第3回 「カースト」としてのイギリス王室|本田毅彦(京都女子大学教授)
今回は、昨年9月に亡くなったエリザベス二世が、自らの配偶者としてギリシア王家の「流浪の王子」(ギリシアの王政は、第一次世界大戦後に廃止されていた)だったフィリップを選んだ背景について、それを、ヨーロッパの王族たちの結婚の歴史、イギリスの女王たちの配偶者選択の歴史の中に位置づけることで、考えてみたい。また、日本社会でも、ここしばらくの間、天皇家に生まれた女性たちの結婚が話題になっているが、その経緯を理解する上でも、いくらかのヒントを提供できるのでは、と思う。
王族カーストの形成
近世以降のヨーロッパでは、主権国家の概念が定着するのにつれて、各国家の王族たちが閉鎖的な「カースト」としての性格を強めていった、と考えられる。王権神授のイデオロギーに基づき、絶対的な主権の神聖な担い手として、君主ないし王族がイメージされるようになったから、であろう。「カースト」は、本来、インド社会の構成原理を理解するために用いられてきた概念だが、ここでは、一定の社会的範囲内で通婚を繰り返すことで、そのメンバーが排他的なアイデンティティを共有するようになった集団、という意味で、仮説的に「カースト」という語を、ヨーロッパの王族たちにあてはめてみたい。
各国家において王族たちは、それぞれの社会の貴族層からも遊離し、むしろ、国境を跨いで王族同士の間での結合を深めることになった。その際には、異なる王家に属する王族同士の婚姻が、最も重要な契機だった(ただし、カトリック/プロテスタントの境界は越えなかった)。当初は、国王と女王といった、双方の君主同士の婚姻も行われていたが、やがて、ある君主のもとへ、他国の王家の長女/長男以外の王女/王子が嫁入り/婿入りするのが普通になった。国王と女王、あるいは、王位推定相続人である長男と長女同士の結婚は、国際政治のバランスを大きく動揺させる可能性があり、それを回避する意向が働き始めたから、である。
そしてこのような、実家の王家では王位推定相続人ではなかった王族は、結婚後、他国の君主である配偶者に対して、とりわけて忠実であり、頼りがいのあるサポーターになり得ることが判明していった。彼女/彼は、王族カーストに属する者としてのカリスマを有してはいるものの、嫁入り/婿入り先の国では自らの支持基盤を持っていないために、君主(配偶者)の好意だけが頼りの存在だったから、である(好意を確保するための至上の手段は、可能な限り多くの子供たちを儲けることだった)。
君主主権から国民主権へ
しかし近代に入り、国民主権の概念が現れると、話はややこしくなった。例えば、国民主権の概念に基づいて新たに成立した初の国家が、イギリスから独立したアメリカ合衆国なのだが、イギリスでは、アメリカが独立する一世紀近く前に名誉革命が起こっており、他のヨーロッパ諸国に先駆けて、君主の主権が制限されるようになっていた。しかし、大西洋を挟んで君主の存在を具体的にイメージすることが困難だったアメリカの植民地人たちは、一部の者たち(王族)が、神の権威を現世で代行する機能を世襲で引き継ぐ、というシステム自体を否定しようとした。その結果、アメリカ合衆国は、イギリスの名誉革命体制に学びながらも、国家の主権者は総体としての国民であるとし、その上で、主権者である国民の代理として、大統領(≒国王)を四年ごとに国民が選ぶことにした。
他方、イギリス以外のヨーロッパの主要国では、近世末以降、大規模な戦争での苦境/敗戦にともなう君主の権威の失墜によって革命が起こり、国民主権への移行が生じていった。フランスでは、英仏第二次百年戦争での劣勢の結果、フランス革命が起こり、国王ルイ一六世が処刑された。ロシアでは、第一次世界大戦での窮境からロシア革命が起こり、皇帝ニコライ二世とその家族が虐殺された。ドイツ帝国/ハプスブルク帝国/オスマン帝国では、第一次世界大戦での敗北を受けて、それぞれの帝政が崩壊した。しかしイギリスは、大規模な戦争での国家の破綻を経験しなかったため、君主主権と国民主権が並立する形が、近代に入ってからも続くことになった。
イギリス王室にとっての鬼門としての、アメリカ問題
とは言え、イギリス君主制も、第一次世界大戦を契機として国民主権との融和に舵を切った。君主制が国民との融和を演出するための端的な手段は、君主が国民の一人と結婚することだった。例えば、エリザベス二世の父親であるジョージ六世は、王子時代にスコットランド貴族家系出身の女性(エリザベス王妃)と結婚している。
しかしイギリス王室は、ブリティッシュ・ワールドの統合の象徴でもあったから、イギリス国民以外にも目を配る必要があった。その際に最も重要だったのは、皮肉にも、君主制を否定してイギリスから独立した、アメリカ合衆国の国民だった。第一次世界大戦を通じてイギリスのアメリカ合衆国への依存は決定的に深まっており、イギリス王室もアメリ合衆国の国民に対して何らかの働きかけを行う必要を感じていた。しかし、既によく知られているように、イギリス王室メンバーのアメリカ合衆国市民との婚姻は、イギリス王室にとって鬼門となっていく。
エドワード八世は、離婚歴を有するアメリカ人女性(シンプソン夫人)との結婚を強行しようとし、そのために王位を退くという対価を払った。その後も、アメリカ合衆国市民(メーガン・マークル)、あるいは、君主制に対してアメリカ合衆国市民的な感覚を有するイギリス人(ダイアナ妃)が婚姻を通じてイギリス王家に参入すると、彼女らには君主制への忠誠心を期待できないのでは、との危惧が生じ、結局、王室メンバーの地位から事実上排斥されている。
イギリスの女王たちの結婚
こうした背景の下で考えると、エリザベス二世の配偶者の選択は、近代的(君主は、国民の一人と結婚する)ではなく、近世への先祖返り(君主は、他国の王族と結婚する)であったように見える。しかし実は、それは、彼女の周到な判断に基づいたものだったのかもしれない。前例を入念に観察した上で、エリザベスは、自分のための結論を導いたように思われるから、である。
女子相続を否定する、古代ゲルマンのサリカ法からの規制を受けていたドイツやフランスでは、近世以降も、皇帝ないし国王の地位に就く女性は現れなかった。他方、イギリス(1707年のイングランド・スコットランド合同までは、イングランド)王室では、宗教改革後、女性君主たちが間欠的に現れた。テューダー朝のメアリ一世、エリザベス一世、ステュアート朝のメアリ二世、アン女王、そしてハノーヴァー朝のヴィクトリア女王である。
ヘンリー八世の娘たち
16世紀のイングランド国王ヘンリー八世は、その生涯で離婚と再婚を繰り返し、時として配偶者を殺害したことで有名だが、メアリ一世とエリザベス一世は、その、ヘンリー八世の娘たちだった(母親は異なる)。メアリ一世は、イングランド宗教改革の口火を切った人物(ヘンリー八世)の後継者であるのにもかかわらず、カトリック信仰を保持しており、その即位後に、王太子時代のスペイン国王フェリペ二世と結婚した。二人の間に子供は生まれなかったが、もしも世継ぎに恵まれていれば、イングランドとスペインは同君連合を組むことになったであろう。しかし、周知のとおり、メアリ一世が亡くなった後、イングランドはエリザベス一世の下でプロテスタント国家へと回帰し、フェリペ二世はイングランドへ無敵艦隊を差し向けることになる。
エリザベス一世は、こうした、メアリ一世とフェリペ二世の結婚の経緯とその余波を念頭に置きながら、自身の配偶者の選択がイングランドの国内情勢とイングランドをとりまく国家間のパワー・バランスを動揺させることを考慮し、あえて結婚しようとしなかった。しかし、当然のことながら、彼女の直系の後継者は存在せず、彼女を軸としてダイナミックに成長し始めていたイングランドは、彼女の死後にスコットランドから招かれたステュアート朝の王たちの時代に、内乱を含む、国政上の大変動を経験することになる。
メアリ二世/アン女王姉妹から、ヴィクトリア女王へ
名誉革命後、ステュアート朝のジェームズ二世の娘、メアリ二世は、彼女の夫であるオランダ総督(事実上の同国の君主)ウィレム三世とともに、イングランド国王に即位した(ウィレム三世は、イングランド国王としてはウィリアム三世)。二人は共同君主であり、メアリ二世が亡くなった後には、ウィリアム三世は単独のイングランド国王になっている。つまり、ウィリアム三世はオランダとイングランドの同君連合の君主だったのであり、プロテスタントの英雄として、その政治的・軍事的手腕にも定評があった。しかし、メアリ二世とウィリアム三世の間に子供はいなかった(メアリ二世の流産が続いた)。
これに対してメアリ二世の妹であるアン女王は、他国の君主(ないし王太子)ではなく、デンマーク=ノルウェー国王フレゼリク三世の次男であるヨウエン(イングランドではジョージ)と結婚した。ジョージは政治的に有能ではなかったが、穏健で善良な性格であり、夫婦仲は円満だった。アン女王は幾度も妊娠・出産を繰り返したものの、子供は育たなかった。
アン女王をもってステュアート朝が絶えた後、ドイツから迎えられたのがハノーヴァー朝であり、そのハノーヴァー朝の六番目の君主がヴィクトリア女王だった。彼女は、おそらくアン女王の例を参考にして、ザクセン=コ―ブルク=ゴータ公国の王太子ではない王子、アルバートを自らの配偶者として選んだ。しかし、アン女王の夫とは異なってアルバートは政治的に極めて有能であり、ヴィクトリア女王を陰に日向に支えた。そして幸運にも、二人の間には多くの子供たちが生まれ、育った。
エリザベス二世の選択
従って、エリザベス二世には、二つの選択肢が見えていた、と思われる。すなわち、イギリス国民との一層の融和を目指して、イギリス貴族の中から、健康で、優秀で、信仰心の厚い男性を選ぶ、という選択肢と、ヴィクトリア女王の例に倣って、健康で、優秀で、信仰心の厚い人物を、他国の王室の、王太子ではない王子たちの中から選ぶ、という選択肢である。そして彼女は、一見したところ時代の流れに逆らうかのように、後者を選んだ。
その背景には、母親であるエリザベス王妃に対する、エリザベス二世のやや複雑な思いがあった、と考えられる。性格的に控えめで、華々しい言動を好まないエリザベス二世とは異なり、エリザベス王妃は、明るく、陽気に、人々の共感を醸すような振る舞いをすることに長けており、エリザベス二世は、自分はエリザベス王妃のようにはなれない、とのコンプレックスを抱いていた。そして、その母親は、自分がスコットランドの貴族家系の出身であり、王族カーストには属していなかったことを踏まえて、娘の配偶者を、自分のメガネにかなう、典型的なイギリス貴族男性の中から選ぶことを望んでいた。エリザベス二世は、あえて母親の意向を回避したことになるが、それは、結婚後も母親にコントロールされることを警戒したからだった、と考えられる。
「流浪のギリシア王子」フィリップの眉目秀麗さはエリザベス二世にとって魅力的だったであろうが、王族としてフィリップが持つカリスマ、海軍将校時代に証明した実務的能力と勇気、人柄の誠実さ、そして何よりも、エリザベス二世以外には忠誠の対象があり得ないことが、女性の君主として困難な条件の下で生きていかなければならない自分にとって、配偶者としてフィリップはベストだ、との判断が、おそらく彼女にはあったであろう。そしてフィリップは、その生涯を通じて、見事にエリザベス二世の期待に応えた。
消えゆく王族カーストの末裔としての、エリザベス二世夫妻?
他方、フィリップは、エリザベス二世との夫婦生活に、何を期待していたのだろうか。それは、「最後の(?)王族」としての矜持を、妻と共に守ることだったのでは、と思われる。二人を結び付けていた、王族としてのワーク・ライフ・バランスに関わる最も重要な了解事項は、以下のようなものだったであろう。「冷戦体制下にあって、ロシア皇室がたどった運命を回避し、自らの家族の安全を守る。」「民主化していく社会にあって、ギリシア王室の運命を回避し、王族カーストとしてのアイデンティティを保持する。」「ウィンザー公爵夫妻(エリザベス二世の伯父であるエドワード八世と、シンプソン夫人)の運命をたどらないようにする。すなわち、国民からの期待に応え、それとの折り合いをつける。」
しかし、君主となったエリザベス二世の、自分の妹、子供たちの結婚に関する姿勢は、寛容で長期的な展望に基づいていた、と評価できるだろうか。それは、当初は柔軟性に欠け、やがて無方針になったように見える。妹であるマーガレット王女の結婚に関しては、王室の伝統的な規範から外れる(離婚経験者と結婚する)ことを許さなかった。他方、四人の子供たちの結婚に関しては、彼らが自発的に伝統的規範に従うことを期待しながら、本人の意思を尊重する姿勢もとりたかったのだろうが、結局、事の成り行きを見守るだけになった。
エリザベス二世夫妻は、自分たちのアイデンティティの防衛に手いっぱいであり、新たな時代に対応するためのアイディアは次世代に委ねようとした、ということなのかもしれない。夫妻のメンター(助言者)だったルイス・マウントバッテン卿が1979年にIRAのテロで殺害されたことも、痛手だったはずである。しかし、やや諦めたような夫妻の姿勢が、近年のイギリス王室の「混迷」につながっているようにも思われる。
そして日本の皇室は…
王統をどのようにして伝えるのか、という課題に悩まされている点では、日本の皇室も同様であろう。そして、イギリス王家にとっての王族カーストにあたる存在を日本の歴史上に求めるとすれば、天皇家と、その天皇家に1000年以上にわたって配偶者を提供することで独自の権力/権威を保持した藤原氏との間の、ミステリアスな共生関係、ということになるのではないか(「ドメスティックな日本的王族カースト」と称するべきか)。現在、宮家の再創設の可能性が論じられているのも、藤原氏一族という、日本史上のもう一つの主要な柱が、その摂家としての特権的な地位を第二次世界大戦後に失った(しかも、皇別摂家の当主だった近衛文麿は、戦争犯罪人として裁かれることを厭って自殺し、その長男だった近衛文隆はソヴィエト連邦政府によるシベリア抑留中に落命した)ことに関わっているのでは、と思われる。