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0122「個サルに行ったらサッカーの指導について考えることになった」

今日はほぼ2年ぶりにフットサルをしてきた。いわゆる個サルというやつで、その日集まったほぼ初対面のメンバーでチームを組み、ひたすらミニゲームをするイベントである。個サルはその性質ゆえ、同じチームになった人のレベルやプレースタイルや利き足などなどよくわからないままゲームが始まる。そんな感じなので基本的にはしばらくふわふわした状態でゲームが進行し、ある程度メンバーの力量がみんな分かってきたところでなんとなくの役割分担がされたりされなかったりする。

そしてこれは主催者やその日集まったメンバーにも寄るが、基本的にそんなにガチではない。皆社会人で怪我もしたくない、させたくないので激しくチャージしたり力任せのシュートを狙ったり、ということは少ない。

さらに、毎回定員が定められているものの、参加人数は当日集まってみないと分からないので毎回多かったり少なかったりする。私がこれまでに経験したパターンでは、参加者が多い場合フットサルだが1チーム6人で組んだり、少ない場合はコートを狭めてチームの人数を4人や3人とし、GK(ゴレイロ)も付けないでその代わりルールとしてプレーに制限を加える、というものがあった。

今日は人数が少なく、コートを狭めての3vs3のミニゲームから始まった。シュートはダイレクトのみ、というルールだった。前述の通り遠くから強いシュートを打つことはほぼないのでゴール前まで崩して最後はワンタッチで決める、というシーンを作らないといけないことになる。これがなかなか良い練習になる。そもそもコートが狭いこともありフリーでボールを受けるにはマークを外す工夫がいる。さらにゴールに背を向けてパスを受けるとシュートを打つことは非常に困難になるので受ける身体の向きや、味方が前方で受けた時のフォローなど工夫が必要になる。
このように一つのルールの追加で考えることが増えたり、考え方が変わったりするのは非常に面白い。

このように、プレーに制限を加えた上での練習は小さいときにもよくやったものだ。しかしそのときは「制限されている」ということが思考のメインで、つまらない練習だと思っていた。その練習に対して「プレーが制限されたストレスのかかる状態で練習することで実際の試合ではのびのびできる」くらいの意味しか見出していなかった。もったいない。
そして今思えばそれをやらせていたコーチもそれくらいの理解でそのメニューを選んでいたかもしれない。なぜならその練習の目的や、どのようなスキルを身につける意図があるのか明確に説明を受けた記憶がないからだ。単純に私が説明を聞いていなかっただけかもしれないが。どちらにせよもったいないことをした。

まぁ基本的にないことだが、もし私がサッカーの指導をするならまず始めに、サッカーのプレーを通じてどのようなシーンを作り出したいのかというイメージを徹底的に共有する。幸い現代は映像もそれを再生する環境も容易に手に入れることができる。選手たちにその練習を通じてどのようなシーンを作りたいのか映像を使ってイメージ可能な状態とし、そしてそのためにどのようなスキルやプレー選択の考え方を身につけるべきなのかを理由とともに説明するだろう。

ここまでして初めて練習においてプレーを制限することの意味が明確になる。もちろん自分で考えてそこに行き着く選手もいるだろうが、そんな選手ばかりならば指導者は練習のメニューだけ作っておけばよいだろう。私はそんな賢い子どもではなかったのでかなりの時間を無駄にした。なにせその練習はつまらなかったのだから。

つまらないことは大変な問題だ。肉体的、あるいは精神的に多少きつくても、楽しいことや意義を理解できていることであれば人は熱中できる。勉強や何かの練習の類は、それを通して自分がどうなるか明確にならなければ決して熱中できないし、熱中できないと効率も低い。

サッカーの練習に当てはめれば「楽しいこと」は良いプレーができた快感や自分が上手くなっていることの実感や練習中のチームの雰囲気が該当するし、「意義を理解できていること」は練習の先に得られるスキルや達成できる目標が明確であることだ。だからこそ当時のコーチにはボールを蹴る時間が短くなってでもそこをもっと重視して欲しかった。

なんか個サルのことを書いていたらいつのまにか昔のコーチ批判になってしまった。別に当時のコーチのことを嫌いでもなんでもなくて、ただ当時の自分が何も考えていなくて残念なやつだったのをコーチのせいにしているだけなのでなんともイタい感じになった。脱線してしまったが書いてみて自分はサッカーの指導に関して他にもいくつか書きたいことがありそうなのでまたの機会に書いてみることにする。

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