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答え甲斐がない何か 古井由吉『辻』

 今年の二月に古井由吉が亡くなった。好きな作家がリアルタイムで亡くなるのははじめてのことで、もうこれ以上彼の著作が増えないことは(私にとっても文化全体にとっても)大きな損失だった。と同時に、彼の死に不思議と違和感が少ないことに驚いた。それはおそらく、古井由吉の小説がすでに存在しないものへのまなざしに満ちているからだろう。彼の書くものは生の境を跨ぎ、言語によって表現しうるぎりぎりのところまで到達している。私は彼の残した作品群がひとりの人間によって書かれたものだとはどうしてもおもえず、死を包摂した大きな意味での”生”そのものが、古井由吉というおそろしいほど巨大な器を介して文字になったものではないかという錯覚すら覚えていた。


 夢の中に辻の見えることがあった。辻だけが見えて、何かが起こったようなのに、人の姿はない。あるいはこれから起こるのだろうか、と切通しの間から窺う自分も、影が薄れていく。(古井由吉『辻』新潮文庫p30)


 古井由吉『辻』。名前のとおり、辻にまつわる12の連作短編。巻末には大江健三郎との対談も収録されている。

 古井由吉は生前、「小説の面白さとは、破綻の面白さではないか」と語っていた。その言葉の通り、古井由吉の作品(特に「槿」以降)は、物語性が瓦解する。それは言葉が否応なく内包している時間性への抵抗であり、言語芸術である小説の枠組みを疑う試みである。
 彼の作品では、語るもの/語られるものの区別があいまいになる。語り手の認識の不完全さを前提として、見落としたもののすきまが大きくなる。不在が膨らみ、存在していたものが朧になる。時間と空間は互いに干渉しあうものだが、時間が空間を、あるいは空間が時間を侵食し、読み手のなかのイメージが目まぐるしく綻び、生成される。

 表題作の「辻」の冒頭はこう始まる。

 何処に住んでいるのか。誰と暮らしているのか。そして生まれ育ちは——
構えて尋ねられたくはないことだ。答え甲斐がないようにも思われる。(同書p11)

 古井由吉の小説のなかでは、空間や時間を固定するような問いはそれこそ「答え甲斐がない」。いまここにいることへの徹底した疑いの目がむけられている。

 寝床から耳を遣っていると、風につれてあたりが昔の土地へ還っていく。畑がひろがり、藪も林も風に走り、平たく均された土地がゆるやかな起伏を取り戻す。荒涼感が極まって、長いこと避けて来たが落ち着くべきところに落ち着いたような安堵が、ないでもない。しかしかりに土地が昔へ還ったとするなら、たかだか何十年来の新参者は落ち着くどころか、ここにいないことになる。居を求める若い夫婦はまだここを尋ねてもいない。この土地のことも知らずにいた。あるいはまだ互いに出会ってもいない。(同書p12)

 いなくなったものたちの気配がうごめき、ここにいるものとほんのわずか触れあう。それらがすべてあらわれる前に、次のイメージが立ち上がり、生と死が入り混じる。
 「辻」は朝原という男について語られる。朝原の父親がある日を境に女を憎みだし、朝原に恋人ができたとわかると、憎悪のまなざしを向ける。叔父の話では、死ぬ際になると先祖代々女を憎むようになる家系らしい。狂っていく父親の憎しみを朝原は受け続けるが、あるとき父親が意外なことをいう。

 お母さんも、お前のことを気味悪がっているぞ、そばに寄られるとぞっとすると泣いていた、と言った。(同書p23)

 死者たちの憎悪が父親に乗り移り、女を憎む。それを受ける朝原も将来同じようになるかもしれないという危機が言外に仄めかされているのか。父親を死と狂いが覆っていき、存在の確かさが綻ぶにつれて、知らない女の肌のにおいが濃く立つ。小説の終わりに辻を踏み越える朝原の心理は語られず、ただ「恍惚感」を感じていることだけが書かれる。

 辻を越していよいよ親の家に近づく自分は、すでに為した事から遠ざかる、背中になった。(同書p31)

 辻という場所をめぐって、死者と生者が行きかい、「為した事」と「為された事」が往還する。それらの断片から浮かび上がるのは、言語化できない「何か」である。

 古井由吉の作品は、言葉の孕む可能性と危うさを教えてくれる。人間のもつ認識の遥か遠くまで小説は書きうる(あるいは書こうとしうる)し、その底のない深みにはとても汲みつくせないほどの豊穣な世界がある。『辻』を読んだときに感じるおそろしさは、しかしこの豊かさの一端にわずか触れたに過ぎないのだろう。決して触れ得ない何かを、言語を用いて創造する古井由吉は、化け物のような小説を書く、まぎれもない巨人であった。

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