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学びを無視した、なんちゃって多様性

前回からの続きは次回で書かせていただくとして、今回は【集団行動・生活】について。
※長文です。

多様性が謳われるようになった昨今、なぜか自閉界隈で、多様性とは全く関係のない集団について疑問をもつ声が多数出るようになってきた。
多様性と、集団行動・生活をしないは次元の違う話なのですが・・・。

興味本位で色々読んでみると、“集団が苦手、適応できなかった結果後”のネガティヴ精神脱却の話ばかり。

その上、「集団ではなく個人にスポットライトをあてて〜」やら、「海外で発達障害が少ないのは自由だから〜」やら、「日本は集団に厳しいから〜」とか言っちゃう視野の極狭い発言なんかも出てくる始末。
集団って、世界共通の潜在的行動なのですが・・・。

集団行動・生活ができない特性的な原因と対処法に全くスポットライトが当たっていない。
発達障害児だからできないと決めつけた諦めなのか、はたまた面倒だから「集団なんて〜」と言って逃げてるのか全然分かりませんし、無知を露見してるだけの発言に怒りすら沸きますが、まぁとりあえず落ち着いて・・・。

今回は、なぜ発達障害児は集団を苦手とするのか。
そもそも集団行動・生活の必要性とは一体何かについて書かせていただきたいと思う。


集合行動・生活というのは、多数のスキルを集合させて発揮するフルスペック行動なのである。

だから、「集団が無理、できない」というのは大枠の話で、これを事実として保護者や支援者が話すのはかなり強引すぎる。
集団に適応する上で、何のスキルが欠如しているのか、何を苦手をしてるいるのかの原因を探り“明確に”しなくてはいけないのだ。

まず、集団行動・生活に欠かせないスキルの一つとして【状況の理解】がある。
周りが今何をしているのか、ここがどういう場所なのか、現在の自分の立場等を理解する能力である。
このスキルが欠如する原因は、過集中、注意欠陥、未経験等。

次に【指示の理解】がある。
これはそのまま、指示を理解する能力である。
ルールの理解も指示の理解に繋がる。
このスキルが欠如する原因は、視覚優位、ワーキングメモリの弱さ等。

そして、【コミュニケーション能力】も必要とされる。
このスキルが欠如する原因は、言語能力・非言語能力等。

これだけ簡単に説明しても、集団行動・生活ができない原因として7つも出てくるのだ。

何度もいうが、これだけの原因があるのに、一括りに“集団行動・生活ができない”と言い切り、諦めるのはおかしいのだ。

そして、この原因は、併用していたり、凸凹だったり、知的レベルによって難易度は変わってはくるが、獲得するための道順をしっかり辿れば獲得できるものなのだ。

私の施設に通所する児童の中には、支援学校に通う重度の自閉症児や知的にかなり遅れのあるAの子達もいるが、みんな集団行動・生活ができる。

訓練と言われるような厳しい対応なんてしていない。
その子の能力学習ペースに合わせてアプローチを続け、自然と身につけたのだ。

この、能力と学習ペースというのは、【癇癪を望んでいる食卓】でも触れたが、本人の能力の見誤りがあると大失敗するのだが、正しく原因を探り、原因を正確に見極めてアプローチすれば、着実に能力をあげる事ができる。

この“能力と学習ペース”について、奥田健次先生の著書【世界に1つだけの子育ての教科書】にかなり詳しく書かれているので、一部を抜粋して説明させていただく。

定型や自閉関係なく、人間には学習を促進する3つの原則がある。

1、個人能力の原理
能力は個人によって違います。その個人の能力に合わせた課題設定をすること。

2、個人ペースの原理
学習の達成速度は個人によって違います。その個人の学習ペースに合わせること。

3、個別から集団への原理
まず、1対1の関係を築き、小集団から少しずつ大きな集団の中で学習できるようにすること。

本当に素晴らしい原則です。
この原則を応用し、集団行動・生活ができない原因に対し、正しくアプローチする。

正しくアプローチというのは、【ただの綺麗事。ふざけんな】でも書かせていただいたが、ストレスは感じるが達成できる目標を立てるということ。
(スモールステップ)

どういう事かというと、【味覚過敏障害児だった食いしん坊】に出てきた超偏食のAさんに、いきなり酢豚をお皿いっぱい完食しろと言っても100%無理だ。
1と2の原則をフル無視している。

だが、酢豚のソースを爪楊枝の先にチョンとつけたものを舐めるだけなら確実に達成できるはずだ。
(記事にも書いてあるが、Aさんは実際には味覚過敏ではなく、経験不足からくる食わず嫌いだという事実がある)

集団においても同じである。

原因を見極め、学習の原則に従ってアプローチをしていけば、必ずその子は集団に適応できるようになる。

そして、集団の中で未知の心の学びを得る事ができる。

ここで、集団行動・生活の必要性とはなんなのかの話になるのだが、私が考える集団の必要性というのは、別に「皆んな一緒に何かができるように〜」とか、「1人だけ輪に入ってない状況をつくらないように〜」なんて理由ではない。

そんな行動規制するための理由ではなく、集団(小集団でもいいが)では、人との関わりの中で、自分のやった行動による結果を、自分自身で体験できる絶好の場所だからこそ必要だと考えている。

例えば、自分の話ばかりする子いたとしよう。
その子は、周りからどういう扱いをされるだろうか。
まぁ、大体は知らないうちにみんな離れていくだろう。
離れていった結果、楽しくない毎日になり、この子は自分の行動の結果を体験する事ができる。

集団の中では、このように自分の行動により“後悔したり、嫌われたり、損をする”といったマイナスな結果を体験する事ができるのだ。

「嫌われたら可哀想」なんて声が聞こえてきそうだが、この体験をする前に、親や支援者がどれだけ「そんな事してたら友達いなくなるよ」と言い続けても絶対変わらないだろう。
言うだけ無駄で骨折り損なのだ。

自身の行いによるマイナスな体験をしてこそ、学ぶ事はとても多い。
体験をしたからこそ、大人のアドバイスに耳を傾ける子もほとんどだ。
誰しも一度は経験する苦い経験や、思い出すだけで恥ずかしくなる出来事や、あの時こうしていればといった後悔はあるだろう。
その経験は、自分を顧みる時間を作ったり、相手を思いやる気持ちに繋がったりする。
(もちろん、本人や保護者から希望があった場合は、私もこの経験を学びに変える手助けはするが、大体は、行動→結果として経験できた事は、簡単な声かけ一つで本人の力で行動修正している)

こういった学びは、発達障害の特性をもった子ども達においては、1対1の個別の世界や、無条件に愛してくれる保護者との生活だけでは得る事のできない、未知の心の学びである。

この心の学びは、これから先、楽しい事ばかりではない人生を生きていく上で、とても貴重なものだという事は、様々な人生経験を経た大人ならばご理解いただけるだろう。

だからこそ、私は集団行動・生活ができる能力を身につけさせてあげたいと思うし、集団に適応する能力は確実に必要だと考えるのだ。

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