星の味 ☆10 “見えないもの”|徳井いつこ
地上には、星の味のするものがいっぱいある。
子どものころ、チャイコフスキーのバレエ曲「くるみ割り人形」のなかの“金平糖の精の踊り”が好きだった。
チェレスタのあの不思議な音色が鳴り始めると、からだが勝手に動きだし、ころころころがる砂糖菓子になっているのだった。
いっぱいの、色とりどりの小さな球体が、それぞれに均一な突起を持ち、半透明に輝いている。星空を独り占めしてるみたいなわくわくと、口に入れたい誘惑の板挟みに陥るのが金平糖だった。
金平糖は
夢みてた。
春の田舎の
お菓子屋の
硝子のびんで
夢みてた。
硝子の舟で
海越えて
海のあなたの
大ぞらの
お星になった
夢みてた。
金子みすゞさんの「金平糖の夢」だ。
身近な、見馴れたものの背後に、思いがけない広がり、深さが見えてくる……。それが、みすゞさんの詩だった。
青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
分厚い『金子みすゞ童謡全集』をひらいて、ときどき拾い読みするたび、みすゞさんの目はなんと不思議なのだろうと思う。
この世ではない、どこかあの世の目のような……。
その目を通して眺めると、地上の事物がすうっと透けて、見えているものの背後の奥行があらわれてくるかのようだ。
「見えないもの」という詩。
ねんねした間になにがある。
うすももいろの花びらが、
お床の上に降り積り、
お目々さませば、ふと消える。
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといいましょう。
まばたきするまに何がある。
白い天馬が翅のべて、
白羽の矢よりもまだ早く、
青いお空をすぎてゆく。
誰もみたものないけれど、
誰がうそだといえましょう。
触れれば消えてしまいそうな淡いもの、凝視めたとたん薄れてしまうような幽けきものを、みすゞさんは謳う。
ひるまは牛がそこにいて、
青草たべていたところ。
夜ふけて、
月のひかりがあるいてる。
月のひかりのさわるとき、
草はすっすとまた伸びる、
あしたも御馳走してやろと。
ひるま子供がそこにいて、
お花をつんでいたところ。
夜ふけて、
天使がひとりあるいてる。
天使の足のふむところ、
かわりの花がまたひらく、
あしたも子供に見せようと。
だれかが気づいていてもいなくても、たゆみなく与え続け、見返りを求めない自然の姿。こんこんと湧きあがる泉のような、贈与の世界がそこにある。
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。
絵画、音楽、散文、詩……。すぐれた芸術家の作品には、どんな小さなものにも、見えない署名が入っている。
つくり手にその自覚はなくとも、受け取り手にはすぐさま了解されるサインが。それは作家の生命であり、エッセンスである。
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
みすゞさんの詩に小さく、ときに大きく、通奏低音のように響いているもの。それはさびしさだ。
どんな人も、ひとりで生まれ、ひとりで死んでゆく。だれとも共有できない、自分だけの孤独を生きていく。
この世にある限り、逃れようもないさびしさが、そこにふと仏さまを加えたとき、べつの味わいに変わっている。
見えないものを含めた大きな世界のなかでは、つながっている。救われている。
片足はこの世に。もう片足はあの世に。
地上にいるからこそ、あえて二足のわらじをはいて生きる。
すると、世界は限りない驚きと憧れ、懐かしさをたたえて迫ってくる。