各種教育理論要点


モンテッソーリ教育学

子どもは適切な環境と雰囲気が整えば一つの作業に集中的に取り組む

集中が妨げられず作業が完遂できると、深い満足感が得られ、態度が劇的に変化する

態度が変化すると先生は不要で、集団としての秩序が保たれ、他の子どもを邪魔することなく、深い共感、愛情、好意を保って相互援助に満たされた連帯意識による社会が自然発生的に成立する。命令指示によりこの状態を作ることは不可能。

集中が起こるには、子どもたちに一切の自由を与えなければならない。いつどこで何をするかの一切を子どもの自主選択にゆだねなければならない。

子どもに指示命令するだけでなく、間違いの訂正や褒めることも集中を阻害することになる。

子どもは集中に達すると、内的動機が満足するまで何度でも同じことを繰り返す。その途中で妨害が入ると子供は意識的に悪いことをして鬱憤を晴らす。それがたびたび起こると、不機嫌な子供が育ち、それに対して罰則を与えると非行少年、少女が生まれる。

大人であっても、決断力/忍耐力の欠如、怠惰、優柔不断、不安や恐怖を抱えている人は、子どものころに頻繁に集中の妨害を受けた可能性が高い。

子どもは自らの内側に自らを成長、発達させ、自己形成を遂げようとする強靭な力と衝動を秘めており、その成長のエネルギーは特定の領域ごとに特定の期間だけ強くなる。(敏感期)

敏感期にその領域に取り組むことにより子どもは容易に集中に入り、極めて容易に学習する。

教育とは教える事ではなく、子供たちの内側に既に存在する成長計画を注意深く観察し、愛し、それに仕える事だ。

現在の学校教育は大人の尺度に従って子どもを当てはめ、命令指示がベースとなり、恐怖心を養い、知性を抑制しており、全くのナンセンスであり、社会の喫緊の課題である。

敏感期は以下のリンクの通り。

シュタイナー教育学

教育の目的は子どもたちが自由を獲得すること。自由とは、「自分で自分をしっかり捉え、自分の内部の一番深いところから発する欲求を明確に認識し、それに基づいて行動できる」こと

教育は芸術であり、知識や技能、知能を向上させるのではなく子どものそれぞれの発育段階に応じた心の糧を与え、次の発達過程への準備を支援することだ

誕生から7歳までは模倣で学ぶ。子どもは嫉妬や高慢といった大人の内面的な精神状態まですっかり模倣する
この時期は意志が育つ。知識や論理訓練を与えすぎると、意志が発達せず、貧弱になってしまう。

14歳までは、愛する大人、尊敬する大人に従う、という形で学ぶ。教師はごく自然に権威のある存在になる必要がある。
その最終段階で、教師の短所を発見し、あら捜しをし、権威性に疑いを持ち、反抗し、乗り越える。
この時期は豊かな感情が育つ。したがってすべてを芸術のオブラートに包んで与える。

14歳以降は教師を長所も短所もある人間として客観的に見ることができ、抽象的な思考能力が育ち、知性が育つ。

教育の際、教科書、テストは一切行わない。

落ちこぼれの子には運動や食事の指導をする。

従来の教育のように、知識を一度だけ詰め込んであとは忘れないようにする、というのは間違いで、繰り返しが行われ、子どもがそれを正しいと思えた時に初めて感情や意志に働きかけられる。知識そのものに意味はなく、忘れることが大事。忘れた時に初めて深層意識に反映される。

いじめが発見されても、子どもに告げ口をさせてはいけない。物語を繰り返し語り、いじめを受けた子には慰めを、いじめをした子には恥を感じてもらうよう、共感を持って解決する。処罰は恐怖心を植え込むので厳禁。

ソラドレミの5音しかない笛や、小型のハーブ、線描、にじみ絵などの芸術的要素を、すべての教科に活かす。

デューイ教育学

子どもの主たる本能(衝動)は次の4つである。
・社会的の本能(話したい)
・探求の本能(知りたい)
・製作の本能(作りたい)
・表現の本能(表現したい)

上記の本能から出発し、日々の生活の中における行動を通じて、生きた教育をすることが肝要。

知識や教科は孤立したじょうほうであってはならず、必ず日々の生活に紐づいている必要がある。
例えば人類史の勉強は、石の矢じりを作ることにより、鉱物学の課外となり、鉄器時代の理解には粘土の溶鉱炉を作ることで、燃焼の物理学や金属学につながる。

従来の教育は孤立しているので無味乾燥で興味が湧かず、テストの落第による恐怖でドライブしており、利己主義を育て、心を歪める。
また、教科の中で知識が閉じるので、現実に役立てられない。

学校は暗記と試験による鬱屈な環境ではなく、わくわくと心を躍らせ、自発的な社会生活を営む小社会である必要がある。

学校自体も孤立してはならない。図書館、大学、家庭、大学等と融合しているべきだ。

単なる経験と、教育に有効な経験は異なるものである。
経験は連続性があるものであり、次の経験を支配する性質があるため、常に、子どもたちの好奇心を刺激し、独創性を深め、強烈な願望や目的を喚起する質の良い経験を用意し続ける必要がある。

ニイル教育学

子どもは愛され、自由であり、自分自身であることが許されるなら、誰しもが攻撃性が少なく、裏表のない、誠実さと思いやりの心にあふれた善良で平和で社会的な人間になる。

すべての子供は自分自身の内部に神をもっている。自我が満たされた子供は神を発揮する。
外部から価値観や価値基準、道徳の型にはめようと思うと、逆に罪を作り、反逆者を作り出す。

子どもの行動の背景には、子どもですら認識していない無意識的な動機が存在することを認め、接する必要がある。

説得によってなされたことは、意識的には従うかもしれないが、無意識は反抗し、より深刻な状況を生み出す。

叱責、訓戒、罰は、いかなる人のいかなる面も治めた試しがない。

悪は道徳の押し付けによって生じる。

教育に宗教を持ち込んではいけない。

自らの感情にしっかりと接地した子どもを育てる必要がある。感情が自由であれば、知性はひとりでに育つ。

想像力は無意識に属する。その発揮には自由が必要。

知識は人間の形成にとってほとんど意味をもっていない。

徹底して子どもの味方になり、支持し、援助することにより、自由に翻弄されず、わがままにもならず、自分を厳しく律することができる。

自分に対する恐れは、コンプレックスなど様々な問題を引き起こす。
教師は、不安や恐怖、罪の意識といった自己嫌悪から子供を解放しなくてはならない。

内なる自己にのみ服従させ、外部のいかなる服従も、成長にとっては呪いである。

必要なときだけ援助するという謙虚さが教師に求められる。

教えるということは芸術であり科学であり、子どもとともに生き、子どもの一人になりきる業だ。

自分を肯定し受容できない教師は、子どもを受容することも愛することもできない。
残忍は自己嫌悪の投影
であり、強制的なしつけから生じる。

最もよい教師は子どもと一緒によく笑う。最も良くない教師は子どもを笑う。

学校は子どもたちの自治により運営されるべき。

グリーンバーグ教育学

そもそも18世紀までは強制教育は存在せず、大人とともに社会活動する中で子どもは学習してきた。それから現代にいたるまで工場の機械の一部として機能する「自動人間」を育てるためゆがんだ形で全員に公教育として導入された。今の公教育は命令に従うこと以外何も教えていないに等しい。

各教科について、これは必須にすべきという推奨は大人がポジショントークするために推奨しているものであり、決して子どもが望んでいるものではない。

人はどの年齢でも、自分に意味のある体験に挑むとき、最もよく学ぶ。

子どもは本来好奇心の塊であり、様々なことに興味関心を持ち、何かに集中できる。

子どもが内なる声に耳を傾けられるようになるには、学校側は一切干渉しないこと。権力、権威、恐怖、強制、圧力、抑圧、叱責、罰はもちろんのこと、褒める事、甘言や褒美などあらゆる評価もNG。

子どもはいつどこで何をするかについて完全に自由であるべき。

完全な自由は子どもにとって最も厳しい試練となる。完全な自己責任と、相手に対する完全な責任を生む。

ゆえに学校にいる間に完全な自由を使いこなせる練習が必要。

学年別、クラス別に教室を分けることは不要。担任の教師、教科書も不要。何を教材とするかも含めて自由選択するべき。

校則や予算などは全校集会で決定する。生徒も教師も一票は同じ。

各教育学の共通項を鑑みた結論

価値観や知識の押し付けを抑止し、大人はただ生きた経験が学べる場を絶えず提供するとともに、子どもを無条件で愛してありのままを受容(例えば、叱らない、褒めない)し、その前提として自らを愛して子どもと共に生き生きと学び続ける必要がある。

その結果として子どもが内的な意志に従って集中、フロー体験を繰り返すことで、自由にかつ、自律するということを、疑いなく信じ切るということ。

出典

教育の完全自由化宣言!子供たちを救う七つの提言
天外伺朗


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