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推しと、ともがら。✿第33回|実咲

藤原道長、藤原斉信ただのぶ、藤原公任きんとう、藤原行成ゆきなり
「光る君」の序盤では仲のいい姿を見せていた彼らが、久しぶりに歓談していた第34話。
行成以外は髭をたくわえ、すっかり壮年といったところでしょう。
では実際のところ、彼らはどの程度交流があったのでしょうか。

第34話で描かれた、道長の屋敷で行われた曲水きょくすいの宴から少し経った寛弘4年(1007年)4月28日、行成は、皇太后宮権大夫ごんのだいぶに任じられます。
これは、皇太后宮の長官代理といったところの役職で、その長官である皇太后宮大夫は公任がつとめていました。
皇太后宮というのは、皇太后に関する事務をつかさどる役職ですが、この時の皇太后は公任の姉藤原遵子のぶこ
彼女は一条天皇の父、円融天皇の皇后。道長の姉藤原詮子あきこが女御として並び立っていたことは、「光る君へ」の初期にも描かれていました。

詮子やその父兼家かねいえを抑える円融天皇の目論見もあり、遵子が正妃の皇后となりましたが彼女には子が産まれませんでした。
すでに円融天皇も亡くなり、出家もしている遵子は静かに暮らしていました。
時流からはずれていて、陽の当らない立場になっていた遵子のために、弟の公任が身の回りの世話をする役職についていたのです。

その皇太后遵子のところへ、行成がこのタイミングで役職についています。
行成は第26回でもお話ししたように、敦康あつやす親王家の別当もつとめており、皇族の家政機関の役目としては兼務という形です。

この行成の皇太后宮権大夫への任官の二か月ほど前。道長の春日大社への参詣に公任と行成も同行していました。
この帰り道、公任と行成は同じ牛車に乗っています。実際にどんな会話が二人の間でなされたのかはわかりません。
しかし、「姉のことをよろしく頼む」などとお願いされていてもおかしくはない時期です。
決して喜ばしい役目ではない皇太后宮権大夫という役職を、行成は義理堅く遵子が亡くなるまで勤めます。
実直な行成の人柄をよく見抜いていたであろう公任の目論見は、間違ってはいなかったのです。

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少し時を遡り、長保ちょうほう元年(999年)9月12日、道長は西山へ遊覧に向かいます。

嵐山(渡月橋)

西山とは嵯峨・嵐山といった、現代でも観光地として人気スポットの多い場所です。
御堂関白記みどうかんぱくき』によれば、紅葉の季節だったようです。公任や行成などがいた一行はまず、大覚寺へとやって来ました。

大覚寺は、平安のはじめごろにつくられた嵯峨天皇の離宮が元になっている寺で、庭に広がる大沢池は日本最古の人口の庭池とされています。

大覚寺(大沢池)

今でもその姿を見ることができ、平安の名残をじかに感じることができます。

大覚寺

大覚寺のあとにはおお川へと向かい、大江匡衡まさひら(赤染衛門の夫)が和歌の題「処々に紅葉を訪ねる」を献じました。
そこで公任の詠んだ和歌が、かの有名な百人一首にも選ばれている一首。

滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れて尚聞こえけれ
(滝の音は絶えて久しくなったけれども、名だけが今も聞こえている)

藤原公任(小倉百人一首、ウィキメディアコモンズより)

ここに出てくる「滝の音」とは、大覚寺の奥にあった「名古曽なこその滝」のこと。
こちらもまた、嵯峨天皇の頃につくられた人工の滝でしたが、公任たちが訪れたこの時代にはもう枯れてしまっていました。
現代では、名古曽の滝跡として石碑などが残るのみです。

名古曽の滝跡

「名古曽の滝」と「名こそ流れて」を重ね、時流が移り変わっていくことを詠んでいる和歌ですが、この一首を書き残していたのが行成なのです。
遊覧の主催者である道長もこの日のことは『御堂関白記』で記事に残しますが、公任の和歌は記録していません。
同行はしていない実資も、『小右記しょうゆうき』に遊覧があったことを書いていますがこちらも同様です。
唯一、公任の和歌を書き残した行成の『権記ごんき』では「滝の音の」という表記ですが、こちらがオリジナルだったのでしょうか。

公任は関白の息子、行成は関白の孫であり、二人とも、権勢を誇っていた家の生まれです。
しかし、今ではすっかり時流の中心ではなく、道長におもねる一人になってしまっています。
また、時は中関白家なかのかんぱくけ長徳ちょうとくの変で権勢を失ったあとのこと。
一条天皇の寵愛だけを頼みとする定子と、この年の11月に入内する彰子という移り変わりも間近でした。

「名こそ流れて なお聞こえけれ」には、それぞれの境遇や時代に重なる気持ちがあったのではないでしょうか。

(文中の写真はすべて筆者撮影)

書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。