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自分/組織の源探しに、3日間森で過ごす『森のリトリート』に参加した

ヒトのルーツは700万年前のサバンナから始まった。多くの人が都市部に出てきた現代人には、森の暮らしのDNAが濃く残っているのではないか。そんな問いを内側に握りながら、先週は「株式会社 森へ」が開く「森へリトリート」というプログラムに参加してきた。

森のリトリートは、自分・組織の原点を見つめ直す趣旨のもと、山中湖にある森の中で3日間、大半を一人で過ごし(森/自分との対話)、プログラムの参加者と焚き火を囲み体験をシェアする(仲間との対話)の時間で構成されている。

近くの森(イメージ)。プログラム参加中はスマホは利用できなかった。

森での生活に慣れ始める1日目。森の入り口でガイドから普段の呼吸のペースを落とす呼吸法について、また自分の本来の視野を再確認させてくれるワイドアングルビューという手法について学ぶ。

人間の周辺視野は200度あるが、普段使っている範囲はそのうち広くても20度。意識的にこの範囲を広げて森の全体感を捉えると、そこには森という全体的なまとまり=ゲシュタルトがたち現れた。

入り口から体感時間15分前後森の中に入っていくと、森にお邪魔させていただいてる、なんだか申し訳ない感じが芽生えてくる(これは日本人固有のものだろうか)。ずかずかとふかふかの土を踏みしめて固めていく行為が、自然を歪めていく、だから1歩1歩に意味が伴っていく感覚。

そうして森の中心付近に近づいて、みんなが集まれるサイトを起き、ホイッスルとネームプレートを首掛け、3日間一人で滞在する自分の場所を探しに、深森へと向かっていく。自分の場所とは、旗が立ってることもなく、ここと人の案内があるわけでもなく、例えば突然木の葉が揺れた、鳥のさえずりに導かれた、ヘンゼルが落としたパンのような小石のつながりをつたった、そういったサインを頼りに、自分の内側で直感的な何かを感じる場所である。

自分は、最近のコーチングセッションで「つなぐ」意味・使命について扱ったことが残っていたからか、少し山頂にあがり、谷の上に架け渡された、山と山をつなぐ倒木の付近に自分の場所が現れた。

そこに手持ちのレジャーシートを引き、寝転がってぼーっと空を見上げたり(ときにはそのまま夢に落ちて)、座禅を組んだり、歩き回ったり、虫と格闘したり、舞い降りた・与えられた問いについて考えてみたり、そんなこんなで3日間を過ごす。

「株式会社 森へ」代表の山田博さんの著「森のような経営」に森の深い安心感について書かれていたが、自分の場所が自分の場所になり"きる"まで、安心感とは真逆の不快感、それは森の中で用を足したり、アブや大きなハチが飛び回ったり、でこぼこした斜面に寝転がる瞬間に吐露する(うわぁ・・)という声そのものが表していた。

毎晩の夜には、拠点となっていたロッジの庭でキャンプファイヤーを囲み、ともに森で過ごした者同士で語らう時間が訪れた。静寂の中、水蒸気が破裂するパチパチ音と人間の声だけが聞こえる様は、時間を忘れ、深い対話の世界に引き込んでいく。

繰り返し森の中に身をおくと、初日からの不快感は徐々に薄れ(それはどうでも良くなる感覚に親しい)、「自分の場所が、自分の場所であってほしい」という欲は手離れ、そこにただ、自分が、自分の場所が、木が、森が"ただある"というニュアンスに近づいていった。

ここからは、自身が3日間で森から聞こえてきた声・感じたことを備忘録がてらまとめてみようと思う。


木はみんな違う、それでいい

至るところに木がある。それぞれ背丈も、格好も、藻の生え方も、根の数も、葉の広さも違う。それぞれがそれぞれなりであるから、森になる。そこにこうなきゃいけないなんて答えはない。

視野を広げると、全体性が現れる

森のきのこ、ウツボカズラのような草、倒木、リス、足が異常に長い蜘蛛、特徴があるものが目立つ。視野を広げると、突然目の前に森が現れる。そこにただあるものが出現する。ハッとさせられる。次第に自分もそれの一部なんだと気付かされる。部分の集合としての全体ではない、一体の感覚。森のディテールではなく全体を見る大切さ。

サインを受け取る

荒井由実の「やさしさに包まれたなら」の歌詞が心の中で木霊する。

静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは
メッセージ
やさしさに包まれたなら

自然は常にいろんな事柄や現象を通してメッセージを送っている。無邪気にでもいい、それらに意味があると思ってみる。そうすると、受け取れるものが突然振ってくる感覚になる。一見意味がないものに好奇心を向けてみる感性は、気づかなかったことに気づき、自身の本来性を取り戻すヒントになる。

精一杯、いきる

人間以外の生き物は「今この瞬間にできる最善のこと」だけをする。木は、雨が降ったら喜び、太陽が出たら光合成をする。春夏秋冬を感じ、それらに合わせて形を変える。死んだら死んだ、それだけ。それでいいという安心感。良いも悪いも、意味があるもないもなく、それは全て喜びになる。

命の循環

森にはたくさんの生と死がある。倒れた木は土に還り、そこから新しい命が生まれる。閉じた世界、見えない世界で生態が育まれている。全ての現象に意味がある。それはゆっくり、静かに、起こっている。

自我と自己

ユングの心の構造は意識と無意識にわかれる。普段、コーチとしての職業上(?)、どうしても無意識にある自己=セルフについて謳うことが多いわけだが、森に入ってみると、自我=セルフについて向き合うことが突然に増えた。

自我だけでも自己だけでもなく、心全体の円=全体円の中心に「本当の中心」を置こうとする、本来の自分に揺り戻されていくプロセスが始まったのかもしれない。


しずかな森は、雄弁に多くを語ってくれた。自然(Nature)が壊れ、多くが断絶された今、ゆっくりと感じるがまま、精一杯生きることを通して、心に森を宿し、本来のわたしらしさ・わたしたちらしさの感覚を取り戻すことが、明日をつくるのかもしれない。

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