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第7回 終戦後の帝国の解体と英日の君主たち|本田毅彦(京都女子大学教授)

EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。

※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。



1918年11月11日

 日本で「終戦記念日」と言えば、アジア・太平洋戦争での日本の敗北が確定した、1945年8月15日が想起される。日本に勝利したイギリスも事情は同じなのでは、と考えそうだが、イギリス人たちが想い起こすのは、実は1918年11月11日であり、「リメンブランス・デイ」(Remembrance Day)と称されている(以前は、「休戦記念日」[Armicetice Day]と呼ばれていた)。この日、ドイツ軍代表が休戦協定に署名し、第一次世界大戦の戦闘が終結した。言い換えれば、イギリス人たちの歴史認識では、第一次世界大戦の方が第二次世界大戦に比べてより重要だ、とみなされており、その喚起力もより強い、ということになる。

ジョージ五世の「国民ファースト」

 その第一次世界大戦が行われていた時期にイギリス国王だったのが、ジョージ五世(在位1910~1936年)である。彼の祖母/祖父にあたるヴィクトリア女王/アルバート公によって定められた、「王室は、国民ファーストの姿勢を貫くべし」との家訓に従い、戦争が始まると、立憲君主としてイギリス社会の統合を維持することに腐心した。具体的には、前線の部隊や傷病兵への慰問を幾度も行い、王子たちを軍務に就かせ、平時とは全く異なる質素な生活を宮殿で送り、国民感情に配慮して、王族のドイツ出身者としてのアイデンティティを払拭しようとした。そして1918年の休戦協定締結後も、1936年の逝去に至るまで、「国民ファースト」を貫いた。このような彼の姿勢は、息子のジョージ六世(在位1936~1952年)によって引き継がれただけでなく、1921年に訪英し、ジョージ五世と親しく接した昭和天皇(在位1926~1989年)にも影響を与えた、と考えられる。

 今回は、イギリス王室のこうした家訓が、第二次世界大戦に際してもジョージ六世夫妻によって維持され、同王室がイギリス帝国の解体に適応することを可能にした経緯、また、イギリス王室の家訓から影響を受けた昭和天皇が、アジア・太平洋戦争での敗北と大日本帝国の解体にも関わらず、君主制の存続に成功した経緯について、考えてみたい。

第二次大戦下の、ジョージ六世と昭和天皇

 第二次世界大戦が1939年9月に始まり、1941年12月にはアジア・太平洋戦争が始まった。戦時下においてジョージ六世と昭和天皇は、ともに、第一次世界大戦中のジョージ五世の振る舞いに倣おうとした、と思われる。

 ドイツ空軍の爆撃から深刻な被害を受けたロンドンの市街地を、ジョージ六世夫妻は幾度も訪問して人々を励ました。夫妻の居住するバッキンガム宮殿がドイツ軍機によって爆撃されたことさえも、「王室は国民と運命を共にしている」とのメッセージを伝えるために、「活用」している。また、イギリスの貴族たちの多くが、その家族を、大西洋のかなたにあり、本国に比べてはるかに安全な自治領カナダへと「疎開」させたのとは対照的に、ジョージ六世夫妻は、自分たちがロンドンを離れなかったのはもちろん、その子供たちも、イギリスにとどまらせた。

 昭和天皇も、米空軍による激しい爆撃のあと、1945年3月18日に東京深川(現在の江東区)の状況を視察し、その様子を、映像/写真を介してマス・メディアに報道させている。また、ジョージ六世夫妻と同様に、昭和天皇夫妻も首都である東京を離れなかった。いわゆる「本土決戦」に備えて、長野県に「松代大本営」を準備させたが、実際には使っていない。ただし、皇子たちは日光などに「疎開」させた。

終戦時の、昭和天皇とジョージ六世

 昭和天皇は、1945年8月15日に、ラジオ放送を通じで日本の敗戦を国民に対して自ら告知した後、日本が敗れたという事実を迅速に徹底させるために、軍籍にいた皇族たち、自らの弟を活用した。玉音放送直後の8月17日には、鈴木貫太郎内閣に代えて、東久邇宮を首班とする内閣を誕生させている。また、戦闘停止を日本軍部隊の一般将兵に受け入れさせるために、自らの名代として、閑院宮、朝香宮、竹田宮を、それぞれ南方軍、支那派遣軍、関東軍に差遣し、説得にあたらせた。また、日本国内の航空部隊、船舶部隊に対しては、高松宮、竹田宮を送っている。

 他方、ジョージ六世は、東南アジア戦域での日本軍の降伏式典の催行を、自分のまたいとこであり、彼と同じくヴィクトリア女王/アルバート公の曾孫にあたる、マウントバッテン卿に委ねた。アジア・太平洋戦争中、イギリスが領有してきた広大な植民地でイギリス軍部隊が日本軍部隊によって屈服させられ、それらの植民地は日本軍によって占領された。こうした事情から、植民地民衆の間でのイギリスの「威信」は深く傷ついており、日本軍が敗退した後も、イギリスによる植民地支配の復活は困難になることが予想された。イギリス側としては、「イギリス軍が、結局は日本軍に勝利した」との認識を植民地民衆の間で浸透させるために、日本軍の降伏式典を印象的な形で行う必要があった。かくして、東南アジア戦域の連合軍最高指揮官だったマウントバッテン卿が、シンガポールにおいて、現地の日本軍の最高指揮官たちを呼びつけ、衆人環視のなかで、メディアの力を存分に活用しながら、降伏文書に調印させた

昭和天皇、終戦後の「転進」

 ジョージ五世は、既述の、昭和天皇との面談の際に、第一次世界大戦末期に彼が目にした、ロシア皇帝一家/ドイツ皇帝一家の運命についても語り、その意味を説明したのでは、と思われる。そして、アジア・太平洋戦争を自身の決断で終結させた正にその時、昭和天皇の脳裏には、ジョージ五世からの忠告が蘇っていたのではないか。ニコライ二世が辿った運命は、もしも敗戦後に自分が天皇位を退けば、個人的な責任(罪)を認めることになり、処刑される(自裁を求められる)かもしれないことを示唆する、と。また、ヴィルヘルム二世が辿った運命は、自分の退位が、天皇制そのものの廃止につながるかもしれないことを示唆する、と。従って昭和天皇には、敗戦を決意した時点で既に、自らと、自らの家族の安全を守り、天皇制を維持するために、自分は退位しないが、君主の地位が大きく変化する(「国家の統治権の総攬(そうらん)者」ではなくなり、「国民の統合の象徴」になる)ことを、むしろ進んで受け入れる準備が十分にできていた、と考えるべきではないか。

戦争後の「巡幸」のモデル

 昭和天皇は、敗戦後、地方の「巡幸」を積極的に行い、復興に携わる国民を「激励」し、戦災者や戦没者の遺族などを「慰問」した。これについては、彼の祖父である明治天皇が明治維新後に行った全国巡幸に倣った、とも考えられるが、そのような意味での「巡幸」は、既に昭和天皇はアジア・太平洋戦争前から、毎年の陸軍特別大演習の際に行っていたと思われる。敗戦後に地方の「巡幸」を開始した時の昭和天皇の念頭には、ジョージ五世が、とりわけ第一次世界大戦後、イギリス社会が動揺していた時期に行ったイギリス各地への訪問が、より鮮明に浮かんでいたのではないだろうか。

インド「独立」を指向するイギリス

 他方、第二次世界大戦後のイギリスでは、ジョージ六世が、いわゆる異人種植民地を自治国に格上げし、イギリスとの関係を持続させる(イギリス連邦にとどまらせる)形で、イギリス連邦/帝国を新たな段階に「進化」させることを考え始めており、そのためのテストケースとして、インドのイギリスからの「独立」を、むしろ早期に実現させることを望むようになっていた。

 その背景には、次のような事情があった。英領インド帝国の統治システムを支えてきた中核は、イギリス国王=インド皇帝に対する、インドの藩王たちと、英領インド軍を構成するインド人兵士たちからの忠誠心だった。しかし、インドの一般民衆の間での藩王たちの威信は、両大戦間期のインド・ナショナリズム運動の高揚の中で、既に形骸化していた。他方、英領インド軍は、伝統的に、兵士はイギリスによるインド支配に協力的なコミュニティ(特定の宗教やカーストに基づく集団)出身のインド人たちだが、将校はイギリス人が独占する、という形で構成されていた。しかし、第二次世界大戦中、日本軍との戦いに勝利するために、出身コミュニティに関わらずインド人の志願者を兵士として受け入れることになり、また、将校層においても、インド人将校たちの割合が著増したために、組織全体のメンタリティーが大きく変化していた。

打ち切られたインド国民軍裁判

 そうした中でイギリス側は、アジア・太平洋戦争中に英領インド軍を離脱し、日本軍がバックアップするインド国民軍に投じたインド人将校たちの裁判を、日本の降伏後にデリーで行おうとした。しかし、被告とされたインド人将校たちを擁護するインド社会の世論の盛り上がりを見て、イギリスはその裁判を打ち切らざるをえなかった。また、ほぼ同じ時期にボンベイ(現在のムンバイ)の英領インド海軍基地では、デリーでの反乱将校たちの裁判の帰趨とも関連しながら、インド人水兵たちがその就労条件に抗議して反乱を起こすに至った。かくして、ジョージ六世、そしてイギリスのアトリー労働党政権は、英領インド帝国の統治システムを継続させることは極めて困難になった、と認識する。

 ただし、ジョージ六世の見通しと、アトリー政権のそれは、全く同一というわけではなかった。ジョージ六世は、インド社会の人々が「イギリス人たちによる支配」を拒否し、アイルランドと同様にイギリスからの独立を選ぶとしても、イギリス君主制との関係を断ち切ることには必ずしもならない、との考えを持っていた(アイルランドは、1949年にイギリス連邦からも離脱することになる)。

「最後のインド副王・総督」マウントバッテン卿

 ヴィクトリア女王時代以来、イギリス王室のメンバーは、インド統治に関して、「イギリス君主制と、インド現地で実際にインド社会を支配する植民地官僚制度とは、必ずしも一枚岩ではない」とのイメージを、インド社会に浸透させることに努めてきた。その結果、インド社会の人々の記憶の中では、ヴィクトリア女王は、なお、かなりの好意をもって受けとめられていた。かくしてジョージ六世は、英領インド帝国を解体した上で(自身が、インド皇帝の称号を放棄した上で)、独立後のインド社会の人々とイギリス君主制の間の関係を新たに構築するという、イギリス君主制にとって決定的に重要な課題に関して、自分と同様にヴィクトリア女王の曾孫にあたるマウントバッテン卿を、「最後のインド副王・総督」として活動させることが最適だと判断した、と思われる。

 そして、このようなジョージ六世からの期待に応える形で、マウントバッテン卿は、労働党政府が想定していたよりも、さらに早い1947年8月の段階で、英領インド帝国の幕引きを行い、新生のインド/パキスタン両自治国がイギリス連邦にとどまるという「成果」を挙げた。ただしそれは、インド/パキスタンの分離独立という、インド社会の一部エリートとの談合の成果でもあり、膨大な数のヒンドゥー教徒やシーク教徒の民衆(パキスタンからインドへ)/ムスリムの民衆(インドからパキスタンへ)に、移住に伴う苦難と流血を強いるもの、でもあった。

イギリスにおける女王の機能

 現在もなお、イギリス社会/日本社会では、君主制に対する一定の信頼感が存在する、と思われる。その主な理由は、両王室が「国民ファースト」のイメージを確立/維持することに努め、また、それぞれの社会の歴史的沿革を踏まえながら、君主制の存在が、政治と文化の分離と両立を保障してきた、と両国国民の間で認識されているから、ではないか。

 16世紀にヨーロッパで宗教改革が始まって以降、イギリス社会でも、いわゆる絶対君主の手中に政治権力と文化権力(宗教権力)が独占される可能性が生じた。しかし、そうした状態は、権力の集中を忌避するイギリス社会の傾向から長くは続かず、立憲君主制の下で、政治権力は議会が、文化権力は君主が分掌する、という形が現れた。そしてその際には、イギリス君主制が女王の存在を認めていたことも、他のヨーロッパの主要国とは異なる道をイギリスが歩むことを促がしたのではないか、と思われる(ただしロシアは、一時期、同じように女王の存在を許容しながら、イギリスとは正反対の方向へ進んだ)。つまり、イギリス史上では、主として歴代の女王たちの治世において、君主は政治権力から距離をとり、国家の儀礼的/文化的側面に専心し、国民の統合に努めるべきだ、という規範意識が定着したのではないか。そして、「太陽の沈まない帝国」だったはずのイギリスは、既述のとおり、第二次世界大戦終結から比較的間もない時期に起こった、帝国からのインド植民地独立の経緯を学習することで、1950年代後半以降の、帝国の全面的な解体を比較的穏便に受け入れ、普通の国民国家へと軟着陸したが、それもまた、長期に渡ったエリザベス二世の治世において、だった。

異形としての日本近代

 他方、日本社会では、中世の段階から、政治権力は武士層が、文化権力は朝廷・寺院が分掌する形が現れ、それが近世において完成したように思われる(しかも、近世までは女性天皇が存在した)。しかし、近代が近づくと、欧米列強による支配を免れるためには日本独自の絶対君主を創造することが必要だ、と考える人々が現れる。彼らは、政治権力の首都だった江戸と文化権力の首都だった京都を併せて東京とし、絶対君主となるべき天皇に江戸城を接収させ、宮城と称してそこに住まわせた。その後、近代天皇制の下で多くの日本人は帝国の夢を追うが、アジア・太平洋戦争という惨事を引き起こした挙句、挫折する。しかし、既に見た昭和天皇のリアリスティックな対応もあって、日本も、普通の国民国家へと軟着陸した。1947年に施行された日本国憲法の下での象徴天皇制が、長く安定的に運用され、20世紀後半の日本社会の文化的/経済的繁栄を保障した、という事実は、政治権力と文化権力を一体化させようとした近代天皇制こそが、むしろ日本史上では異形だったことを示している、と思われる。