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1.私と草加について

こんにちは、はじめまして。

草加LOCALSTORYを運営しているアンポです。

これから、このメディアについて、思うことを書いていきたいと思っていますが、まず今回は、私と草加の関係を少しお話しします。

幼少の頃から大人になるまでずっと草加にいました。生まれは東京でしたが、物心ついた時は既に草加に住んでいて、草加の幼稚園に通っていました。

私が育った場所は草加市稲荷町というところです。駅から3kmくらい離れていて、今は、住宅街になっているような場所です。幼い頃は、まだ田んぼや畑がたくさん残っていて、小学校の帰路に田んぼがあり、よく「せり」や「よもぎ」などを採っては、母親がそれを料理してくれました。よもぎのおはぎは、手作りの物しか食べてなかったかもしれないです。

この話は、大人になってから話すと、若干引かれることもあったのですが、子供の頃は、家の前の公園や、近くの畑などで「イナゴ」をたくさん採って、それを母親は佃煮にしてくれました。しかも、これは私の好物で、食べ出したら止まらなくなるくらいでした。

親の教育方針により、中学受験をすることになり、小学校5年生あたりから草加駅前の塾に通い始めました。ここで、自分がかなり田舎の人だったと認識しました。草加駅付近の小学校に通っている子供と自分がなんか違うような気がしていたんですよね。

駅の周りはたくさんお店があるけれど、自宅付近には、畑とか田んぼしかなかったし、マックで食事をするのが日常って感覚も自分にはないものでした。

そんな草加の中でも田舎にいる自分が、草加のエリートみたいな人たちと一緒に塾に通うっていうのが、なんかチグハグな感じがしていたんですよね。みんなと住む世界が違う人って感じがしていました。

当時、地元の小学校の同じ学年で、私立中学に行ったのは私一人か、もう一人くらいだったと記憶しています。学校では決して目立つ存在ではなかったのですが、そんなところで目立ってしまい、ちょっと嫌な思いもしたこともありました。

いきなり、渋谷の中学校に通うことになります。

初めは本当にびっくりの連続でした。まず、学校が始まる初日、自分の出席番号の前にいた人が見たことないくらいきれいな人で驚きました。

東京ってすごいな。

って感じです。母親も、その綺麗な人のお母さんを見て「キレイな人!」とびっくりしていたし、何十年も経った今も、そのキレイなお母さんのことを覚えています。

それで、ますます自分が田舎者だなって思うようになりました。正確にいえば、貧乏人だなって思いました。なんとなく、みんな住んでいるところが、渋谷区とか港区とか、もしくは吉祥寺とか、渋谷に通いやすいところから来ている人が比較的、多かったんですよね。子供ながらに、そのへんはお金持ちで、埼玉とかは、貧乏なところって感じがしていました。

なので、草加には全く愛着はありませんでした。そもそも、小学校の同級生は、自分が塾に通い出してからほとんど遊べていなかったので、草加に友達も知り合いも、全くいませんでした。

草加の人と関わることができたのは、高校三年生あたり。草加でアルバイトを始めてからです。通っていた学校は、エスカレーター式で大学まで進学できる学校だったので、高校3年生のどこかの段階で、大学進学は決まっていました。なんとなく時間に余裕もあるからアルバイトをしようと思ったんです。当然、学校ではアルバイトを禁止していましたけど。

ま。草加ならバレないでしょ?

とはいえ、バレたら洒落にならないと思い、草加の中でも、若い人がいかなそうな渋い個人店の居酒屋に募集の張り紙があったのを見て、ここならバレようがないと思い、そこで働くことにしました。

今、思えばそれがほぼ最初の「働く」という体験だったのですが、その職場が、かなり特殊だったのかな?って思います。家族ぐるみで経営している居酒屋だったのですが、自分を家族のように扱ってくれました。そして、お客さんも同様に、家族みたいな扱いをしてくれました。

ちょっと東京ではない感覚でした。東京の人は、なんというかもっとドライな感じがしていました。

そこで、お酒も覚えることになったし、そのお店の二階にあるバーにも通いだすようになって、草加にいる「変な大人」と関わるようになっていきます。

続く


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