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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第12回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

⑫まだまだある特攻文学映画 《ラスト・フル・メジャー》
兵士に贈る「最高の名誉」とは


★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》《ラスト・フル・メジャー》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ作品鑑賞後にまた読みにいらしてください。

ベトナムで戦死した衛生兵に報いたい


坂元
 今回は2019年公開のアメリカ映画《ラスト・フル・メジャー》です。日本では2021年3月に公開されました。

 私はまったくこの映画の存在を知らず、第11回の原稿を書いている間にAmazon Prime Videoで「おすすめ」に出てきたので、たまたま観たんです(《インデペンデンス・デイ》を何度か再生したためだと思われる)。そうしたら、まさに井上さんが最後に話した部分と完全一致の物語や! と衝撃を受け、あわてて特攻文学映画候補に入れました。
 
井上 義務や命令を超えて発揮されたbraveに対して、「与えられるべきは補償ではなくて『「最高の名誉』です」——というくだりですね。私もこの映画は、坂元さんに教えてもらって初めて知りました。
 
坂元 《ラスト・フル・メジャー》は、ベトナム戦争中に60人以上の兵士を救った実在する衛生兵の物語です。


 ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、アメリカ空軍のPJ(パラレスキュー・ジャンパー)でした。1966年、アビリーン作戦で敵に包囲されて猛攻撃を受けていた陸軍中隊を助けるべく、ヘリコプターから降下し、負傷兵の救助にあたります。上官が退避命令を出しますが、拒否してその場に残り、9人の兵士たちを帰還させましたが、自らは戦死しました。

 ピッツェンバーガーは、その後、空軍十字章(Air Force Cross)を授与されましたが、彼の両親と、当時彼と一緒に任務にあたったトマス・タリー曹長(ウィリアム・ハート)は、アメリカ合衆国が定める最高位軍事勲章である名誉勲章(Medal of Honor)が与えられるべきだとして、死後叙勲を30年に渡って求めてきました。ところが、なぜか門前払いされるばかりで前に進みません。

 映画の主人公は、国防総省のエリート官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)。空軍長官から叙勲の再調査を命じられ、キャリアの足しにならないと嫌々ながら、ピッツェンバーガーに救われた退役軍人たちに会い始めます。彼らの証言を集めて回る中で、ベトナム帰還兵の現実やあの戦争の欺瞞、政治的な陰謀などが明らかになっていくという物語です。

 本筋とは関係ないのですけれど、請願書類を国防総省に持ってきたタリー曹長が、男子トイレで(!)空軍長官に直談判するのですよね。小便器で横に並んだ2人が握手をする。空軍長官が叙勲の再調査に本腰を入れるきっかけが、これなの!? とちょっと不思議な感じがしました。男子トイレの小便器スペースというのは、マジックを起こす空間なんですね……。
 
井上 男性にとって、もっとも無防備な瞬間ですからね(笑)。ただ、それだけではない。F・ウィッテン・ピーターズ長官(ライナス・ローチ)の経歴はわかりませんが、年齢的に、ベトナム戦争への従軍経験がある世代でしょう。ハフマンに再調査の指示を出す言葉遣いからもわかります。

 もっとも無防備な瞬間に「空軍落下傘救助隊(パラレスキュー)にいました」と名乗られたから、長官の小便は止まってしまいました(笑)。小便器に向ったまま握手に応じたのは、「戦友」同士のリスペクトで結ばれたということでしょう。応接室で正対していたら、こうはいかない。

 アメリカの名誉勲章については、私もこの映画を観るまで知りませんでした。授章対象は「戦闘において任務の枠を超え、生命を賭しての際だった気高さと勇敢さ」(Conspicuous gallantry and intrepidity at the risk of life above and beyond the call of duty)を示した軍人です。映画の中の言葉で言えば、将軍がどんなに欲しがっても手にすることのできない最高の栄誉ある勲章であると。

 まさに我々の対談における「braveに与えられるべき最高の名誉」そのままです! さすがアメリカだと思いましたね。これまでに受章したのは南北戦争から3500人を超えます。

左から順に陸軍、海軍、空軍の名誉勲章(Medal of Honor)

勲章授与でわかる「名誉の原理」


坂元 他国にもこうした勲章がないか、調べてみました。イギリスのヴィクトリア十字章(Victoria Cross)が相当するようですね。イギリスおよび英連邦王国構成国の軍人に対し授与される最高の戦功章。敵前での勇敢な行為を対象とした顕彰における最高のクロス章です。現在までの受章者は1355人だそうで、アメリカの名誉勲章の半数以下ですね。
 
 第二次世界大戦においては、例外的にアメリカ軍の無名兵士に対して授与され、アメリカからは名誉勲章がイギリスの無名兵士に対して贈られたとのことなので、同等のものと考えてよさそうです。

イラク戦争での活躍でヴィクトリア十字章を授与されたジョンソン・ベハリー。左端(最上位)がヴィクトリア十字章

井上 勲章は名誉を可視化する仕組みです。国による仕組みの違いはあっても、必ず「名誉の原理」を持っています。君主制でも大統領制でも、たいてい国家元首の名において授与される。

 米英の事例において興味深いのは、軍人にとって最高の名誉は、戦場において命令や義務を超えた勇敢な働きをしたことに対して与えられる、ということです。

坂元 はい。少なくとも、アメリカとイギリスにおいては、軍人個人のbraveに対して(特攻文学論的な要素でいうと「死を厭わず、未来のために自発的に行動する、自発的な行為」)最高位の勲章が与えられます。

 名誉勲章を受章すると、一定額の手当や特別旅行など手厚い恩典とともに、階級に関係なく先に敬礼をされる特権がありますし、ヴィクトリア十字章ではポスト・ノミナル・レターズの記載順位、佩用序列が全ての勲章・記章の最上位にあるので、両国ともいかなる勲章よりも高い地位になり、高い尊敬を受ける存在になるということですね。

井上 軍の最高責任者も、受章者には階級の上下なく敬礼をする。名誉の原理は、階級を超える、というのが面白いです。

 イギリスはもともとが階級社会なので勲章の仕組みがややこしいですけれども、アメリカの名誉勲章は、シンプルで、名誉の原理をうまく制度に落とし込んでいることがよくわかります。

坂元 日本では、明治時代に制定された金鵄きんし勲章が軍人に与えられる唯一の勲章で、武功のあった陸海軍の軍人と軍属に与えられましたが、太平洋戦争後に廃止されました。

功一級金鵄勲章正章。功一級から功七級までの等級がある。

 現在では、警察官、自衛官など著しく危険性の高い業務に精励した者に対する「危険業務従事者叙勲」がありますね。業務に精励したということは、与えられた仕事をしっかりしたということですから、米英の「義務を超えた勇敢さ」に与えられる名誉とはだいぶ違う気がしますね。 

井上 戦前では、おそらく金鵄勲章以上に、靖国神社が果たした役割が大きかったのではないかと思います。つまり、「名誉の戦死」という言い方がありましたが、戦死したら英霊として靖国に祀られる。平民でも二等兵でも、神様となって天皇陛下のご親拝を受ける。戦前の日本では、これ以上の名誉はないのです。特別の勲功を挙げた英霊は「軍神」とたたえられ、特攻隊員は死ぬ前から「生き神様」と崇められました。

 靖国神社は、たしかに名誉の原理の中核にありましたが、結果として、多くの若い命を粗末に扱うことにもつながりました。最高の名誉は乱発してはならない。価値を下げることになります。

 米英でも「義務を超えた勇敢さ」に最高の名誉を与えてはいますが、その審査は大変厳格で受章者も希少です。逆にいえば、義務や命令のなかで自分や部下の命を大事に使うことが、徹底されていたということです。

 ところで、いまの日本の勲章は、基本的に地位や経歴、業績に対して与えられるのですよね。そもそも、個別具体的な行為に対して与えるということは、少ないのではないでしょうか。

坂元 紅綬褒章「自己の危難を顧みず人命の救助に尽力した方」というのが近いでしょうか。令和5年秋の褒章では消防関係で3名、踏切に取り残された高齢者を救助した大学生、会社員。消防関係の方たちの内容がわかりませんけれども、「職務の中で」という条件はありませんね。 

紅綬褒章の正章(右)と略綬(左)

井上 名誉の原理は、軍人の士気や矜持を保ち、軍隊を成り立たせる必要条件です。一般に、勲章を受章した軍人は、略綬りゃくじゅというリボンやバッジを制服に着用します。将官レベルになると、色とりどりの略綬をたくさん胸に着けていますね。

 ところが、日本の自衛官は、現役のあいだに叙勲されることはありません。それで勲章の代わりに着けるのが、経歴や任務を記念する「防衛記念章」です。外国の軍人の略綬と見た目は同じですが、あくまでも自衛隊内での記念章という位置づけです。

第3種夏服に防衛記念章を着用した香田洋二海将 (上段二つは外国勲章等の略綬)

 なんでも外国の真似をすればいいわけではないでしょうが、名誉の原理が軍隊の本質に関わることを思えば、自衛隊での名誉の扱いは軽すぎないか、という気もします。敗戦後に、靖国神社を国家管理から宗教法人にしたことは、私はやむを得なかったと思いますが、軍人(自衛官)の名誉をどう守るのかは別に考えなければなりません。

 そして、名誉の原理が、本来、国家元首と不可分であるならば、現在、不当に分断されている天皇と自衛隊の関係を、根本的に見直す必要があると考えます。 

英雄に救われたのに深刻な負い目を抱えた帰還兵たち

坂元 この作品では、ピッツェンバーガーに命を救われた帰還兵=サバイバーに重点が置かれていて、特攻隊のサバイバーが主人公の《ゴジラ-1.0》と重なるところがあります。

井上 帰還兵たちは、ピッツェンバーガーの命と引き換えに自分たちが生き残ったことを深刻な負い目として抱えてきました。この連載でもたびたび取り上げてきた、生き残りの負い目(Survivor's guilt)です。それに加えて、遺族である両親のうち、父親は病によって余命いくばくもない状況で一人息子の戦死に意義を見出したい。死後叙勲を求める運動は、そうした関係者の想いに突き動かされたものでした。

坂元 ベトナム帰還兵たちは、地獄のような戦場を生き延びて、やっとの思いで故郷に帰ってきます。けれども、ケガや病気の後遺症やPTSDに苦しみ、市民からは嫌われることも多かった。印象的なシーンが、ピッツェンバーガーに助けられたビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)が、帰還後に旧友と飲みに行ったバーに「犬と帰還兵はお断り」と貼り紙がしてあったという話をハフマンに語るところです。今でこそ退役軍人(復員軍人・Veteran)は称えるのが当たり前だと発信されていますが、ベトナム戦争当時の現実がわかります。

井上 ちなみに、アメリカには「退役軍人の日」(Veterans Day)という祝日があります。11月11日ですが、第一次世界大戦の休戦条約締結の日なので、当時の大戦参加国ではこの日を祝日にしているところが多いようですね。日本では「ポッキーの日」(ポッキー&プリッツの日)らしいですが(笑)。

坂元 「退役軍人の日」自体は、ベトナム戦争前からあったのですけどね……。イギリスだと「リメンブランス・デー」(Remembrance Day)あるいは「ポピーデー」として、イギリス連邦諸国で戦没者追悼行事が行われます。この日前後には、テレビ番組などで出演者が胸に赤いポピー(ひなげし)の造花を付けているのをよく見ます。退役軍人・戦没者福祉団体への寄付者がもらうバッジなので、日本の「共同募金」の赤い羽みたいな感じです。
参考:The Royal British Legion

「リメンブランス・デー」のポピー・アピールで募金を集める男性

 話を戻すと、タコダはそんな扱いを受けながら、あの場で死ななかった自分、あるいは生かしたピッツェンバーガーを恨む気持ちもあったと思うんですよね。あのとき死んでいれば、こんな苦労はしなかった、惨めな思いをしなかったと。「なんであいつは俺を助けたりしたんだ。しかも自分は死にやがって」という考えがよぎることもあったでしょう。

 そうしたサバイバーズ・ギルトを抱えながら、ピッツェンバーガーの両親には申し訳なくてどうしようもない。けれど、もし彼に名誉勲章が与えられたなら赦されるかもしれないという方向性が見えてくる、すごい迫力のシーンでした。

 井上さんが先ほどもおっしゃった「多くの若い命を粗末に扱った」日本の戦争と、アメリカのベトナム戦争が重なって見えます。どちらも帰還兵や復員兵が深刻な負い目や、社会や家庭で居心地の悪い思いを抱えながら、生きていかなければならなかった。

井上 それから、戦争が進行にするにしたがって、当初の「大義」から離れていくという点でも重なりますね。映画のなかで、だんだん明らかになっていくのは、予算調達のために敵の死者数を稼ぐ必要があった軍が採った「アビリーン作戦」の真相です。ひとつの部隊をおとりにして敵をおびき寄せてから集中して叩くという作戦ですが、部隊の当事者には知らされないまま実行され、その事実は国民にも知らされなかった。二重に隠蔽された作戦でした。

 日本が大本営発表としてフェイクともいえる戦果を国民に伝えたり、陸軍と海軍がそれぞれ戦果を盛って競い合ったりして、後戻りできなくなっていく状況とよく似ています。

坂元 そうしてどんどん泥沼化していったのですよね。戦争が終わると兵士たちは国に騙された被害者となり、ものすごく傷ついてしまいます。しかも、ほとんどが若者ですし。

井上 はい。信じていた国に裏切られたこともそうですし、自分たちの命が粗末に扱われたことにも傷つきます。何のために自分たちは命懸けで戦ったのか、何のために多くの仲間が死ななければならなかったのか、と。

 坂元さんがおっしゃったように、日本でも生き残りの復員兵が、戦後社会で居心地の悪い思いをしたと聞きます。《ゴジラ-1.0》では、敷島が向かいに住む澄子から「戦争に負けたのは、お前たちのせいだ」「お前たちのせいで家族も殺された」と怒鳴られていました。銃後で大変な苦労を強いられた国民からすれば、軍が解体された以上、他に怒りをぶつける先がなかったのでしょうが、お国のために命懸けで戦ってきた復員兵からすれば、理不尽そのものです。

 そうすると、戦後社会では、戦場での経験を誇らしげに語ったり、自分は一生懸命がんばったんだよと話したりすることは、できなくなります。職場でも家庭でも、誰にも言えない。生き残りの負い目をひとりで抱えながら暮らしていかなければならない。唯一、戦友会など当時の仲間同士でしか、その話題を共有することはできなくなっていくんです。

ペリリュー島で撃破された日本軍95式軽戦車、奥は一式陸上攻撃機の残骸

坂元 NHK朝の連続テレビ小説 《おちょやん》(2020-21)で、終戦から3年後に満州から帰ってきた登場人物が、南方から復員してきた人と挨拶を交わすシーンがありました。2人はひっそりと「よくぞご無事で」と握手を交わすのです。周りにいたのは、戦場経験のない人たちばかりですから、職業やいた場所がまったく違っていても、前線に身を置いた者たちだけがわかりあえる……そういう感覚になるんでしょうね。

井上 復員兵は家族に暴力を振るうこともあり、家族もそのことを誰にも話せない。戦死者の遺族も、戦時中は「ほまれの家」などと呼ばれ、建前だけでも名誉ある扱いだったものが、戦後は評価が一変して、やはり誰にも話せなくなります。復員兵もその家族も戦死者の遺族も、それぞれが孤独感や疎外感を抱えながら戦後を生きてこられたと思います。

 そうしたことも重ねて観ていただきたい作品ですね。日本にとっての太平洋戦争と同様に、アメリカにとってのベトナム戦争は大義から離れていく戦争だった。そのツケを払わされたのは、前線で身体を張った兵士たちであり、彼らを支えた銃後の国民です。

誰にもわからない「brave」の発生源

坂元 この作品ですごいなと思ったのは、死者(ピッツェンバーガー)に何も語らせていないことです。ただただ、周囲にいた者たちに見えた彼の行動が、それぞれの視点から語られるのみ。死者を題材とする物語においては、大切な着眼点ではないでしょうか。ストーリー的には帰還兵の問題にフォーカスしていて、つまり彼らがなぜ32年間もピッツェンバーガーに名誉勲章をという嘆願をし続けたのかという点に立脚していて、両親が息子のことを語るのも控えめで「死者に語らせない」ことがずっと守られていました。

 井上 とても大事な指摘だと思います。死者に語らせないのは、braveを発揮するに至った内面的なプロセスを問わない、ということでもある。ピッツェンバーガーの人となりは、両親の話から何となく想像されますが、それほど特別な思想信条の持主ではない、ごく普通の若者です。だから、「なぜ」彼がbraveを発揮できたかは、結局わからない。

 ハフマンの調査も、ピッツェンバーガーの動機や信条に踏み込むことは断念します。「ギリギリの状況下での、とっさの判断」以上の説明はできないから。逆にいえば、braveは、特別な思想信条の持主でなくても、誰もが発揮しうるものということなのかもしれません。

坂元 死後叙勲に値するかどうかは、目撃され、語られることだけが根拠になるわけです。

 しかも、実際にピッツェンバーガーは空軍の兵士で、助けられたタコダたち陸軍の兵士はそのときが初対面ですし、所属しているパラレスキューの仲間たちは上空にいて彼に何が起こっているのか、実際には見ていません。人格や地位、経験などは関係なくて、まさに「その場での行為」しかない。

 あの日、初めて彼の顔を見た陸軍の兵士たちが目撃した偶然の出来事なんですよね。当初は任務遂行中で、婚約者に「命令が来たから救出に行くんだけどなんか嫌な予感がする」という手紙を書いていますけれど、任務に没頭するうちに、だんだんそこからはみ出して、braveを発揮した。

井上 おそらくヘリに乗っている間は、braveなど頭になかった。ところが現着して、まっ先に救助したのが衛生兵だったのですよね。陸軍の兵士たちは周りを敵に取り囲まれ、窮地に陥って死傷者が多数出ているのに、衛生兵が不在になる。この状況を見て、何かスイッチが入ったのでしょう。

 空軍の同僚から撤収するぞとヘリから呼びかけられても自分はここに残る、ヘリも撃墜されるから、もう行けと身振りで伝えたとき、完全に任務を超えた使命感に突き動かされていた。陸軍と空軍はほとんど接点がなくて、強い連帯があるわけでもないから、本当はそのままヘリに戻って現場を離れても問題はないし、責任を問われることもないはずなんです。

1970年6月、PJをジャングルに降ろす米空軍のヘリコプター

坂元 パラレスキューの仲間は「あいつがそんなことするとは思わなかった」という感じで描かれていますし、ましてや両親や婚約者は入隊してから断絶されてしまっていますから、彼がどうして命を懸けて任務を超えた行動に出たのか、わからない。たまに来る手紙や電話では「元気にやっています」となるでしょうから。ベトナムで何が起こっているのか、息子がそこで何をしているのかを具体的に知らないまま、なぜそんな死に方をしたのかと思ったでしょう。

 息子の最期を知る帰還兵たちは名誉勲章の嘆願を手伝ってくれたり、命の恩人だと言ったりしてくれるけれど、何が起こったのかはよくわからないままです。父親は医師から告げられた余命をはるかに超えて、何があったのかを知ってやりたかったのだと思います。

「未来」「死」「父」「自発的な行動」が惑星直列する演説

坂元 ハフマンは、サバイバーたちを訪ね歩いて、ピッツェンバーガーのbraveの内容を聞き取っていきます。戦死者の人物像を結ぶために生き延びた人たちを訪ね歩くのは、「回顧する体験者と今時の若者の両方が主体的に関わりあう」(『特攻文学論』、51頁)方式で、《永遠の0》と同じですね。

井上 確かにそうですね。創作特攻文学の中で、現代の若者を戦時中にタイムスリップさせる「時間移動モノ」よりは、現実らしさを感じさせる方式です。

 しかし、《永遠の0》と違って、ハフマンが解くべき「謎」は、ピッツェンバーガーのbraveではなく、それが名誉勲章の対象にならない点にありました。そして、《ラスト・フル・メジャー》を特攻文学の名作たらしめた秘密は、叙勲の請願が成就したことではなく、叙勲の式典での空軍長官の演説にあります。

 ピーターズ長官は、まず、名誉勲章を授与されたピッツェンバーガーの両親と、ここまで関わってきたハフマンや帰還兵たち、退役軍人と関係者に対し、当時の作戦行動の中で、彼がbraveを発揮して偉業を遂げたことを讃えました。これは、国家の枠組みの中での建前の演説です。

 その次に長官は「予定にはありませんが、もう少し話をさせてください」と、これから国家の枠組みを離れることを予告して、その場の人びとをいったん着席させます。わざわざこうした区切りを入れたのは、祖国の物語や命のタスキの想像力へとモードをチェンジするためでした。

ここにはアビリーン作戦の帰還兵、第16連隊所属C中隊の人もいる。
彼らは勇敢なピッツを実際に目撃して、32年もの間、彼が名誉勲章を受章できるよう、努力してきた。
私たちのために立ってその姿を見せて下さい。
ピッツの戦友で同じ救助班の方々も立って下さい。
ベトナムに行った救助隊の方すべても。
ほかの復員軍人の方もお立ち下さい。
奥様やご両親もお立ち下さい。
お子さんやお孫さんも立って下さい。
どなたでも結構です。
勲章を得たピッツの行動に、多少とも心を動かされた方も、どうぞお立ち下さい。
ご覧下さい。
これがたった1人の人間が持っている力です。

《ラスト・フル・メジャー》より

坂元 確かにガラッと内容が変わり、鳥肌が立ちました! おかげで、前半の演説がどんなものだったか、ちょっと思い出せなくなります。

井上 この後半の演説では、ピッツェンバーガーに関わった人びとに次々と呼びかけながら立たせていき、最後はその場の全員が立っている状態にします。つまり、彼のbraveによってたくさんの命が救われ、戦場にいた人と、そこに連なる多くの人々に命のタスキが渡されたということを、誰の目にもわかるようにしたのです。

 私たちはみんなピッツェンバーガーから命のタスキを受け取った人たちとして、ここに集まっているのだ、と。この長官の演出によって、出席者にとっても想定外の感動が発生したわけです。

坂元 サイバーズ・ギルトに苛まれる帰還兵たちも、自分たちはピッツェンバーガーの命と引き換えに生き残っちゃった兵士ではなく、彼から命のタスキを受け取った中継者なんだと自覚できたわけですね。

 命のタスキを受け取ったのは、帰還兵だけではない。彼らを介して、その家族や多くの関係者にも渡されたのだと。そのなかには、もちろんハフマンも含まれている。すなわち、ピッツェンバーガーは――空軍長官の言葉を借りれば――その場にいたあらゆる退役軍人、その伴侶や子ども、孫、関わった人たちなど、いろんな人とその未来を守った。

井上 「あなたもしっかりタスキを受け取りましたね」と、叙勲の式典に集まったすべての人びとを讃えているんですよ。ピッツェンバーガーの命を無駄にせずに受け取り、周りの人にも渡しているのですよと。あの映画を観た私や坂元さんも、ピッツェンバーガーから受け取っちゃったんじゃないでしょうか。全米とともに、私も泣きそうになりました。

 おそらく国家の枠組みの中では、帰還兵たちはこの叙勲の請願が成就してよかったとは思うけれど、生き残りの負い目は残ったままです。それが、国家の枠組みを離れた後半の演説で、自分の今までの人生やこれからの人生が包摂されたことで、救いがもたらされたのではないでしょうか。 


《ラスト・フル・メジャー》を知って、いよいよ深まる「特攻文学映画」談義。次回はその後編をお送りします。比較として、メル・ギブソン監督の《ハクソー・リッジ》も取り上げます。


◎著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

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