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第11回 メディア王族マウントバッテンの野心|本田毅彦(京都女子大学教授)

EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。
※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。

 現イギリス国王チャールズ三世に強い影響を与えた人物の一人として、ルイス・マウントバッテン卿(1900年生れ、1979年歿)がいる。マウントバッテンは、そもそも、チャールズ三世の両親(エリザベス二世と、フィリップ公[マウントバッテンの甥])の結婚をアレンジした、と考えられている。また、王太子時代のチャールズ三世の「メンター(指導者、助言者)」の役割を果たした、ともされる。さらに、チャールズ三世とダイアナ妃の結婚に関しても、マウントバッテンの助言が大きかった。近年、エリザベス二世時代のイギリス王室を素材として制作され、ネットフリックスで配信されて、多くの人々が視聴した「ザ・クラウン」でも、マウントバッテンは主要な登場人物である。

 以上のように、制度的にはイギリス王室の正規のメンバーではないのにもかかわらず、ヴィクトリア女王の曾孫であることを十全に活用し、20世紀のイギリス王室のありように深く関わったマウントバッテンの前半生を、今回はふり返ってみたい。マウントバッテンは、視聴覚マス・メディアが人類社会に巨大な影響を及ぼすことになる20世紀が始まるのと、ほぼ同時に生れ、そうしたニュー・メディアの成長の波に乗ることによって自らのキャリアを築き、新たなタイプの王族、すなわち「メディア王族」のありようを提起した、と考えられる。

マウントバッテンの生い立ち

 マウントバッテン家は、第一次世界大戦以前はバッテンベルク家と名乗っており、ドイツの王族家系の一つだった。それは、貴賤結婚の結果、誕生した家系でもあった(ドイツでは、王族と臣民が身分違い婚を行った場合、その結果生れた子供は、王位継承権は持たないが、王族としての地位を与えられた)。従って、バッテンベルク家は、ドイツに限らないヨーロッパの「王族カースト」のメンバーであり、ブルガリア公家、ギリシア王家、スウェーデン王家、スペイン王家、そしてイギリス王家に対して、君主、君主の配偶者、王女の配偶者を次々と提供していくことになる。

 ルイス・マウントバッテンの父親であるルイス・アレグザンダー・バッテンベルク(以下、バッテンベルク)は、彼の従兄であるヘッセン大公世子ルートヴィヒ(後のルートヴィヒ四世)の妃アリスが、ヴィクトリア女王の三女であったことから、そのコネクションを頼ってイギリス海軍の士官になった。さらに、やがてバッテンベルク自身が、そのルートヴィヒ四世とアリスの長女であるヴィクトリアと1884年に結婚したため、イギリス王室の準メンバーのような扱いを受けるようになり、イギリス海軍内で順調に昇進を遂げた。1885年には、バッテンベルクの弟ヘンリーも、ヴィクトリア女王の末娘であるベアトリスと結婚している。

 バッテンベルクの次男であるルイスは、父のキャリアに倣い、イギリス海軍の将校になった。イギリス海軍での昇進が、基本的に能力主義に基づいており、資金的な裏付けが少なくて済むことも魅力だった(イギリスで準王族の扱いを受けるようになっても、バッテンベルク家の資産は限られていた)。他方、バッテンベルクは、第一次世界大戦が始まる前に、海軍内で武官としてはトップの官職である、第一海軍卿の地位にまで達していた。しかし大戦が始まると、イギリス世論から、バッテンベルクがドイツ系であることへの反発が生じ、彼は第一海軍卿の地位を退くことを余儀なくされた(姓も「バッテンベルク」から英語風の「マウントバッテン」に改め、子ルイスも、それに従った)。既に海軍艦船でドイツ海軍との実戦を経験していたルイスは、王族カーストとしての自分の家名が辱められた、と感じた。

王太子とともに、インド・日本へ

 第一次大戦後、マウントバッテンは、大戦のせいで修学機会を奪われた若手士官たちに高等教育を受けさせるプログラムに参加し、1919年10月からケンブリッジ大学で5カ月間を過ごした(学位は取得していない)。この間、同じ時期にケンブリッジで学んでいた、彼と同世代の王太子エドワード(共に、ヴィクトリア女王の曾孫だった)との親交を深めた。他方で、同大学の教員や学生の間で流行していた社会主義思想にも触れ、労働党を支持しているのでは、と周囲から思われるような言動をするようになった。

 その後、王太子エドワードは、諸植民地が第一次大戦中にイギリスのために行った様々な貢献に対して王室からの謝意を示すべく、世界規模で公式訪問ツアーを開始した。その一環として、1921・1922年にはインド・日本を訪ねることになり、王太子の随員の一人としてマウンバッテンも、王太子が座乗する海軍艦船に乗り組むことになった。

 長期間の旅だったため、王太子とマウントバッテンの仲はさらに親密になった。しかし、インドに着いた王太子一行は、藩王たちが統治する地域では歓迎されたものの、イギリスが直轄統治する地域では、ガンディーの率いるインド・ナショナリズム運動を支持する人々によってボイコットされた。他方、日本では、日英同盟の解消が決まった直後であったのにもかかわらず、前年(1921年)にイギリスを訪問していた日本の皇太子(後の昭和天皇。1921年11月に摂政になっていた)を中心として、熱烈に歓迎された。マウントバッテンは、この公式訪問を通じて、イギリス君主制の民心へのアピール力が巨大であり、それがマス・メディアの活用によって増幅されうること、また、今後、英領インド帝国の運命に大きな変動が生じるであろうこと、そして、日英同盟が解消されるのに伴い、日本の動きがイギリスの利害にとって不安定要因になるだろうことを感知した、と思われる。

エドウィナ・アシュリーと結婚し、アメリカへ新婚旅行

 王太子とマウントバッテンがインド・日本を訪問している間に、ユダヤ系の大富豪であるアーネスト・カッセルが死去し、その孫娘のエドウィナが莫大な遺産を相続した。エドウィナにアプローチした上流階級の独身男性は多かったが、エドウィナは結局、マウントバッテンからのプロポーズを受け入れた。

 マウントバッテン夫妻は、新婚旅行として、マウントバッテン家(バッテンベルク家)の出身者が数多く存在するヨーロッパの諸王室を訪ねて回り、さらにアメリカ合衆国を訪問した。アメリカでは、イギリス王家と親密であり、また、故ヴィクトリア女王の曾孫でもある新郎と、ユダヤ系の大富豪である新婦のカップルとして、文字通り「セレブ」の扱いを受け、同地の有力者たちと親しく交際した。とりわけマウントバッテンは、ハリウッド映画界の隆盛と、その世論への影響力に注目している

海軍将校・王族メンバーとしてのキャリア

 マウントバッテンは、イギリス海軍で自分の属する兵科として、通信畑を選んだ。電子技術の発展により、友軍内での意思疎通、また、敵軍の動きに関する情報入手の重要性が飛躍的に高まっていることを認識していたからだった。それと同時にマウントバッテンは、通信技術発達の副産物としてのラジオ放送が、発信者と社会全体の間での即時的コミュニケーションを可能にすることにも気付いていた。さらに、そのラジオ放送が、君主制にとっては、国家/国民を統合するという、その主要な機能を果たしていく上で、得難い手段となるであろうことにも、である。

 マウントバッテンは、王太子エドワードとの親しい関係も維持していた。その王太子は、労働者階級の経済的窮状への「同情」を深めていたため、ケンブリッジ大学において、やはり社会問題の重要性に開眼していたマウントバッテンとの間で、関心を共有することになった。イギリス王室内でマウントバッテンは、王太子と同様に「ラディカル」だ、との評価を受け始める。

 父王の死を受けて1936年1月に即位したエドワード八世は、それから1年もたたないうちに、自身の結婚問題を理由として退位した。その際、マウントバッテンは、当然にも、と言うべきか、シンプソン夫人(離婚歴があった)との結婚を望むエドワード八世の立場に同情的だった。とは言えマウントバッテンは、エドワード八世が退位し、その弟のジョージ六世が即位した後には、新国王一家へのアプローチを抜け目なく開始した。自分の甥であり、イギリス海軍の士官候補生だったギリシアの王子フィリップと、ジョージ六世/エリザベス王妃の長女であるエリザベス王女(後のエリザベス二世)を、国王一家の海軍兵学校への訪問の際に出会わせ、互いに恋心を芽生えさせている

チャーチルからの救いの手

 第二次世界大戦が始まると、マウントバッテンは第五駆逐艦戦隊の指揮官に任命された。同戦隊は1941年のクレタ島の戦いで甚大な被害を受け、マウントバッテンが乗っていた艦も沈没して多くの乗員が死亡したが、マウントバッテンは九死に一生を得た。その悲惨なエピソードを戦意高揚映画の題材にすることを、マウントバッテンの友人で演劇界の才人であるノエル・カワードが海軍省に提案し、同省からの全面協力を取り付けた。カワードが脚本を書き、さらにカワードがマウントバッテンをモデルにした指揮官の役を演じて、映画『軍旗の下に』(In Which We Serve)は完成し、大ヒット作になった。「知勇を兼ね備えた指揮官」のモデルがマウントバッテンであることは世間周知であったから、マウントバッテンの「偉業」は絶賛され、一躍、英雄の扱いを受けるようになった。

 第二次大戦開始後、チェンバレンに代わってイギリス首相になっていたチャーチルも、マウントバッテンのキャリアに絶えず目を配り、マウントバッテンが窮地に陥った際には、救いの手を差し伸べた(チャーチルは、第一次大戦開戦時の海軍大臣であり、その際、第一海軍卿のバッテンベルクを守り切れなかったことを、悔いていた)。駆逐艦を沈没させた後、マウントバッテンは海上での任務から遠ざけられていたが(海軍内部では、指揮官としてのマウントバッテンの能力への評価は高くなかった)、海軍と陸軍を統合する形での、ヨーロッパ大陸部への襲撃が行われることになり、チャーチルはその責任者にマウントバッテンを指名した。だが、1942年8月に実施されたディエップ港奇襲作戦は、ドイツ軍の反撃に遭い、散々の失敗に終わった(上陸部隊がカナダ軍兵士たちによって構成され、多くの死傷者を出したため、マウントバッテンはカナダ国民からの恨みを買うことになった)。

 しかし、チャーチルはマウントバッテンを見捨てなかった。東南アジア戦域における日本軍との戦いは、やはり、海・陸軍の共同作戦の形で行われるので、マウントバッテンが同戦域の最高指揮官として適任だ、とチャーチルは主張し、1943年8月にそれを実現した。ただし、チャーチルの念頭には、他の考慮も存在した。東南アジア戦域では、英領インド軍をはじめとする英連邦軍の統合的な運用と、アメリカ軍との連携が不可欠だったが、ヴィクトリア女王の曾孫であるマウントバッテンはイギリス王室のメンバーであるとみなされ、英連邦軍の兵士たちから好意的に受け止められるはずだった。また、マウントバッテンは、既にアメリカ社会の要人たちの多くと親密な間柄である上に、王族としての彼の血筋が、一般のアメリカ人の好意的な想像力をかき立てるであろうことも、チャーチルは見越していた

華々しいキャリアを築くべく、運命づけられた(?)人物

 マウントバッテンは、王族カーストという、比類なく恵まれた星の下に生れた。しかし、彼の野心は恵まれた地位だけでは満足し得ないほどに巨大であり、そのような野心の実現のために、自らの判断に基づいて、自分に与えられた条件をダイナミックに活用しようとしていた。

 マウントバッテンの世渡りの秘訣は、ここまで見てきたように、生まれながらにして彼が持っていた王族カーストとしてのオーラと、その魅力に溢れたペルソナを武器にして、これぞ、という有力な人物との間で同盟関係を築き、その上で、マス・メディアの広報力を活用し、自身が、そうした有力者との間で同盟関係を持つ存在であるとのイメージを、社会に売り込むのに長けていたところにあった。

 同世代のエドワード八世との間では、両者が、第一次大戦後の国際/国内情勢に関する展望を共有しているかのように振舞い、信頼を得た。エドウィナ・アシュリーとは、特権階級に属しながらアウトサイダーでもある、というアイデンティティの共有を頼りに結婚し、その結果、彼女の有する膨大な資産を活用することが可能になった。エドワード八世が王位を退くと、今度は、ジョージ六世の次に国王になるはずのエリザベス二世に対して、自分によく似たハンサムな甥を売り込み、新国王一家に深く食い込んだ。そして首相チャーチルとの間では、父親とチャーチルの親密な関係を基盤にして、「マウントバッテンは自分のプロテジェ(愛弟子)なのだ」との意識をチャーチルに抱かせ、彼から幾度もチャンスを与えられた。

 マウントバッテンは、とりわけ、その後半生において、軍人政治家として、また、王室の準メンバーとして、自らの野心を実現していった(最後のインド副王=総督となり、イギリス海軍に復帰した後には、第一海軍卿の地位まで得た)。しかし、その最期にあたっては、テロリストたちの暗殺の標的にされ、愛する近親者たちまでもが、その犯行の巻き添えになる、という悲劇に見舞われる。「天網恢恢疎にして漏らさず」、と評するべきだろうか。