推しと、燃ゆるもの。✿第30回|実咲
いきなり寛弘元年(1004年)にすっとんでから、時間軸の案外進まなかった「光る君へ」第31話。
さて、じつはここまで全く作中で描かれなかった出来事があるのです。
平安京の北に位置する大内裏(平安宮)。この中にある内裏が、天皇や后妃たちの生活空間のある大事なエリアであることは第23回でもお話しました。
「光る君へ」でもこの場所は何度も登場しています。
天皇が日常的に暮らす清涼殿や、彰子の住まう飛香舎(藤壺)、定子がかつて住んでいた登華殿などはこの内裏にあります。
じつはこの内裏、めちゃくちゃ燃えやすい。
学校で必ず習う794年の平安京遷都。それ以来、大内裏は「光る君へ」時代までに何度か大火災にみまわれていました。
平安時代の初めごろに起こった「応天門の変」では、放火され応天門が炎上しています。この時の様子は、後の時代の『伴大納言絵詞』で臨場感豊かに描かれています。
ほかにも、第15回でもお話しした、清涼殿落雷事件によって火災が発生、死者も出ています。
初めて大内裏が焼失してしまったのは、村上天皇(円融天皇の父)の時代である天徳4年(960年)のことでした。
この時焼失した大内裏ですが、翌応和元年(961年)に再建されます。
しかし、この再建した大内裏は15年後、円融天皇の時代である貞元元年(978年)にまたしても燃え落ちてしまいます。
ちょうどこの頃、「光る君へ」では後の道長がまひろ(紫式部)と出会ったのです。
焼けてしまったものは、再建するしかありませんが、この後もなかなかのハイペースで炎上します。(物理)
一条天皇が天元3年(980年)6月に生まれますが、同じ年の11月22日に燃え、天元5年(982年)11月17日にも燃えています。
このあとしばらくは静かだったのですが、道隆の権力が絶頂期である正暦5年(994年)には、2月10日の内裏後涼殿、2月17日の内裏弘徽殿・飛香舎と連続放火事件が発生。
「弘徽殿・飛香舎の屋根に火の包みが放り投げ上げられた」と生々しい記録が『本朝世紀』に伝えられています。
この連続放火事件は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった中関白家への反対勢力の策動と無関係ではないようです。
一条天皇の時代の最初の内裏の焼失は長保元年(999年)6月14日のことでした。
住まいである清涼殿が焼失した一条天皇は、一条院で生活を送ることになります。
この一条院というのは、一条天皇の母詮子が当時所有していた屋敷を整備したものでした。
このように大内裏以外の場所の天皇の住まいを里内裏と呼びます。
内裏が焼けてしまったので、一条天皇のほかに以外にも定子も共にお引越し。
実はこの頃、定子以外にも藤原元子・藤原義子という女御もいたのですが、彼女たちはそれほど広くない建物で隣同士の居所に仮住まいとなりました。
この配置などの差配は、行成が一条天皇に任じられたようです。こんなところでもよく働く行成です。
この年の11月に彰子が入内するのですが、内裏は焼失中なので彰子はこの仮の内裏である一条院に来たことになります。
彰子が本来の内裏に入ったのは、翌長保2年(1000年)10月11日のことです。
つまり、この年の12月に亡くなった定子は新しい内裏に戻ることはなかったことになります。
しかし、この新しい内裏も長保3年(1001年)11月18日の火事でまたしても焼失。燃えるペースが早すぎる!!
またしても一条天皇は一条院へ逆戻り。仮住まいの日々が続くことになります。
さすがに燃えては建てての繰り返しを受けて、公卿たちは再建にあたって善後策を話し合います。
「殿舎の数を減らした方がいいのでは」や「醍醐寺などにある、内裏から移築した建物を元に戻すのはどうか」などなど議論百出。
結局、「ゆっくり建て直しましょう(どうせまたすぐ燃えるし)」ということになったようで、一条天皇の仮住まいは長引くことになるのです。
「一条天皇」という諡号(亡くなった後に贈られる名前)は、一条院に長く住み、亡くなったのもこの場所だからです。
ではなぜ、これほどまでに内裏は燃えるのでしょうか。それは、まず建物の造りにあります。
宮中の建物の屋根は、檜皮葺というものでできています。
これは、檜の皮を重ねたもので、今では神社の屋根などにその様を見ることが出来ます。
日本古来の伝統的な手法で、大事な儀式などを行う建物や貴族の屋敷などはこの檜皮葺の屋根となっていました。
しかしこれ、瓦の屋根に比べるととにかく燃えやすい。それはそう。だって木だもの。
一度火が付いたら、もう手の付けようがありません。
可燃物しか乗っていない屋根なんて、勢いよく燃えてしまうのです。
さて、この平安時代の中頃にとてつもなく内裏が燃えまくっていることには建物以外にも理由があります。
それは、この頃貴族たちが大変宵っ張りになっていたこと。
元々は朝に会議を行うから「朝廷」だったのですが、次第に形骸化。
会議は夜に行い、そのまま飲み会に移行すると松明や燭台に火をともすことになります。
何かに燃え移ってしまえば、たちまち火災発生となってしまうのです。
何度も何度も内裏を建て替えることになると、行成の出番がやって来ます。
再建についての仕事も山のようにこなしていたようですが、門や殿舎に掲げる額字は当代一の書家である行成のお仕事。
長保3年(1001年)の火事のあとにも、行成がありとあらゆる額字を担当していた様子が『権記』にも記されています。
一条天皇は、この後寛弘2年(1005年)11月15日にまたしても内裏の火災に見舞われます。
そして、この火事がこれまで冷たい風が吹いていた一条天皇と彰子の関係が大きく変わる一つのきっかけになるのです。
それは、次回の「光る君へ」をお楽しみに。