【随筆】敷衍

下書きに保存されていた。タイトルだけのこの記事を何を書こうと思って書いたのかも覚えていなけれども、「敷衍」という言葉を頼りになにかを書こうと思う。

敷衍というのは、詳しく説明することであるが、それは理解の上で成り立つというものだ。

僕には叔父がいる。叔父は企業に所属したことが全くない訳ではないらしいが、どうも組織で働くというのに慣れずにその時代では珍しく自営業で飯を食べていた。そんな叔父に対して僕の両親は少し下に見るような、いつまでも定職に着かずフラフラしていることを心配しながらも少し蔑んでるようだった。

そんな叔父はかなり賢い。映像制作のフリーランスとして活動している叔父は常日頃、カメラを複数台持ち歩いていた。そんな叔父にカメラの仕組みについて聞いたことがある。写真の撮り方や映像の撮り方ではなく、カメラの仕組みについて聞いて見たのは、単純に知りたいという気持ちからだった。叔父はその時、正直によく知らないと言っていた。けれども、映像制作をする上でディスプレイの仕組みは知っている叔父はディスプレイの出力に応じたRGBの値をセンサーで受け取っているんだと思うと言っていた。その予想は正にその通りで、叔父の言っていることは正しかった。

僕はこの発言にかなり感動した。というのも、自分は人の視覚のメカニズムを簡単に学んでいたので、なんとなくカメラもそれを人工的に再現するものだろうと思っていた。この予想も正しいには正しいのだが、より具体的な内容を予想することは難しい。けれども、叔父は単純に既存のシステムが合理的な設計になっているという前提で、出力の逆を入力で行っているというシンプルな考えから予測していた。

つまり、発明された技術を学ぶ上で、発明家になる必要はないのだ。

僕はわざわざ同じ道を通って、いや、同じ道を通ることが理解することだ考えていた。発明家になる必要があるのだと思っていた。

けれどもそんな必要は全く無いのだ。人の作ったものと言うのは驚くほど合理的な設計になっている。その合理性を信じて理解しようとすればいいだけなのかもしれない。

詳しく知ることは理解することである。しかし、理解しているという状態は、詳しく知るべき範囲を知っていることなのかもしれない。

色々な物事が関連している世の中であるが、言葉や単語による意味の分割を適切に理解する必要があるのだと思う。僕の父親は、所謂学歴厨で留学までしているような人であるが、ものを説明するのが本当に下手だ。知識は膨大にあるのだが、知識を提供する上で切り離すことが出来ていないのだ。

敷衍する行為は非常に知的で難しい行為だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?