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フードロス問題から新しい食照準を考える

フードロス問題との向き合い方

フードロス(食品ロス)については年々問題視がされてきています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/食品ロス
(Wikipedia)


食品を買う際に、何気なく賞味期限の長い品を探して陳列棚の奥のものから手に取ることが、賞味期限前であっても問題が起きる前に食品を捨てざるを得ない店側の葛藤を生み、結果的に食品ロスを作り出してしまうという。

生きている限り食料廃棄の存在は否めないのかもしれないが、社会の仕組みや現状を知り、常に生命に向き合い尊重しながら自分も自然の一部である事を認識しておくことは、悪いことでは無いと思いたい。


食べる楽しさの意味を損なうほどに“必ず一物全体を食す”ことを重視しすぎることは無いが、

食事は素材(命)と向き合う時間

という前提であることは次世代に伝えたい要素です。


そのことが結果的に、自分の舌の感覚を大切にすることになり、食品や食事の機会の在り方を自分で判断し、食物に対する責任感を養うことになる気がします。
(堅苦しいですが)


プラントベースドフード

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食や栄養を探求してると公衆衛生や環境問題に辿りついたことがあり、私は過去に菜食生活をしてみた時期がありました。

ベジタリアンという言葉やロハスという生活スタイルが流行りましたが、それに乗っかった形でした。


最近また、世には巡り巡って改めてプラントベースド(植物由来)の素材が出てきている印象です。

食品業界キャリアから発信されている方のnoteが解りやすかったです↓


自然界の一部として「管理しない」ことも必要

人間も自然界の一部という普遍的な事実があるはずなのに、ヒトはどこかで「自分の思い通りになる」と誤認してしまい、他者が思い通りに動いてくれなかった時や、天候でさえ予想外な状況になると無条件にストレスを溜めてしまっている。

世界は予期せぬ現象が起こるモノだということを忘れてしまった原因が、テクノロジーの進化や便利さを追求したことによるものだとすれば、

一度リセットして生命や社会の概念から作り直す必要があるかもしれませんね。全部を管理しようとしちゃいけない。管理できないから。


Webやソーシャルネットで我を乱され生活を支配されることの多い昨今に、ふと緑(木々)をみると落ち着いたり、日本古来の建築物をみると独特な落ち着き感がよぎるのは、人間が自然現象の揺らぎの中に在るものという証です。

食や栄養に関しても、必死に栄養を取り込む効率性を優先するがあまりに利益重視の闘争を起こしてしまうのは本末転倒で、「まぁ最後は何とかなる」と力を抜いて自然界に身を任せることができたら、

本当に必要な栄養分
本当に必要な感覚情報

が個々人で洗練されるかもしれません。そのときに初めて、結果的に「食糧危機」という問題を根底から解決する準備が整うような気がします。


生活や身体や人生を自然現象にお任せする「適度に管理しない管理力」が、求められるかも。


Masafumi


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