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ポスト・スポーツカー時代における非合理性を考える

現在は雑誌『GQ』の編集長を務めておられる鈴木正文さんは、以前、スポーツカーに乗っていると、「どんなスポーツカーに乗ってるんですか?」と聞かれることがあり、それが会話の糸口になるのだと言われていたことがある(注)。

鈴木さんが上記のように書かれたのは1997年のことだが、見知らぬ人との間でも会話を成立させるこのスポーツカーの効用は、おそらく誰もが憧れていながらも、非合理的で一般人には手を出しずらいというところから来ていたのだろう。

しかし、90年代をピークにスポーツカーへの世の中の関心や憧れは減少し、SUVやハイブリッドカーなど便利で効率的なクルマが席巻するようになった。さらには「別に車を所有しなくてもいいよね」ということで、シェアリングカーが大きく伸ばしつつある現代である。自家用車という概念すら揺らぎつつある中、もはやスポーツカーは憧れの王座から陥落したように見える。それでは、1980-1990年代のスポーツカーが体現していたものは何だろうか?そして、現代においてそれに代わるものはあるのだろうか?

スポーツカーが体現していたものとは

スポーツカーが体現していたものは、第一に、多くの人にとって共通の憧れの存在であったということだろう。特に若いうちに一度はスポーツカーに憧れ、あるいは購入したことがあった人もいるかもしれない。各メーカーからはトヨタのレビン/トレノ、日産のシルビア、マツダのRX-7など、一世を風靡したモデルを提供していた。そして、スポーツカーのヒエラルキーの頂点にはポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニといったブランドが聳え立ち、憧れの階段は確固たる安定感をもって若者の前に鎮座していた。

その一方、就職し、結婚して家庭を持つようになると、こうしたスポーツカーに乗り続けることは難しくなる。大人2人しか乗れず、乗り心地は悪い、維持費もかかるとなれば、良識あるパパが買う車ではない。家族会議の末にワンボックスや、スポーツセダンくらいに落ち着いたところも多いのではないだろうか。実用的ではない、使いにくいというのが、スポーツカーの第二の要素である。

良い大人がスポーツカーを買うという行為は、そこまで実用性がないにも関わらず買ってしまうという非合理性を象徴しているとも言える。運転が好き、車が好きということが、実用性の無さや、維持費の高さなどを超えてしまうのである。もちろん、経済的負担が全く苦にならない富裕層や、子育てを終えた世代が買う場合には非合理性は低くなるが、趣味以外にあまり役に立たないという点では、程度こそ違うが似たようなものである。

21世紀においてスポーツカーに代わるものはあるか

スポーツカーが憧れの対象の王座から退いてしばらく経つが、その後同じような立場になったものはあるだろうか。

例えばスポーツ自転車(ロードバイク等)は何度目かのブームを迎えている。自転車によっては100万円を超えるものもあり、クルマにおけるスーパーカーの地位に相当するものもある。しかし、いかんせんその魅力は「わかる人にはわかる」というものであって、ここの曲線が…とか、このパーツで10グラム軽量化できて…とか言っても、フェラーリの圧倒的な官能美やポルシェの機能美と比較すると、必ずしも一般の人に訴えるわけではない。

別荘というのも、憧れの対象としてはあるかもしれない。コロナによって東京にいなくても良い人も増えたため、できれば欲しいと思っている人もいるのではないだろうか。一方で、実際には行ける日は限られており、維持費やメンテナンスが大変だという声も聞く。しかし頻繁に買い替えるものではない。スポーツカーのように「今どんな別荘に住んでますか?」という会話が成立するのはよほどの富裕層だけだろう。

キャンプやアウトドアにハマる人もいる。どこどこのテントや焚き火台がいい、ランタンはこのヴィンテージ物がすごい、チェアはどこで…などなど、これも趣味の広がる世界だ。ただ、これも同じ趣味を持っている人にしか通じづらく、また災害時にも利用できるなど、かなり実用的でもある。スポーツカーと比較すると、非実用的という点では物足りない面もある。

人間が人間たるゆえんとしての非合理性

このように考えていくと、これまでスポーツカーが体現していたようなものを見つけるのは容易ではない。その最大の要因は、人の興味関心が多様化していき、誰もが共通的に関心を持っているものが成立しにくいため、「共通の憧れ」という条件を満たすのが難しくなっているということが挙げられるだろう。今や万国共通の関心がある商品といえばマスクくらいのものだ。「私が今日付けているマスクは〇〇製の高機能で…」といった会話が成立する可能性はあるが、憧れの対象となるかどうかというと怪しい。

但し、限られた範囲のコミュニティでは、確実に共通の関心や憧れの対象は存在するものである。コロナもあって急速に増えているYouTuberは、様々な細分化された興味・関心の中でオピニオンリーダーの座を争っている。そこでは、関心のない人から見ればさして興味を惹かないことでも、自らの趣味嗜好を追求して発信することが、他人の役に立つのだという姿が示されている。

ビジネスや技術が成熟していく中で、何事も合理的、効率的に処理される世の中である。AIは人間に先回りして、合理的で最適な行動を選択し、我々に提示してくるだろう。そうした時代に、人間がその存在価値を発揮するのはポジティブな興味と情熱に基づく、非合理的ともいえる行動かもしれない。また、細分化されたコミュニティにおいてリーダーシップを取れるほど突き抜けた関心を持つことも、情報ツールが格段に充実した現代において意味のある能力ではないだろうか。

自動運転車の開発が急ピッチで進む傍らで、国内メーカーからいくつかのスポーツカーが復活したり、新規投入されているのは、こうした非合理性への希求を反映しているのかもしれない。また、最近往年のスポーツカーを復活させるために、部品供給を再開する動きも見られる。

スポーツカーは再び憧れの対象として復権するだろうか。以前のように、見知らぬ人から話しかけられはしないかもしれないが、遠く離れた異国の地で、画面越しに話を聞きたい人はたくさんいるはずだ。


(注)鈴木正文著『走れ!ヨコグルマ』小学館文庫


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