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誕生日の意味が増えた日

母から兄弟グループLINEに「@ココさん(私) 誕生日おめでとう🎁🎂」というメッセージが届いた。

自然と「(お母さん)〇〇年前の今日、頑張ってくれてありがとう」と返していた。

何十年も生きてきたけど、そんな風に思ったことなかったな。そして、若い時にはそう思ったとしても気恥ずかしくて言えなかったのだろうな。これが歳をとるという事か。

それとも、結婚して妊娠して出産して、家族が健康でずっと過ごせたり、仲良くいつづけられる、というのは決して当たり前ではない、と最近思い知ることが多かったからだろうか。

そもそも、母に誕生日を祝われるということ自体がものすごく新鮮だった。

今でこそお店も増えつつあるけれど、私の実家はど田舎で、子供の頃は普通のホールケーキが売っているケーキ屋なんて町に一つしかなかった。祖父母も同居で兄弟も多く、両親はフルタイムの共働き。家族ひとりずつの誕生日を祝うとか、まして友達を呼んで誕生日パーティーなんてものもした事が無かったのだ。

唯一、ホールケーキが出てくるのは12月24日だけで、大晦日生まれの弟の誕生日プレートとクリスマスのプレートが2枚乗っているのが実家流。しかもアイスケーキ(サーティワンで売っているカロリー大爆発のアレです)。結構大人になるまで、ホールケーキ=アイスケーキだと思っていたからね。恐るべき田舎の情報量の少なさよ…。

それすらも、母が忙しくて注文を忘れていたら25日になったし、アイスクリームケーキだったのも、徒歩圏内の仕出し弁当屋さんで買えるから、という理由だったことを後に知る。ケーキにも誕生日にも、アイスを思う存分食べられる日という以上の思い入れは無かった。

そんなだから、誕生日はパーティーをしたり、プレゼントをもらったりする「特別な日」というのが世間の常識らしい、と知ってしまってからは逆に厄介で。

なぜならば私の誕生日は確実に夏休み中。たまたま学校で「実は今日誕生日なんだ(照)」という会話があるはずもなく、お盆明けだから登校日もない。もうすぐ誕生日と夏休み前に話題が出たとてまだ1ヶ月もあって、夏休みの諸々のイベントで忘れられる。今みたいにLINEやスマホも無いし、「何か世間的には特別な日らしいのに誰も気づいてくれてない…」みたいな切なさを噛みしめる1日だった。書いてて辛い。

一回だけ、その日にコンサートか何かを全学年で鑑賞する日がかぶって、一日友達に話しかけられるたびにものすごくソワソワしていたのを覚えている。でも自分からは言えない。祝われたいと思ってるなんて気づかれたら…!面倒くさいな、10代。かわいく言えばいいじゃないか、祝って♡って。(ウザい)

今なら大声で言えるのに。かわいくはないけど。ツラの皮が厚くなるのも歳を重ねたということか。

あるのが当たり前だと思っている内には気づかない。だからこそ、1年に一度の誕生日くらい、自分が持っているものを素直に噛みしめて感謝する日にしよう。

また1年生きてこれた。私の周りにいてくれるすべての人にありがとう。

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