: すぐれた真理。
[17] 真: 浄土真宗を略していう。
[18] 事事無礙: 事物が互いに遮らず融通する様。無礙は無碍とも書き、障害がないこと。
[19] 御稜威(御厳): 「厳」を敬っていう。天皇や神などの威光のこと。
[20] 現御神: 姿を持って現れた神、戦時中は天皇を指して言った。
[21] 親心主義: 政府を人民の親と考える(教える)思想のこと。
[22] 恵沢: 恩恵。めぐみ。
[23] 放縦不覊: 何ものにも束縛されずに、勝手気ままに振る舞うこと。
[24] 即非の論理: 鈴木大拙が『金剛』の中心思想とした「A即すなわち Aに非あらず」の般若系哲理。
[i] 「日本的霊性」 鈴木大拙 著、昭和21年 3月 大東出版 再版発行。
[ii] 「霊性的日本の建設」鈴木大拙 著、昭和21年 9月 大東出版 初版発行。
[iii] 「日本の霊性化」 鈴木大拙 著、昭和22年11月 法蔵館 初版発行。
[iv] 「東洋的な見方」 鈴木大拙 著、昭和38年 5月 春秋社 初版発行。
[v] 「仏教の大意」 鈴木大拙 著、昭和22年 4月 法蔵館 初版発行。
[vi] 「サピエンス全史」 ユヴァル・ノア・ハラリ 著、柴田裕之 訳、2016年9月発行。
[vii] 「大拙つれづれ草」 鈴木大拙 著、昭和41年12月 読売新聞社 初版発行。
■編集履歴
初稿 2018.8.11
第一章 2.「霊性の定義」に「精神と物質」の視点を加え、「精神と物質の奥」についての大拙の言葉に沿う形にした。これで、本論全体のニュアンスが少し変わってしまうが、この修正は、筆者の最近の霊性理解に応じたものである。
2019.10.26
第一章 2項「霊性の定義」に、新たに引用文を追加した。これにより、霊性とは、般若の知恵すなわち「大智」に、仏の慈悲すなわち「大悲」を合わせたものであるという、大拙による霊性の定義を明確化した。また、14項の「日本的とは何か」にも、いくらか加筆した。2020.10.12
日本的霊性の特徴を第一章から分離して第二章とした。その第二章第3項の「直接性」については、引用文を増やし説明を追加した。また、第5項には日本的霊性の特徴として「超個己性」を追加した。超個己性は、超個の方に焦点を置き、一人性は個の方に焦点が置かれているが、いずれも日本的霊性の現れ方を示す用語である。超個己性は禅宗で、一人性は浄土系で重視される日本的霊性の一側面だと言えそうだが、また、その逆のようでもある。
2020.11.25
昨年の2020.11.29に、第三章 14.「日本的とは何か」の項を、「霊性の人心への現れ方に、日本に独自のものがある」というように小生の見解を修正した。しかし、霊性はハタラキであるという視点と、霊性そのもの、という見方との関係が不明確であったため、そのあたりの説明をさらに整理した。
2021.1.3
3.項に即非の論理の説明を追加した。これにより、3.項以降の項番は、一つずつ繰り下げた。筆者は、即非の論理については、別の小論にまとめてあるので、そちらもご参照頂きたい。
2021.7.14
本小論文は、2018年に執筆した。その時は、大拙の真意が分からず、迷い迷い執筆していた。この夏、盤珪の不生禅を読み直していて、気づくところがあり、かなりの修正を加えることになった。主な修正点は以下のとおり。
第一章 霊性の定義: ここに新たに、重要な2つの視点を取り上げた。第一の視点は、日本的霊性は思想なのかということ。第二の視点は、霊性と日本的霊性は、その用語のカバーする範囲が、空間的のみならず質的にも違っていること。
1. 霊性と霊界: 「霊性は、文化がより知性的に成熟し知性の限界を感じるレベルに到達して、はじめて覚醒する」ということを追記した。
4. 霊性と日本的霊性: 本項は、第二の視点「霊性と日本的霊性とのカバー範囲の違い」を明確にするため、新たに書き起こした。広義の霊性については、禅意識が分別識に作用して文化を構築しているとき、日常世界の中に現れた宗教意識の所産を含めて霊性と言うものとした。
5. 直接性: これまでは、二者間の距離が間接的でなく直接的なのだと思っていたが、大拙の直接性はその程度の直接性を言うのではなく、矛盾同一のことだと気がついたので、この部分の文章を新たに書き直した。
7. 大地性: 「物質性にも精神性にも留まらず、具体性にも抽象性にも留まらない、大拙の大地は現前の大地である。」とした。
2022.9.8
4項、霊性と日本的霊性: 日本的霊性に関する二つの重要な視点を、「① 日本的霊性とは思想なのか」、「② 霊性の意義の二重性」として整理した。また、「思想」という言葉の使われ方を、霊性的直覚を解説し人々を目覚めさせるための【教育のための思想】と【霊性の所産としての思想】の二つに分けて、大拙が日本的霊性を思想と見るのは、前者の【教育のための思想】の場合だという説明を付け加えた。
2022.9.17、 9.22微修正
7項「超個己性」、8項「一人性」で、超個は大智の面に力点を置き、一人は大悲の面に力点が置かれていることを追記した。大悲は行動の原理と言える。
2022.9.20
Blogger から Note に引っ越し。超個己と一人は、基本、同じものだとした。時間の円環性については、科学的に厳密なものでないことを前置きとして追記した。表-1「霊性進化の三段階」の第二期霊性の存在目的を「個の精神的拡大」から「自我意識の成長」に修正した。その他、全体的に解りにくい部分を修正した。まだ、解りにくいが。
2024.4.21
Haruki Niyekawa氏の引用箇所がとても分かりやすかったので、その引用箇所を「2. 霊性の定義」のはじめに追加した。
2024.5.1
これまでは、大地性は霊性の性質を大地の物質性に譬えた面もあると思っていたが、どうも譬えというのは当たらないようだ。解説文を見直した。
2024.5.4
霊性を単一のハタラキと見ない方が良いかもしれないというアイデアを、第一章冒頭の重要な視点の③とし、おわりに に説明を追記した。
2024.5.5
大地性は譬えではないと書いていたが分かりにくい。譬えではないということも残しつつ、譬えの面もあるので、わかりやすく再調整した。
2024.8.30
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