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尾崎豊の「シェリー」とは誰/何か

尾崎豊の「シェリー」という歌がある。

私はこの歌が好きで、とくにある時期はよく聴いていた。歌詞が気に入っていて、自分なりに思うこともいろいろあった。

他の人たちはどんなふうに解釈しているのだろう。ふと気になり、ブログやSNSで探してみたこともある。本当に多様な感想や考え方があふれていて、読んでいてとても楽しかった。

ところがこの歌を自分と全く同じように受け止めている人は、どうやらいないらしかった。少なくとも自分が見つけることができた範囲では。

そういうわけで、せっかくなので私なりの解釈や好きなところを語ってみることにする。

⚠️私は尾崎豊が亡くなった数年後に生まれているので、彼をリアルタイムで知っていたわけではない。その時代の空気感すら知らない人間だ。彼の人間性や逸話、人々がどれだけ彼に熱狂していたのか、そういったことをあまりよく知らない。
そんなわけで、ファンの方々からしてみれば、私の解釈には違和感あるかもしれない。


歌い出し10秒で全てを語るワードセンス

シェリー 俺は転がり続けてこんなとこにたどりついた

尾崎豊作詞作曲「シェリー」

このフレーズから歌は始まる。この歌い出し10秒の鮮やかさに圧倒される。

このフレーズのどこがすごいのかというと、「転がり続けて」の部分ーー「転がる」という語の選択の的確さだ。

他の動詞ではなくて「転がる」であることに、必然性があるように私には思える。

「転がり続ける」という動詞から想起されるイメージは、大体こんな感じじゃないだろうか。

・下降していく、落ちていく感じ。落ちぶれていく。(もし道が平坦であれば転がり続けられず、いずれ止まるはずだ)
・行けば行くほど、時が経てば経つほど、スピードが加速していく。
・自分の意思ではコントロールできない。
・引き返すことができない。

自分でもコントロールが効かないまま、何かに翻弄されて「こんなとこにたどり着いた」。そう、不本意な場所にたどり着いてしまったのだ。

それがこの歌「シェリー」の根底にある物語なのではないかと思う。

それを歌い出し10秒くらいでスパッと明示できる才能の強さにグッときてしまう。

もしこれが「転がり続けて」ではなくて、「走り続けて」だったらどうだったか。

走るという行為は、当たり前だが自分で体を動かすことによって成される。

だからそこには主体性が感じられるし、行く先も自分で決めているはずだろう。

走ることが努力みたいなものにも思えるし、そうなると「こんなとこにたどり着いた」の「こんなとこ」が素敵な場所に聞こえる可能性すらある。

これでは全く別の歌になるだろう。後半の苦しみを感じるパートと、辻褄やトーンが合わない。

それでは、「彷徨い続けて」ならどうだろうか。

「彷徨う」にはスピード感はない。むしろ、うろうろと同じところを行ったり来たりして停滞しているイメージがある。

そのためか「彷徨い続けて」とした場合、後半の「俺はうまく歌えているか」パートから続く葛藤の場面の切実さが薄まってしまうような気がする。

彷徨っている時間があれば、ゆっくり考える余裕もあるでしょ?という風に。

そういうわけで、やはり「転がる」に必然性があるのだ。

若い心をありのまま率直に歌っているように見えて、実は修辞にもぬかりないクレバーさを併せ持つ。

私にとってはそんな二面性が尾崎豊の魅力に感じられる。

(率直さが好きなファンからは怒られるかもしれないが……個人の感想として。)

シェリーとは誰なのか


そしておそらくこの歌の最大の疑問となるのが、「シェリー」の正体だろう。これだけシェリーシェリーと連呼されれば、さすがに気になってしまう。

ネット上でも「シェリーは誰なのか?」という問いを立てて考察しているファンが多いようだったので、私も自分なりに考えてみることにした。

まずはシェリーについて歌詞から読み取れることを確認していこう。

・呼びかける対象になりうる
・「金か夢かわからない暮し」と「俺」の暮らしのことを言った
・「俺」を「時には無様なかっこうでささえてる」
・「俺」はシェリーに叱ってほしい、強く抱きしめて欲しいと思っている
・シェリーは「うまく笑え」る

なんかちょっとシュール。

このように見ていくと、やはり恋人だろうか。

しかし結論づけるにはまだ早いかもしれない。まだ気になる点がいくつかあるのだ。


①矛盾

シェリーは転落していく「俺」のことを支えてくれているようだ。それはこのフレーズから読み取れる。

転がり続ける 俺の生きざまを

時には無様なかっこうでささえてる

一方で、「俺」はシェリーにこう問いかける。

シェリー 夢を求めるならば 孤独すら恐れやしないよね

シェリー ひとりで生きるなら 涙なんか見せちゃいけないよね

涙なんか見せずひとりで生きていくぜ……みたいなことを言っているのだ。

あれ、シェリーさんが支えてくれてるんじゃなかったの? 一人なの?

と素朴な疑問が生まれる。


②恋愛の歌として考えづらい

「俺」はこれほどたくさんシェリーへ呼びかけているにもかかわらず、シェリーへの思いや二人の具体的なエピソードを語ることはほとんどしていない点も違和感の一つだ。

シェリーがどんな人物なのかの描写もほぼないし、二人が過ごした時間のエピソードも何もない。

そのことが恋愛の歌として読むことの限界を物語っている気がしてしまう。

シェリー 俺はうまく歌えているか

俺はうまく笑えているか

俺の笑顔は卑屈じゃないかい

俺は誤解されてはいないかい

俺はまだ馬鹿と呼ばれているか

俺はまだまだ恨まれているか

俺に愛される資格はあるか

俺は決してまちがっていないか

俺は真実へと歩いているかい

この箇所なんて、もはや自問自答だ。世間から自分がどう見えているかという問いに答えるのは、別に一人の特定の人間じゃなくたっていいだろう。シェリーじゃなくてもいい。

また、尾崎豊の恋愛の曲には客観性があり、自分と相手を「二人」と呼ぶなど、どこか俯瞰して表現することが多いように思える。

流れた時の多さに うなずく様によりそう二人

尾崎豊「Forget-me-not」

何もかも許された恋じゃないから

二人はまるで 捨て猫みたい

尾崎豊「I love you」

二人黄昏に肩寄せ歩きながら

いつまでも いつまでも 離れないと誓うんだ

尾崎豊「OH MY LITTLE GIRL」

しかしこのシェリーという歌には、「二人」というワードは一度も出てこない。


③シェリーが人名ではない可能性

女性の名前のように思える「シェリー」という単語についても検討してみる。

日本語でシェリーと訳される人名はいろいろな綴りのバリエーションがあって、ざっくり分けてシェリー酒に由来するものとフランス語のシェリーに由来するものがあるそうだ。

フランス語では、夫婦や恋人、親子間など、大切な存在に対して呼びかけるときに使われる「シェリー」という単語があるらしい。おそらく英語で言うところのdarlingのようなもの。これが一部の人名の語源になっているという。

ひょっとして、尾崎豊の歌詞の中の「シェリー」も、フランス語のシェリーだったとしたら。

シェリーは実は「シェリーという名前の人物」ではなく、「『俺』が大切に思っている何か」なのではないか、と解釈の幅を広げられそうだ。

ここで、「シェリーが『俺』を支えること」と、「『俺』がひとりで生きていくこと」が両立しているということを思い出そう。

私は考えた。この歌の登場人物は、本当は「俺」一人だけなのではないか。

シェリーは人ではなかったのだ。


シェリーとは何なのか


問いを変えよう。シェリーとは何なのか。

それは、「自分の中にいる、もう一人の自分ーー夢を追いかけたいイノセントな自分」なのではないかと私は感じた。夢と言い切ってしまってもいい。

「夢が『俺』を支えること」と、「『俺』がひとりで生きていくこと」は、ちゃんと両立する。

「シェリー」と何度も呼びかけるのは、夢を抱くイノセントな自分に何度も呼びかけ、問いかけていることと同じ。自問自答だ。

シェリー 優しく俺をしかってくれ

そして強く抱きしめておくれ

おまえの愛が すべてを包むから

現実に翻弄される自分を、優しく叱って夢を追うことに引き戻してほしい。そんな願いのように聞こえないだろうか。

夢のために生きたい自分(シェリー)と、現実に翻弄されてわけもわからず転がり続ける自分(俺)の間で引き裂かれ、自問自答を繰り返すーー苦しい葛藤の歌

この歌がそんな風に見えてならない。そんな切実な葛藤に、他者との恋が入り込む余地はないようだ。

そしてこの歌は、印象的なこのフレーズで終わる。

シェリー 俺は歌う 愛すべきものすべてに

「愛すべきもの」は、前述したフランス語のシェリーと意味するところが近い。

だからこのフレーズを「俺は歌う シェリーのために」と読みかえれば、「『夢を追いかける自分」のために歌う」、と捉えられる。…というのは考えすぎだろうか。



心の内の苦しく切実な葛藤をリアルに見せた「シェリー」という曲は、最後はこうして夢のために歌い続けることを宣言して終わる。

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