千日「かいほう」行 84日目

父が亡くなって間もなく半年です。一通り遺品整理が終わりました。その中で発見することも多々ありました。父の社会生活の原点になった名古屋のゆかり地を「回峰」しました。

義兄の紹介で仕事場になったのが「ノリタケ」でした。現在、名古屋駅から名駅通りを北へ徒歩約10分のところに「ノリタケの森」があります。緑あふれる中にせせらぎが流れ、明治時代の陶磁器の工場の赤レンガ造りの建物が並んでいます。

名古屋4

ウエルカムセンターではノリタケの歴史や今日の事業などがパネルや映像などで展示・紹介されています。ミュージアムには戦前の「オールドノリタケ」の作品や戦後の食器などの展示されています。ボーンチャイナの製造工場のクラフトセンターでは生地の製造から絵付けまで、ノリタケの技を伝統が展示されています。その見学をしながら戦後から10年ほどの父の仕事の一端が「解法」されてきました。

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ノリタケの森
https://www.noritake.co.jp/mori/

その頃に住んでいたのが「名古屋市西区早苗町」でした。現在は西区名駅二丁目の一部になっています。「ノリタケの森」の南東方へ徒歩10分です。名古屋駅へ至る名駅通り沿いにはホテルなどのビルが並んでいます。

名古屋1

その裏手に「早苗公園」があり、唯一旧早苗町の名残で、1978(昭和53)年に西区名駅二丁目に全域が編入され消滅したことを記す碑があります。

名古屋2

円頓寺商店街へ至る道沿いには古民家が点在しています。父が住んでいた昭和20年代頃を「解法」される面影がありました。

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父はここを原点に、昭和30年にブラジルに渡航して同じ仕事をしました。その契約書や渡航費などを借りた借用書がありました。ブラジルでの写真が多くありました。

ブラジル

帰国後は「平野郷」にあった自宅(生家)を仕事場にしました。その名刺には「東住吉区平野住吉町」「不二陶苑」と記されていました。母との結婚前後は銭湯に張り付けるタイルや陶磁器の絵付をしていました。しかし二人目の私が生まれて生活が苦しくなったためか、タイルの販売会社に勤めました。それから退職するまで自宅で主に植物の細密画を描き、数年ごとに個展を開催しました。

ヤマザキマザック美術館で特別展「名古屋城からはじまる植物物語」に行きました。尾張徳川家の居城・名古屋城には、狩野派の絵師たちによって施された美しい障壁画が残っています。また19世紀に入って発展した本草学で、本草学者たちはヨーロッパから入ってきた植物解剖学を学び、狩野派の粉本などで学んだ描き方と、顕微鏡などを用いて観察する方法と融合させて、美しい植物画を描くようになりました。江戸時代に狩野派に代表される尾張の絵師たちが引き継いできた花鳥画をルーツとして、その伝統が西洋植物画と融合して、ボタニカルアート、ジャポニスム、アール・ヌーヴォーへとつながり、シーボルトや尾張の本草学者・伊藤圭介の紹介されています。その作品が見ていると父の絵を見ているようで、父の絵の原点が「解法」されてきました。

ヤマザキマザック美術館「名古屋城からはじまる植物物語」
http://www.mazak-art.com/

仏間のミニチュアの浄土庭園に花の絵付されたミニチュアの壺が並んでいます。それが父の原点を最も顕現されていることが「解法」されました。

名古屋6

名古屋の名産・きしめんを父の墓前に供えました。きしめんは青春18きっぷで東海道本線に乗ると、名古屋駅で途中下車してホームの立ち食い店で食べたことを思い出します。「名古屋」は母方の祖父母が「愛知県知多郡」にゆかりがあって、母も法要などで名古屋に行ったときは、父とともに家で留守番しました。それもあって約30数年前の大学での初めての夏休みに、とりわけ目的もなく「名古屋城」などを訪れました。「名古屋」は私にも回想することも多く、「かいほう」することになりました。

ブログ版『大和川水紀行』<「名古屋城」下へゆく>
https://ameblo.jp/sohofujiu212/entry-12687388129.html

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