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(小説)池畔のダーザイン12

 少しだけ新鮮に見える。
 半年前まで見慣れていた入口のガラス扉に陽が当たり、表面が艶々と輝いている。そこに映る自分の姿が年齢相応なのか、自粛していた半年の間にさらに老けこんでしまったのか、自分ではわからない。わからないから易々と生きていけるとも言える。
 午前中の早い時間に到着したデマンドバスには同世代の老人が数人乗っているだけで、先に女性が二人降り、心身共に不健康そうな男性がゆっくりとした足取りでそれに続いた。入口は同じでも、予想通り女性たちはトレーニング室へ向かい、男性は奥にあるスパへ直行していった。
 家の中でも外でも、外ならスーパーやデパートやスポーツジムはもちろん、病院の待合室でさえ同世代で比較すると圧倒的に女性の方が元気だ。単におしゃべりで賑やかで煩いということではなく、生きる意欲に満ち、生気に溢れているのだ。多少の持病があろうが、夫に先立たれていようが関係ない。夫を見送った人の方がさばさばして元気がよかったりする。空元気だろうと構わない。空元気のオーラを醸し出せるうちは心配ない。
 更衣室に入った多栄子は素早く着替える。久しぶり、元気だった、という先客たちからの挨拶も適度に受け流し、ジムへ向かう。ここでの同世代の女たちとの付き合いは最小限にすると決めている。
 付き合っても時間の無駄だ、ろくなことはない。この歳になってまで、気に入らない他者(女、しかも同世代かそれ以上)に媚びへつらおうとは思わない。女友達がいいと思えたのは学生時代までだった。歳を重ねる毎に女の浅ましさや醜さを突きつけられ、女という存在をどんどん嫌いになっていった。小心で醜悪な男もいくらでもいるから、単に多栄子の周りにろくでもない女しかいなかったということなのかもしれない。
 多栄子の夫は五年前に病死した。夫に精神的に依存するタイプの貞淑な妻ではないので、多栄子は夫がいなくても生きていける。実際、夫を見送った妻の方が、妻に先立たれた夫より長生きするというデータがあるというではないか。さもありなん。
 男がいなくても生きていけるが、女と関わることなく生きていくのは難しいかもしれない。厄介なことだ。ろくでもない厄介な存在はこの世から消えてほしいと夢想することもある。けれど殺人を犯すことはできないし、女がいなくなれば子どもが生まれなくなり、人類滅亡となる。それとも近い将来、人工子宮や出産マシンの類いが開発され、人工的なパラダイスが地球上に誕生するとでもいうのだろうか? そういうパラダイスは、笑えない。楽しくもない。
 ジムの広々としたフロアには多種類のマシンが置いてあり、既に数人がトレーニングを始めていた。壁際の一番端のランニングマシンを多栄子は使う。正面のガラス張りの大きな窓からは中庭の緑が見え、気持ちがいい。
 最新のトレーニングマシンとサウナ付きの温泉があるというのがここの強みらしいが、元々多栄子には本格的なトレーニングも、ダイエットをする気もない。ただ七十を過ぎ脚の衰えを実感しているので、なんとか下半身の筋力を維持できれば、衰えなければいいのだ。それだけで今後の日常生活の質は、随分違うはずだ。
 だから多栄子はごくごく基本的なメニューを粛々とこなしていく。そんなのでよく飽きないわね、と余計な口出しをする同世代女もいる。「あなたには向上心はないの」と言っているかのような押し付けがましい陰の声が鼻につくが、文字通り余計なお世話だ。あなたのお世話はわたしには無意味だし、わたしの向上心をあなたがコントロールしていいわけがない。
 担当のトレーナーから新しいプログラムを勧められたりもするが、のらりくらりと無視しているうちに声をかけてこなくなった。匙を投げられたのか? どうせ頑固で偏屈なばあさんとしか思っていないだろう。こちらも、かつてのスポーツ選手崩れの三十後半の男など、豆粒ほども気にしていない。
 けれど世の中には、それが気になる物好きな人間もいるらしい。多栄子には老いた珍獣が見果てぬ夢に溺れているようにしか見えないけれど。
 三十分後、多栄子は今日の運動を終えた。いつものようにスパへ向かう。スパの出入り口で、男湯から出てくる老人とすれ違った。朝、デマンドバスからよろよろ降りてきた老人だと気付き、ずっと温泉に入っていたのかと呆れた。彼の目的はこれのみなのだろう。
 帰りもデマンドバスに乗り、別荘地の入口で降りた。そこから傾斜地を十分近く歩かなければならないのは、この歳になると結構きついが、多栄子はまだできると自分に言い聞かせている。
 池の畔を歩き、坂道をさらに上っていくと、我が家が見えてきた。その先に誰かが立っている。近づくと、我が家の数軒先に住んでいる男性だとわかった。七十半ばのまごうことなき老人だ。多栄子よりも古い住人で、別居したのか離婚したのか、ここ数年は奥さんの姿を見かけないという噂だった。
 多栄子は会釈をして家に入ろうとしたが、見えたのか見えないのか、彼は微動だにせず、突っ立った姿勢のままだった。
                                        (続く)

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