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【HomeProdukt】 ②Denis Mpungaのインタビューを読んでみる

前回取り上げた、ベルギー地下音楽レーベル『HomeProdukt』で活動していた
Denis Mpunga。2017年にMusic From Memory から、Patrick Stasとの音源が復刻リリースされ、一部の好事家を騒がせました。
ベルギーのWEBマガジンで当時についてDenisのインタビューを発見

前回同様、反響のなさは確約済みでも、拙いながら翻訳しました。
PatrickStasの話から、ベルギーとコンゴ、彼のキャリアについて語っています。

■ Denis Mpunga&Paul.K の「Criola」

ベルギーのHomeProduktについては前回記事をご参照ください。
まず DenisMpunga & Paul.K(a.k.a Patrick Stas)の音源をお聞きください。

なんというか、今聞いても面白いですよね。
エフェクト増し増しアフリカのパーカッション、無責任な歌いっぷり。
シンセの仕事ぶりや、エフェクトの遊びはPatrick節が出ている気がします。
DenisとPatrickの共同作品は、HomeProduktにとどまらず(仏)hawai (西)「Auxilio De Cientos」のコンピレーションにも参加。にも参加。
これら音源をMusic From Memoryがコンパイルし、2017年に復刻
日本のレコード店でも並び、コンゴ&ベルギーのデュオとして紹介されました。
MusicFromMemoryのサイトでは、もう少し詳細を紹介されています。

■ The Wordについて

ベルギーのWEBマガジンで、国内のアート、映画、音楽、ストリートライフやらのカルチャーを英語紹介しています。
どうやら2ヶ月に一度、紙媒体でも少数発行している?あまりの情報量で、調べきれず。ネットラジオなんかも配信。

[ The Word ]  http://thewordmagazine.com
日本から見たら、かなりヨダレものなベルギー80sをさらっと取り上げていて、いったいこれらの知識ってベルギー人にとってどのくらいの認知度なのか。ベルギー人の友達がいたら聞いてみてるのに。

【肝心の記事はこちら】
http://thewordmagazine.com/music/denis-mpunga-discusses-his-early-80s-work-with-producer-patrick-stas-aka-paul-k/

MFMの紹介サイトより当時のことを話していて面白かったので、拙いながら必死に翻訳してみました。間違いを見つけた方は教えてください。

(1) インタビュー序説

Denis Mpunga氏にPaul K(Patrick Stas) との80年代を語ってもらった。
話の始まりは1979年ごろのリエージュ。
Denisは、中央アフリカの楽器をプレイする「Gomma Percussions」であちこちを廻る、枠にとらわれないミュージシャンでした。
彼は未知の音を探求するマッドな音楽家Patrick Stasと出逢います。
2人はセッションを始め、Mpungaはルーツである”コンゴ”の民族性を、Patrickの電子サウンドと重ね合わせ始めます。
そして誰も予想できなかった、未知の美しくエキゾチックな音が完成しました。
数十年と経ち、これらの音源を発掘したのは、驚きの仕事ぶりをみせるオランダ再発レーベル「Music From Memory」。
世界中の脱線電子音響マニアたちの耳を悦ばせるべく音源を集め、「Criola」という 再編集版を発売するにまで至ったのです。

(インタビュアーには文頭に■、それ以外は本人の発言である)

(2)生い立ち -ベルギーでの生活-

■ まず、あなたがベルギーにやってきた13歳の頃について。
どうしてリエージュに暮らすことになったんですか?
僕は十人兄弟の末っ子でした。コンゴ民主共和国(*1)の中央にあるカサイ州からやってきました。当時はまだ兄が弟たちを面倒見てやるのが普通で、特に歳が離れた兄弟ほどそうでした。
4人目の兄は聡明な人で、1962年の独立以来つづく助成制度でベルギーの留学ができることになりました。
彼はリエージュで経営学修士として学び、祖国のルブンバシ大学で助教授をするべく帰国しました。そのころから私の保護者役として面倒を見てくれました。
数年経つと、彼はもう一度ベルギーでPhD(哲学博士)を取ることを決め、13歳の私もついていけることになったのです。1971年の11月、あの寒い日を、昨日のことのように覚えています。

*1:大前提として、コンゴの中の元ベルギー領の「コンゴ民主共和国」である。
国連がコンゴと呼ぶ元フランス領「コンゴ共和国」は隣の国。
彼の祖国は1960年ごろに「コンゴ共和国」にベルギーから独立。
その後、代理戦争といえるコンゴ動乱を経験後、「ザイール共和国」として30年もの独裁政権が続く。1997年になりやっと「コンゴ民主共和国」となる。
当時70年代は「ザイール共和国」に変わった頃だが、この翻訳では原文に準拠し「コンゴ民主共和国」とする。 

■ そんな歳で国を離れると言うのは、大変な決断ではなかったですか?
いや、私は新しい土地で未知なものをいろいろと見たかったんです。
もう、アフリカでの生活は十分に満足したんですよ。毎日毎日、夕方6時に陽が沈む。まだ暑くても、寝たくなくても、その時間に寝るんです。両親を起こさないように、その間ずっと静かにしてなきゃいけない。
ある時、TVでヨーロッパを初めて見ました。映画の中のヨーロッパでは雪が降り、とても美しかったのを覚えています。

■ ご兄弟がPhDでベルギーに戻られた際に、あなたも一緒に来られたわけですね。あなたもベルギーでは勉強をしてたんですか?
ええ、ベルギーの学校に通ってました。兄の博士号の5年間が過ぎた後は、2人で祖国に帰る予定でした。
70年代のコンゴ民主共和国は、まだ安定してました。
モブツ国家元首(*2)もまだ、かつての英雄ルムンバ(*3)の理想であるこの制度を残していたました。彼の就任後の数年は、ヨーロッパで学びたい若者たちに対して、「帰国後は研究結果や能力を国に還元すること」を条件として、妥当な奨学金を助成していました。

*2:ザイールの独裁政権で、32年間大統領の座についた。
コンゴ動乱の際に、カサブブ大統領に付いて、ルムンバ首相を逮捕し、敵に渡した。しかしその後、再度クーデターを起こし、カサブブ大統領も追い出して、自分が国家元首となる。70年代は銅の生産に力を入れたため、経済が安定していた。

*3:独立運動の指導者、初代首相。ベルギーから独立するも国内のカタンガ州が独自の国として独立を宣言。カタンガ国を抑えるためにソ連に援助を求める。結果米国寄りのカサブブ大統領の逆鱗に触れ、モブツに裏切られる。

■ その助成対象の学問に音楽は含まれていましたか? 
もちろん含まれてません!音楽は仕事ではなくて、いわば趣味という扱いでしかなかったんですよ。
結局、国での仕事につながる勉強というのは、経済、法学、医学でした。この条件付きの助成制度に疑問なんて当時はありませんでした。
実際、自分が”アート”の世界で働くなんて、当時は思いもしませんでした。ありえなかったんです。とにかく私の兄は、条件通り祖国へ戻ることになりました。
私はというと中等学校を卒業した18歳で、自身がリエージュの大学で学ぶことを許されたのでした。
”共同体精神”を第一に置くコンゴ人の家族生活から、初めて完全に離れ、奇妙な単身生活が始まりました。兄は「お前のやりたい事をやりなさい」と後押ししてくれました。まあ、厳密に言えば、選択肢は決められたんですけど。
だから私は映画の勉強を専攻しようと決めていました。それが何を意味するか、正直理解していませんでしたが、ただ、映画編集を学べることには確かに興味がありました。

(3)アーティストとして -Gomma Percussions-

■ すでに音楽には傾倒していたんですか? 
音楽はよく聴いていました。13歳の時にジェームス・ブラウンの音楽に出会ったんです。わたしにとってのアメリカンドリーム、JB。
アメリカという巨大な国は、早くから庶民の”カルチャー”への理解を示したことこそ、抜きん出た文明化を手に入れる推進力を得られたのでしょうね。多くの国は、まだアメリカのようにはなれませんね。
ともかく17歳の頃、「趣味にどうだ」と兄がギターを買い与えてくれました。初めてのギターでした。
そんな彼も、私が映画の勉強をしたいと言ったら、許しませんでした。
「お前にはコンピューターサイエンスがいい。映画なんてうまくいかない」と諭されました。それで兄に従ったんですが、いまだから言えますがこれはキツかった。
私には論理的な脳みそなんてなかったから、早くから単位を落としてしまい、すぐに興味を持ち始めた心理学に転籍しました。人の行動を研究するなんて面白そうでした、もちろんセラピストになりたいとは思っていませんでしたが。
そこからは、私は両親に嘘をつきました。バレたのは、両親が送金の代わりに受け取った大学の履修証明をみて、落第したことを知った時でした。
ちょうどその頃、実験的なパーカッション音楽を友達と始めました。そこかしこで集めたガラクタを使ったのです。それがGomma Percussionsの始まりです。

■ それはいつ頃ですか? 
Gomma PercussionsをFabrizio Borrini (*4)と始めたのが19歳の頃ですね。
その直後にJean-Luc Slock(*5)と出会いました。我々より少し年上で、アフリカのパーカッションに造詣が深かったんです。
Jean-Luc のドイツでのインターンシップ時代の知り合いに Mustapha Tettey Addy(*6)がいました。彼はおもしろ楽器を自作する天才で、ただし演奏してくれる人が見つからなかったんです。
それで、狂ったようにポットやフライパンを叩いている我々の話を聞いて、「ぜひ演奏してほしい」って変な楽器を持ちかけてきたんです。

*4:たぶんこの人。
*5:この人だろ。上記4といる。
*6:この人なのか。

■ あなたたちは、すでにミュージシャンだという自覚はあったんですか?
ええ、まちがいなく。リエージュのTrou Peretteという会場の地下でよく練習していました。たまに中庭に出て演奏すると、みんな面白そうに寄ってきました。
また演奏してよ、と店側がお金を支払ってくれたから驚きました。70年末から80年初頭にかけて、アフリカのパーカッションなんて誰も知らなかったおかげで、みんな面白がってくれて、私たちは順風満帆で大満足でした。

■ ライブがメインだったんですね?
当時のあなたたちの音源を、7インチの音源だけは見つけられたんですが。
そうです、ほぼ録音はしませんでした、演奏したかったんです。もうスタジオ練習には飽き飽きで、観客との双方的な場こそ、私たちには必要だったんです。

■ 当時のLiegeのシーンについて教えてください。
当時のカルチャーを語るに重要な場所はいくつかありましたが、ロトゥーレのあたりにあった、現在は”KulturA”となった、Le Cirque d'Hiver(*7)が重要ですね。
実験的な音楽や、ジャズや、サーカスの演技、とにかく何でもありのオルタナティブな場所でした。もちろんTrou Perette も。現在のThe Pot au Laitのことです。

*7:前回記事でパンクイベントをやった場所。サーカスの会場のような見た目で、ここでパンクライブしたと思うと素晴らしい。ぜひ検索してほしい。現在のKultueAと場所が少し離れているが、運営者が同じということだろうか?不明。

■ その当時は、リエージュにはパンクとロックの大きなシーンがありましたよね。
でもあなたはもっと、実験的なシーンに引き寄せられていた?
その当時は、あちらこちらで実験的なことが起きていて、たとえば空き家とか工場を、スクワット(不法占拠)するTous a Zanzibarというイベントもありました。
当時のリエージュはダイナミックでした。長い歴史を持つ街だからです。
第二次世界大戦中、芸術家たちはベルギー、ドイツ、オランダの交差路に位置する リエージュに逃げ隠れ、そうした背景がベルギー・ジャズを育てる土台となったのです。
ただし、アフリカのパーカッションはほとんど知られていませんでしたが。

■ あなたは自分で楽器を作ってましたか?
ええ、楽器のストックがもう尽きたのです。
Jean-Lucは1982年にセネガルに行き、現地の「ブガラブ踊り(*8)」の演奏者と知り合いました。Jean-Lucの帰国と一緒にベルギーにやってきた彼ら演奏者は、1年間こちらに滞在している間に、わたしたちを鍛えてくれました。

*8:参考動画。いつもありがとうございます、民族楽器コイズミ。

(4)Criolaセッション -PatrickStatとの活動-

■ Patrick Stasと出会った経緯を教えてください?
Patrickは友達に紹介されました。
当時の私は、西アフリカの音楽に興味を持ってました。中央アフリカ出身の人間にもかかわらずね。Patrickはコンゴ地方の伝統音楽について尋ねてきましたが、Gommaのような音楽ではありませんでした。
この時気付かされたのです、ルーツであるコンゴの音楽に対して、私自身がまったく注意を払ってなかったことを。
彼はzazou bikyeを教えてくれました。私に幼少期に聞いていたはずの中央アフリカの音楽を、もっと調べてみたいと思うようにさせてくれました。
さらに彼は、「アフリカのリズムを混ぜ合わせた電子音楽を作ろう」と録音機材が揃っている彼の家に誘ってくれたのです。

■ リエージュにいながら、どのようにしてコンゴ音楽を調べたんですか?
2、3年に一度は帰国していたんです。ときどき村に帰っていました。
Patrickとのプロジェクトが始まると、コンゴの演奏家たちのプレイに注目するようにしました。今までと違った視点で、祖国の音楽を分析し始めたんです。
父はハープを譲ってくれました。形は悪かったですが、弦を張り替えて、演奏をしてみました。子供の頃とはまるで違いました。
そのころ、中央アフリカの民族音楽家が多数いることや、彼らの民族音楽を「ベルギー王立中央アフリカ博物館」で聞けることに気づきました。
Patrickは、Zazou Bikaye や Konono N°1のような中央アフリカ音楽と電子音響を駆使した音楽をたくさん紹介してくれました。私は啓蒙され開眼していきました。

■ つまり、Patrickによって、音楽の見方が変わり、あなたは自身のルーツと和解できたと言ってもいい?
まさにそういうことです。しかも、電子的かつ音楽的な融合も含め。
中央アフリカの音楽をしっかりと聞いてみると、西アフリカの音楽のように音階が綺麗に整えられていないんです。(微分音を操作できる)アナログシンセの発明の功績の一つは、電子音楽と中央アフリカ音楽とがリンクし合い、自然に触発され、火がついたことです。

■ それでは、Patrickとはどんなふうにコラボをしていたんでしょうか。
最初はお互い、好きなアーティストや音楽を聴かせあったと思います。
1984年は、彼の家でいくつか録音しましたが、形式は定まりませんでした。
出来上がった結果よりも、プロセスに重きを置いていました。
とても直観的なものでした。それがどう落ち着くのかなんてわからぬまま、私が演奏している間は、彼は一緒にパイプとかを投げていました(*9)。
私はあの変な楽器たちを全部、彼の家であるスタジオに持ち込みました。奇跡的に奥さんは理解のある人で、居間でこういう事をしていても許してくれたんです。

*9:ここは本当によくわからなかったので、英語詳しい人教えてください。

■ つまり、ジャムセッションを何度か繰り返したけど、何か音源を作るためではなかったんですね。
音源が目的ではなかったですからね。
でもPatrickにはコンピレーション用に依頼が来ていたので、たまにそういう録音もしましたよ。
事実、「Criola」でスペインのコンピに参加しましたし、後にそれをMusic From Memoryが見つけ再発してくれるわけですが。
今から2年前、Facebookを通してMFMから復刻の相談をもらいました。Patrickとも15年連絡をとっていなかったので、まずは彼を探し出し、マスターテープを持っているか聞きました。彼はいくつかの8トラックテープを見つけ出し、それがリリースされたのでした。

■ 当時のセッションはどんな内容か覚えていますか?
Gommaでたくさんツアーをしていたんですが、休暇が取れたらPatrickに電話をしました。彼は週末、レストランでの仕事が忙しい以外は、わりと自由な身でした。
だから、彼は月曜と火曜に少し休んだあと、水曜日に私たちは取り掛かりました。
セッションは本当に自由で、Gomma のメンバーは、このセッションを正直理解できませんでした。
古典的な音楽で鍛えられた彼らに対して、私たちはオーソドックスから外れた音楽をやっていました。今になってやっと理解されてきたわけですが。
音楽の研究をしていたようなものですね。新しいプロセスを作り上げたくて、ある時はジャンベにディレイをかけてみました。
星の数ほどの実験が試されてはボツになりました。ほとんどは聞けるものではなかったですが、まれに素晴らしいものもありました。
私たちは、世間の売れっ子ミュージシャンになれない事なんて気づいてたんです、自分達の満足するためだけに実験をして、ただただ自分達のセンスで作れる「本当の音」を作りたかっただけなんです。

(5)レコードの復刻について

■ では、もしもこのスペインのコンピレーションがなければ、この音楽は完全に世間から忘れられ、葬り去られていたと言うことですか?
ええ、そうですね。もう一つの要因はレコードの再ブームもありますよね。
そのおかげで、突如こんなレコードのことに詳しい20代が現れたんです。
アムステルダムのリリースパーティーに行ったのですが、私を待ち構えているレーベルオーナーは40代~50代と思ったんですが、全く逆ですよ。
20いくつかの若者がこの音楽を見つけてくれたんですよ。

■ それはこの音楽がもつ、「時代を越えるおもしろさ」ゆえですね。今日の録音と言われても納得がいきます。
あなたがそう言ってくれるなら、そうなのでしょうね。
でも当時の私たちには、コンセプトなんて、これっぽっちもなかったんです。

■ 当時はどんな音楽を聴いていたんですか?
うーん・・・私はいつも折衷的なところがありますしね。
私を奮い立たせる音楽を受け入れる傾向があるんです、技術とかに関わらず。
だから、なにかと自分の心を震わせるものを聞くようには、なってしまいます。

■ 当時、特に聞いてたものを強いて挙げるとすれば?
パーカッションに情熱を燃やしていたので、そう言うのはたくさん聞きましたね。
たとえば、ドラム缶を叩くLes Tambours du Bronxとか。
あとジャズをたくさん聞きましたが、特別誰かを追っかけて聴かなかったですね。
実を言うと、私たちが活発に演奏していた80年代では、たくさん演奏していたんですが、他のミュージシャンを見るチャンスはあまりなかったんですよ。
フェスが素晴らしい理由ってこういうことなんです。

■ この編集版のレコードに使われたジャケットについて教えてください
これは当初スペインのコンピレーションでCriolaを収録した時に使ったものです。
Music From Memoryにはジャケットを求められた時、復刻の筋を通すためにも、同じものを使うべきだと感じました。
私の後ろでは、足の速いダチョウを、当時のレコード保持者であるエチオピアのランナー(*10)が追いかけています。カルチャーの速度を描きたかったんです。
あとは「りんごを齧れる、骨をしゃぶりつくすことができる、そんな歯が私にはある」ってことを見せつけたかったんです。
ポリコレ的に大丈夫かとか、そんなことは当時だれも心配しませんでした。そんなことへのイメージもなかったんです。
私はチキンの骨を歯で噛み切れるなら、そうやって食べますよ。別に野蛮ってことにはならない。
もしもそう言うふうに見えてしまうなら、問題を抱えているのはそちら側です。
私がチキンの骨を砕いて食べるのは、骨髄が美味しいからですよ。
MFMが他の写真を求めてきた時に、私は長い説明を書いて送りました。
要約するとこう言ったんです。
「あなたたちはMusicFromMemoryなんですよね。ならば、このレコードの記録を、そこで何が起きていたかの記録を受け入れないといけませんよ」
それはアメリカの奴隷制での人種差別を消すような歴史修正です。
実際にそこに存在していたのにね。

このアートワークは、本当にただのジョークなんですよ。
実は、友達とバーベキューしていた時の写真なんです。まだ覚えているんですが、肉がほとんど残っている骨を、友達はみんなどんどん捨ててっちゃうんですよ。
だからみんなに、見せてあげたかったんです。「こうやって食べるんだよ」って。
グラフィックデザイナーであるPatrickの奥さん(*11)が、この妙なコラージュのアイデアを考えてくれました。

*10:エチオピア選手を1時間探し回りましたが、特定できませんでした。
*11:前回のコンピの話でも、ブックレットを作っていた。

(6)その後のキャリア -アーティスト活動として-

■ あなたは、役者、ディレクター、作曲家というキャリアを重ねていきます。
マグリット賞でもノミネートされ、『イゴールの約束』でも作曲していました。
音楽家と役者の仕事のいずれにも繋がる「哲学」のようなものはあるのですか。
いい質問をありがとう。振り返ることしか今ではできませんが、ある程度はそうなのでしょうね。そういう哲学の領域は確かにあって、必然的な幾つかリンクや要素があるのでしょう。
私の初期の経歴は本能的な手法で活動してきました。いまはプロジェクトや夢を磨きにかける時期だと思います。
運命的な私たちの感受性があったからこそ、Patrickとの活動を続けられたのだと思います。その活動は、疑問を持ち続けるということで合致していました。確信はなかったが、私たちは何かに向かって進み続けていました。
私の達成したことや活動を見返しても、常にそこには「この世界の市民として生きること」の本質が炙り出されてきました。

長い間、私のルーツはアフリカにあるものだと考えてきました。
でも私のルーツは、私の一部として存在し、常に持ち歩いていることに気づいたんです。
人との出会いや、新しい体験、そして世界を知ることによって、ルーツとは再創造され続け、そしてそれを常にあなたは持ち歩くことになる。
これは「世界市民になる」と言うことは、「あなたの原点を超えていく」ということであり、それがゴールではないのです。興味深いことですよね。
これは結局、人生の意味を探し続けることに変わりないんです。

■ それは、いまもプロジェクトを考える際の手助けになっていますか?
おっしゃるとおりです。
たとえばアメリカを始め、様々な国で、エスニックな俳優に割り当てられる「ステレオタイプ」な役についてよく語られます。
本当は「ステレオタイプ」かどうかなんて問題ではないんですよ。
大事なのは、その役からどんな素晴らしいものが生まれるかが重要なんです。
観客のみなさんにも伝えるべきなのは、
「ステレオタイプの話が重要ではなく、俳優は役を選ぶ場面で自由があるし、脇役であってもそれには意味があるんです」ということです。
価値観は変わるんです。最も難しい変化とはは結局、先入観なんですよ。

■ しかし、そんなありふれた役を受け入れると言うことで、あいかわらずその先入観を許すような状況まで受け入れていませんか?
そうでしょうね、台本に書いてあることを読むだけならば。でもすこしの方法で、「ステレオタイプ」から逃れられるんです。
私も、よく配役時に「なんだ、もっとゴリゴリのアフリカっぽいアクセントを期待してたのに」なんて言われるんです。
そんな時はこう言うんです。
「私のアクセントは私だけのものですよ?アフリカのアクセントって言うけど、具体的にアフリカのどこらへんのアクセントがお望みなんですか?」
つまりね「なんだ、もっとヨーロッパっぽいアクセントを期待してた!」っていうのと同じなんですよ。
ほらね、アクセントってなんでしょうね。
本当にストーリーを考え抜いたすえに、「南セネガルの一般的なアクセントをお願いしたい」と言ってくれる監督と出会えたなら、話は全く別ですがね。

■ 振り返ってみて、ご自身の経歴で一番誇らしかった瞬間を教えてください


10年近く”アーティスト・イン・レジデンス”としてイクセルという町で暮らしていたのですが、2007~2009年に町の劇場「Varia」との仕事がありました。
ブルンジ共和国民間DVシェルターと協力して、性的虐待の被害者と作り上げたプロジェクトでした。
彼らの文化では、こういう話題を打ち明けらる風土がなかったので、まずセラピーグループが必要でした。集まった女性たちは、耐え抜いてきた経験を語ってくれました。志願者は話を撮影させてくださり、それを作家と共に脚本を構成しました。
とても特別な時間でした。
劇場という媒体が、ただ芸術家の欲求やエンタメだけのために存在すのではなく、もっと別の目的を持ち、動きはじめたのでした。
そして、彼女たちの人生に変化のチャンスを与えることができました。
彼女たちは、自身のコミュニティ内では「価値を失った性的被害者」とみなされ、仲間内ですら守ってもらえず、むしろ差別されてきました。
このプロジェクトで、彼女たちは土地を買い、家を建て、不幸を成功に切り替えられたんです。これは、劇場という媒体のひとつの成功です。(*12)
これがわたしにとっての忘れられない体験です。

*12:ブルンジのMaison des Femmes du Burundi。

あとがき

前回のあとがきで、MFM復刻を調べている際に、日本のCDショップに載せている経歴情報がバラバラだと気づき、Mpungaさんが結局何者かと気になってました。
それでPatrickさんとあわせて検索しているうちに、The Wordに辿り着きました。前回のようなレーベルオーナーのインタビューとは面白味がだいぶ異なります。
ですが「コンゴ民主共和国」と「ベルギー」の歴史、その中で生まれた音楽含め、エスニシティとアイデンティティの話がとても面白かったので取り上げました。
相変わらず、自分よりもこういう情報をまとめるのが上手な人をお待ちしています・・・。

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