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第6回 アメリカ大統領は、なぜ英日の君主たちに会いたがるのか|本田毅彦(京都女子大学教授)

★EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。★筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。

※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。

 イギリス王室にとって、また、日本の皇室にとっても、20世紀に新たな覇権国となったアメリカ合衆国(以下、アメリカと略記)との付き合い方は、重要な課題だった。ジョージ六世(在位1936~1952年)の君臨するイギリスが、第二次世界大戦に際してドイツからの挑戦を退けることができたのは、アメリカの助力があったからこそであり、昭和天皇(在位1926~1989年)の君臨する日本をアジア・太平洋戦争で敗退させたのも、まさしくアメリカだった。
以下では、そうしたアメリカの世界的な覇権への接近が顕著になった第一次世界大戦頃にまで遡り、ジョージ五世(在位1910~1936年)の残した示唆に基づいて、ジョージ六世/エリザベス二世(在位1952~2022年)、そして昭和天皇/明仁天皇(在位1989~2019年)が、現在に至る英米/日米の関係をどのように見出し、その中で、君主としての自らの役割をどのように演じてきたのかについて、考えてみたい。

第一次世界大戦後のイギリス王室の、アメリカへのアプローチ

第一次世界大戦後、イギリス王室は、アメリカの指導層およびその国民との間で対面的な接触を行うことを積極化した。まずジョージ五世が、パリ講和会議に参加するために渡欧してきた大統領ウィルソンと、1918年12月にロンドンで面談している。1924年には王太子エドワード(後の、エドワード八世)が、ジョージ五世の指示を受けてアメリカ訪問を行った。この際の経験が、同王太子のアメリカ社会/文明への心酔をもたらし、アメリカ人の離婚経験者、そして人妻でもあるシンプソン夫人との恋愛関係につながった、と考えられる。

エドワード八世の退位により、1936年末に急遽王位を継いだジョージ六世は、吃音というハンディキャップを抱えていたことから、国王としての自らの適性に不安を抱いていた。しかしエリザベス王妃からの励ましを得て、翌1937年の戴冠式を大過なく乗り切ると、やや自信を得た。ただし、それと同時に彼は、イギリス帝国の要の石である英領インド帝国を、新たなインド皇帝として訪れることも求められていた。本国での戴冠式を無事に終えた後はインド訪問に積極的になったものの、今度は逆に、インドでの状況が変化した。1937年に行われた州立法参事会の選挙で、イギリスからの独立を志向するインド国民会議派が勝利を収め、複数の州で政権を握ることになった。インド人政治家たちがイギリス国王=インド皇帝の訪問をボイコットし、帝国の体面が失われることを恐れたイギリス人植民地官僚たちは、ジョージ六世夫妻の訪問意欲を押しとどめた。

他方、ジョージ六世は、緊迫するヨーロッパ情勢に関しては、彼の即位後に首相に就任したチェンバレンの、対ドイツ宥和政策を支持していた。しかしヒトラーの好戦的姿勢が明確になるにつれ、イギリスとアメリカの感情的連携を強めておくことが自分の務めだ、と判断するに至り、自治領カナダへの訪問と束ねる形で、史上初の、イギリス国王としてのアメリカ訪問を1939年6月に実施した。国王夫妻は、ローズヴェルト大統領夫妻との間で緊密な関係を築くことに成功し、アメリカ国民からも大歓迎された。

第一次世界大戦後の日本の皇室の、アメリカへのアプローチ

第一次世界大戦が終わって間もない1921年、皇太子だった昭和天皇はヨーロッパ諸国を歴訪した。当初は訪問先にアメリカを含めることも考慮されたが、見送られた。しかしイギリスを訪れた際に昭和天皇は、ジョージ五世から、第一次世界大戦後の国際政治において、とりわけ君主である(君主となる)自分たちにとっては、アメリカの指導層との付き合い方が肝要だ、との助言を得たと思われる。

おそらくその結果、1920年代半ばに昭和天皇の弟である秩父宮がイギリス留学を行った際には、帰国にあたってアメリカを訪れて、クーリッジ大統領と面談している。また、やはり昭和天皇の弟である高松宮が、新婚旅行の途上で1930年にアメリカを訪れた際にも、フーヴァー大統領夫人を含む、同国の指導層と面談した。

そして太平洋戦争で敗れた昭和天皇は、連合国軍による日本の占領が開始されて間もない時期(1945年9月27日)に、連合国軍最高司令官マッカーサーと会見した(マッカーサーは、アメリカ大統領の日本における代理人でもあっただろう)。マッカーサーと昭和天皇が並んで立つ姿が写真撮影され、日本の新聞に大きく掲載された。昭和天皇は儀式ばったモーニング姿だったが、マッカーサーは寛いだアメリカ軍将校の服装だった。この両者の外見の対照が、これからの日本はアメリカを事実上の宗主国にするのだ、ということを、日本国民に痛感させた。

英米関係/日米関係の転換を明示した、アイゼンハワー大統領時代

第二次世界大戦後も、英米は、イギリス首相チャーチルが大戦中に高唱した「特別な関係」を続けることになった。そこでは、もはや、アメリカこそがシニア・パートナーであり、イギリスはジュニア・パートナーに過ぎなかったが、両国国民のプライドを体現する大統領と国王の関係は、あくまでも対等なもの、として演出された。

とは言え、アイゼンハワー政権期(1953~1961年)には、英米関係の実相を暴露する事態が起こっている。1956年の、いわゆるスエズ危機(第二次中東戦争)である。エジプト政府がスエズ運河を国有化しようとしたのに対して、イギリスは、フランス、イスラエルを誘い、軍事力を用いてエジプトの意図を阻もうとした。しかしアイゼンハワー政権はイギリスなどの出兵を支持せず、国際連合の場で三国に対して停戦を求めた。「特別な関係」にあるはずのアメリカから突き放されたイギリスは、スエズ地帯から撤兵せざるを得なかった。これにより、グローバルな舞台でのイギリスの優越的地位の喪失が誰の目にも明らかになった。ただしアイゼンハワー大統領は、イギリスの傷ついたプライドを癒し、英米の「特別な関係」を修復するために、その翌年にはエリザベス二世をアメリカに迎え、面談を行っている。

東アジアでは、中華人民共和国が成立し(1949年)、朝鮮戦争が始まった(1950~1953年)ことを受けて、アメリカの対日政策が劇的に変化した。アメリカは日本占領を早期に切り上げて講和条約を結び、さらに日米安全保障条約を締結して(1951年)、日本を同盟国に格上げした。そしてアイゼンハワーは、大統領に就任して数カ月後の1953年11月に、副大統領ニクソンを日本へ派遣し、昭和天皇との面談を行わせている。また1960年には、アイゼンハワー自身が日本を訪問し、昭和天皇と面談しようとした。しかし日本社会では、日米安全保障条約の改定に反対する大規模な民衆運動が生じており、日米両国政府はアイゼンハワーの日本訪問/天皇との面談を断念した。その後、1960年代を通じて日米両国政府は、日本国天皇/アメリカ大統領の対面接触の実現に関して、慎重に様子見を続けることになる。

20世紀後半における、イギリス国王とアメリカ大統領の面談

1952年に死去するまで、ジョージ六世はアメリカへの再度の訪問を行わなかった。これに対してエリザベス二世は、以下のような頻度でアメリカを訪問し、大統領との面談を重ねている。既述のとおり1957年にはアイゼンハワー大統領と、1976年にはフォード大統領と、1983年にはレーガン大統領と、1991年にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領と、2007年にはジョージ・W・ブッシュ大統領と、アメリカで面談した。

他方、歴代のアメリカ大統領は、第二次世界大戦後、イギリスを以下のような頻度で訪れ、国王と面談した。1945年には、トルーマン大統領がジョージ六世と面談している。ジョージ六世逝去の後、1959年にはアイゼンハワー大統領が、1961年にはケネディ大統領が、1969年と1970年にはニクソン大統領が、そして1977年にはカーター大統領が、エリザベス二世と面談した。つまり1970年代までは、(ジョンソンとフォードを除いて)すべての大統領が任期中にそれぞれ一回(ニクソンだけは二回)、イギリスを訪問して国王と面談した、ということになる。

これに対して1980年代以降は、歴代の大統領は(ジョージ・H・W・ブッシュを除いて)任期中にイギリスを複数回訪れ、国王と面談している。英米の「特別な関係」が、サッチャー首相とレーガン大統領の時代に、さらに緊密化したことを反映しているのだろう。

具体的には、レーガン大統領がエリザベス二世と三回(1982年、1984年、1988年)面談し、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は1989年に一度だけ面談した。クリントン大統領は三回(1994年、1995年、2000年)、ジョージ・W・ブッシュ大統領も三回(2001年、2003年、2008年)、オバマ大統領も三回(2009年、2011年、2016年)、エリザベス二世と面談している。トランプ大統領はエリザベス二世と二回(2018年、2019年)面談し、バイデン大統領は、現在までのところ、2021年にはエリザベス二世と、2022年にはチャールズ三世と面談した。

アメリカ大統領の、イギリスでの国王との面談(23回)が、イギリス国王の、アメリカでの大統領との面談(5回)に比べて目立って多いのは、アメリカ大統領には、政治目的で渡英し、その「ついでに」イギリス国王と面談する機会が生じること、また、アメリカ大統領には任期があるので、大統領が交代した際には、その都度イギリス国王に会っておくべきだと考えられているから、なのだろう。

しかしこれも、実は意味深長な話ではある。現在もイギリスでは、議会で多数派を率いることになった政治家が、国王からのお召を受けてバッキンガム宮殿に参内し、陛下から組閣の要請を受けて首相の地位に就いている。そこで、あえてこじつけを行うとすると、アメリカ大統領は、選挙に勝利してワシントンで就任式を済ませた後、ロンドンへ赴き、イギリス国王から改めて大統領に叙任されている、ようにも見えないだろうか。

20世紀後半における、日本国天皇とアメリカ大統領の面談

既に見たとおり、1951年に日本が連合国からの「独立」を果たすのと同時に、日本とアメリカは同盟関係に入った。そこでは、英米関係以上にアメリカがシニア・パートナーであり、日本がジュニア・パートナーであることが明白だったが、近代主権国家間の外交儀礼上、アメリカの元首である大統領は、日本の「象徴」としての天皇を対等な存在として遇してきた。
昭和天皇は、1971年に欧州歴訪の途上、アラスカ州アンカレッジの空港でニクソン大統領と面談し、ついで1975年に、ワシントンでフォード大統領と面談した。1994年には、明仁天皇がアメリカを訪問し、クリントン大統領と面談している。

他方、歴代のアメリカ大統領は、以下のような頻度で日本を訪れ、天皇との面談を行ってきた。1974年にはフォード大統領が昭和天皇と面談し、次いでカーター大統領が二回(1979年、1980年)、レーガン大統領が一回(1983年)面談している。昭和天皇の逝去後は、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が明仁天皇と二回(1989年、1992年)、クリントン大統領も二回(1996年、1998年)、ジョージ・W・ブッシュ大統領は一回(2002年)、オバマ大統領は二回(2009年、2014年)、トランプ大統領は明仁天皇と一回(2017年)、徳仁天皇と一回(2019年)面談した。

アメリカ大統領の、日本での天皇との面談(13回)が、天皇の、アメリカでの大統領との面談(3回)に比べて目立って多いのは、英米関係の場合と同様の理由による、と思われる。また、1980年代以降、アメリカ大統領の訪日、天皇との面談の頻度が高まるのも、英米間の変化と類似している。ロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘首相の間で培われた、いわゆる「ロン・ヤス関係」の余波だろうか。

三国の関係の推移と、今後

第二次世界大戦に際してイギリスはアメリカの同盟国であり、日本はアメリカの敵国だった。それにもかかわらず、20世紀半ば以降の英米間での国王/大統領の対面接触の経緯と、日米間での天皇/大統領の対面接触の経緯が、ほぼ符合ないし対応しているのは、示唆的だと思われる。「若い」共和国であるアメリカが、古来の君主制を擁する英日を、そのジュニア・パートナーとして従える、という形だが、そこには、社会/文化的な考慮が存在しているのだろう。若さと、原理主義的な性向から時として極端(分断)に走りやすいアメリカは、現実主義ないしは保守性を体現するはずの英日を、自らにとってのカウンターウェイトとみなしているのではないか。他方、英日の側からすると、両国国民のアイデンティティに潜む、もう一つの側面(中央からの統制への反発、自由の希求)を国是とし、変化へのダイナミズムを失わないアメリカのありようは魅力的であり、それゆえに、アメリカという共和国のリーダーシップを受け入れてきた、と思われる。

さらに、アメリカにとっての英日の、また、英日にとってのアメリカの、地政学的意味での有用性は、言うまでもない。大陸国家と海洋国家双方の性格を備えるアメリカは、大陸国家的志向(共和党的)と海洋国家的志向(民主党的)の間で揺れ動いてきた。しかし、ユーラシアの権威主義的国家とアメリカの対峙が明瞭となる時、同大陸の両端に位置する英日は、アメリカにとって願ってもない前進拠点に見える。逆に、大陸の権威主義的国家からの風圧を感じる英日にとっては、大洋をはさんで自分たちをバックアップしてくれるはずのアメリカは、他に換え難い存在として映じる。クアッド(日米豪印戦略対話)、AUKUS(米英豪の軍事同盟)は、三国のそうした思惑を含みこんだ、新たな政治/軍事上の表現なのだろう。