特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第13回|井上義和・坂元希美
(構成:坂元希美)
⑬まだまだある特攻文学映画 《ラスト・フル・メジャー》と《ハクソー・リッジ》
ピッツとドスの違いはなんだ
公の死者と命のタスキ中継者
坂元 ジミー・バー(ピーター・フォンダ)という頭に銃弾を受けた帰還兵は、深いPTSDから小さな一歩を踏み出して、ピッツェンバーガーの名誉勲章授章式に当時の軍服を着て出席することができました。さらにピーターズ空軍長官の演説によって命のタスキの中継者と認められたことで、これから生きていく自信に繋がった。だから、そのタスキを届けに来てくれたハフマンに心を込めて「Thank you, sir」って言ったんですね。
これまで取り上げてきた《ゴジラ-1.0》での海神作戦前の堀田の演説や、《インデペンデンス・デイ》の大統領など、同じようにみんなの心をひとつにするものでしたが、いずれも気分を高揚させるというか、団結してこれから戦うぞ! というものでした。
《ラスト・フル・メジャー》のピーターズ長官の言葉は、戦争で傷ついた人たちを癒やし、赦すような受容の言葉とも受け取れます。戦争を賛美するのではなく、また当時の作戦について多くのことが隠蔽されていたことなどを責めたり謝罪したりするのでもない。これこそ「包摂の言葉」と言っていいのではと思います。
井上 政治指導者としては大変巧みな演説です。ベトナム戦争の是非やアビリーン作戦の評価などには全く触れない。かといって、帰還兵の心の傷を癒やすことだけを言ったわけでもない。国のために戦い、braveを発揮して命を落とした兵士に対する最大限のリスペクトを伝えるものでした。
前半では「公の死者」としてピッツェンバーガーを讃え、後半では彼から命のタスキを受け取ったすべての人を讃え、みんなで繋いでいきましょうと、未来に向けたポジティブなメッセージを打ち出しました。「命のタスキの中継者」たちを浮かび上がらせた、非常にすばらしい演説だと思います。
軍人でなくてもbraveは発揮できるはず
坂元 映画の中盤で、ハフマンの幼い息子が「パパは僕に兵隊さんになってほしい?」と、無邪気に聞くシーンがありますね。そのときは何も答えられなかったけれども、もし、次に聞かれたら具体的なことは言えなくても、答えられなさの中身が違って来るだろうなという感じがしました。
「そうだ、お前も立派な軍人になりなさい」と言うのではなくて、命のタスキの中継者であることを気づかせるとか。
井上 彼は国防総省の官僚として軍隊や軍人のために働いてきたけれども、自分と息子の関係では、軍人になれとは答えられなかった。おそらく、この先に問われることがあったとしたら、「命のタスキの中継者になることは、どこにいてもできる。軍隊でbraveを発揮することもできるけれども、他の場所でもできることだよ」と答えるんじゃないかな。
坂元 そうか、ピッツェンバーガーが命を落としたアビリーン作戦について内部告発したのは、ハフマンがbraveを発揮したんだ!!
井上 ああ! 確かにそうですね。
坂元 彼はもともと出世第一を自認する野心家で、重要なポストに就くための面接までこぎつけたのにそれを断り、職業人生を棒に振る覚悟で内部告発会見をしました。
これはハフマンにとっての「未来のために、命を懸けた自発的な行為」ですね。かえって政治的な策略を巡らせるような経験を積むこともできましたし、そういうbraveも存在するんだよと息子たちに教えることもできます。
井上 まさしくおっしゃる通り、彼はbraveを発揮して、自分の出世のためではなく、もっと大事な使命のために一歩を踏み出したんですよね。これが、息子に対しての答えになっている。別に軍人にならなくてもいい。ここぞというときにbraveが発揮できるか、本当に大事なものは何かを見定めて、そのために勇気を出して行動できる人が偉いんだぞ、みたいなね。
坂元 あと、自分が命のタスキの中継者であること、誰かから受け取り、誰かに渡すっていう存在だということを忘れるなということも。
井上 それを想像できないから、自分の出世や利益だけを考える大人になってしまうんですね。すでにタスキを受け取っていることを自覚すれば、自分の命や人生は、自分だけで完結しない。そういうメッセージを32年の時間をかけて、ピッツェンバーガーが教えてくれたわけです。
戦争に行った父と息子の関係不全
井上 作品の中では父と息子が断絶したり、関係がうまくいかなかったりということが繰り返し描写されています。この映画のもうひとつのテーマは「父と息子の関係の不全」でしょう。
ハフマンは幼い頃に父親が自分と母親を捨てて去ってしまったことから、幼い息子との関係がぎこちない。うまくいっていないわけではないけれど、ちょっと自信がない。自分は父親としてちゃんと向き合えているのかなというような不安も抱えている印象でした。それが最後の長官の演説で血の繋がった親子はうまくいかなくても、勇敢な父祖から子孫へという太い繋がりがあると示され、世代を超えて「父と息子と孫」が惑星直列のように(笑)繋がったと感じました。
アメリカ映画では父と息子がうまくいかない関係がよく出てきます。けれども、実の家族の中ではうまくいかなくても、適切に補助線を引くことができれば、全てが一直線に繋がりうる、というのは希望でもあります。
坂元 第二次世界大戦あたりまで戦争に行く兵士は、ほとんどが男の人ですよね。戦争で心身が傷ついたまま帰ってきてから、生物的な父になる人も多い。そうすると、彼らの戦場体験を分かち合えない銃後の人たちや若い世代と噛み合わないから、父と息子の関係もうまくいかない。戦争帰りの父とその暴力から母を守ろうとする息子が深刻な対立関係になることもある。
戦死で父を奪われた家族も地獄ですが、帰還した父が暴れる家族も地獄です。もしかしたら、ハフマンの父親も帰還兵だったかもしれませんね。
そうした「父の不在」に対する子どもの負い目や、生涯つきまとう不安が描かれていたと思います。特に自分が父親になるとき、父というものを知らないのに一体どうしたらいいんだとなるでしょう。父たちの罪や傷つき、暴力がどこから来たのか――家族関係の不全が戦争と直結していることを、彼はピッツェンバーガーの証言を集めるうちに知ることになりました。
作品中でハフマンは「あなたも息子がいるんだったら、わかるでしょう」と言われますが、あのときの複雑さったらないと思います。それが演説を聞いて命のタスキで串刺しにされたとき、自分の父親のことを考え、彼自身も父になる自覚が芽生えたのかなと思います。
もうみんなが私のお父さんであり、息子のおじいちゃんであると。演説の後にハフマンがタリー曹長と抱き合ったとき、たぶんお父さんに抱きしめられて「よくやったな、息子よ」と、褒めてもらっている感覚に浸っているように見えました。
そういえば、ピッツェンバーガー自身は、生物的には未来に誰も残していないんですよね。婚約者は去り、遺族は両親しかいない。
井上 兄弟姉妹もいなくて、血の繋がった子孫はいないけれども、彼にはこんなにたくさんの「祖国の子孫」がいるんだ、自分たちは、ピッツェンバーガーから命のタスキを受け取って、今ここにいるんだと、あの会場に集まった人たちはそういう感覚を覚えたと思います。これはまさに特攻文学の核心ですね。
「特異な人」が大活躍をする《ハクソー・リッジ》
坂元 トッド・ロビンソン監督が《ラスト・フル・メジャー》の映画の構想を始めたのは1999年、《インデペンデンス・デイ》や《アルマゲドン》が公開された頃で、民主党のクリントン政権から共和党のブッシュ(息子)政権に変わる頃でした。
井上 90年代のアメリカは、冷戦終結後の世界に対して新しい役割を引き受けていくことを模索していたと思いますから、ベトナム戦争という「先の戦争」によって傷ついた祖国を立て直す、建国神話の再演の機運が盛り上がったのではないでしょうか。
多国籍軍を率いてイラクと戦った湾岸戦争(1991年)もありましたが、遠く離れた中東の戦争では、祖国の立て直しはできなかったのでしょう。皮肉なことに、彼らの祖国の想像力のスイッチを入れたのは、アメリカ本土の中枢が攻撃された同時多発テロ事件(2001年)でした。
坂元 90年代アメリカのエンターテインメント業界の人たちは、そうした祖国再建の物語が消費者にウケる、あるいは必要とされているということを敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれません。結果的に《ラスト・フル・メジャー》の評判はあまり芳しくありませんでしたが、2000年頃に公開されていたら違ったかもしれないですね。
井上 《ラスト・フル・メジャー》との比較のために、《ハクソー・リッジ》という映画を取り上げてみます。デズモンド・T・ドスという沖縄戦においてアメリカ陸軍の衛生兵として75人の負傷兵を救って名誉勲章を受章した実在の人物を題材にした作品です(2016年、監督はメル・ギブソン)。
こう書くとピッツェンバーガーとよく似た話と思われるでしょうが、ドスという人は信仰上の理由による良心的兵役拒否者であり、「敵は殺さない、武器にも触れない」ことを貫いた特異なキャラクターです。任務中にケガや病気を得たものの、生きて祖国に帰ることができました。
神との約束はbrave?
坂元 こちらも観ました。なんというか、確かに名誉勲章に値する、「戦闘において任務の枠を超え、生命を賭しての際だった気高さと勇敢さ」が発揮されたのだろうと思うのですけれど、どうも私たちが議論してきたbraveとは違うような気がするのですよね。
ピッツェンバーガーがごく普通の若者として描かれていたのに対して、ドスは強い信仰心によって行動しているので、神が彼にそうさせて起こした「奇跡の物語」という感じで。
井上 私もそこは同じ感想で、やはりbraveは感じませんでした。彼が武器を触れないのは神との約束です。周りからは「あなたのプライドの問題だ」「個人的なこだわりじゃないか」と言われるけれども、それは彼自身を成り立たせているとても大事な信念なんですよね。
その信念によって、戦場で「神よ、私にもうひとり助けさせてください」と呟きながら、命の危険を顧みずに負傷兵の救出に向かう。神との約束にもとづく使命を忠実に遂行するというのは、やはり「義務や命令を超えた自発的行為」という意味でのbraveとは違う。
つまりこれは、特異な信念を持った若者が常人には不可能な偉業を成し遂げた物語なのです。
軍隊の中で一番馬鹿にされ差別されて、早く軍隊を辞めろ、お前と一緒に戦いたくないとみんなから言われていた主人公が、最後には「あいつのお祈りが終わるのを待ってから、出撃するぞ」と、その信念を含めて尊重される。それまでの屈辱的な関係性をひっくり返していくプロセスは確かに痛快で、爽快感はあるのですけれども。
坂元 キリスト教的な文化が根強く、その信仰が政治さえも動かすアメリカでは、これこそが正統派で心を揺さぶる戦争映画だろうなあと思いますけれど、これが「私たちが大切にしている価値観に深く静かに突き刺さるときに生れる」(『特攻文学論』、29頁)感動をもたらすかといわれると、少なくとも私はそこまでではなかった。もっとも、私にキリスト教文化の素地がなく、敵の日本兵の描かれ方に胸がざわつくからかもしれませんが。
井上 あの撃っても撃っても湧いて出てくる日本兵の描かれ方は、ほとんどゾンビですよね。まあ、それは《ラスト・フル・メジャー》のようなベトナム戦争映画におけるベトコンの描き方も同じで、西洋人にしてみれば得体の知れない恐怖の対象なのでしょう。
それはともかく、ドスの宗教的信念は、いわゆる軍人的勇ましさをはるかに上回っているのです。戦場でわらわら出てくる日本兵にめちゃくちゃビビっている戦友たちを尻目に、黙々と神の使命を果たしていく姿は圧巻です。言い方が悪いですが、いわば宗教というドーピングによる「brave」に見えてしまう。
坂元 敬虔なカトリック教徒であるメル・ギブソン監督の思想信条が強く反映されていることもあるでしょうね。あと、ドスは生還したので自らの経験を語り、開示することができたところが、ピッツェンバーガーと大きく違います。
井上 ただ、感動シーンもあります。物語の中盤、訓練中、意地でも武器を触らないドスが軍法会議にかけられます。そこに、ドスの父親が将軍の手紙を持って乗り込んできます。「良心的兵役拒否者の権利は憲法に守られている」と一筆書いてもらってきたのでした。この父親は、第一次世界大戦の帰還兵で、アル中DVで、戦争も軍隊も大嫌いでドスの入営を認めなかったのに、わざわざ自分が従軍した当時の旧式の軍服を着て、息子を軍隊から追い出さないでくれという。泣きそうになりました。正直なところ、あれで終わってもよかった(笑)。
坂元 ここでも機能不全家族が根っこにありますね。ドスの父親は戦争での体験を家族に語らず、何があったのかは誰も知りませんが、妻は酷いことがあったのだろうと理解していました。理解はできても助けることはできず、激しい暴力を受け続けていましたが……。
そんな彼が訓練中に窮地に陥った息子を助けようと覚悟を決めたところで、DVおやじが「父」になり、初めて息子の未来にコミットしました。「勇敢な父祖」の物語はないけれど、「父と息子関係の不全」というテーマはやはり避けられないし、その解消エピソードは観る人を感動させてしまいます。そこは「私たちが大切にしている価値観に深く静かに突き刺ささる」部分なのでしょう。
祖国を守りたい若者たち
井上 アメリカにとって太平洋戦争は非常に大義のある戦いで、日本に真珠湾を奇襲攻撃され、自由な祖国を守るためには日本と戦い、勝利しなくてはならない。だから、良心的兵役拒否者のドスも志願したのです。それは、やっぱり祖国のためなんですよ。
坂元 志願した理由は、ピッツェンバーガーも同じようでしたね。自分が住んでいる町でも友だちやその兄弟など、戦死した若者がいる。だから、この国を守るために自分も行かなければという焦燥感がないまぜになった使命感に駆られていく。
井上 太平洋戦争で学徒出陣した日本の大学生たちも同じことを言っているんですよね。同年の若者がどんどん前線に送り込まれる中で、自分たちがのうのうと学問にうつつを抜かしているのは、本当にいたたまれないし、申し訳ないと。だから大学生の徴兵猶予が廃止されて、学問の道半ばで軍隊に入るのは嫌だという気持ちと同時に、やっと自分も祖国の役に立てるとホッとした気持ちもあったようです。
坂元 おそらく、国や地域、時代を超えて、若者に共通する感情、動機だといえるでしょうね。
物語を「特攻文学」たらしめるもの
坂元 おさらいを兼ねて、改めてお尋ねしますが、《ラスト・フル・メジャー》が特攻文学映画として最も優れている点は何でしょう。
井上 この作品は最後の空軍長官の演説によって、特攻文学として完成したと思います。
非常にbraveな行為によって多くの仲間を助けて自分は戦死したこと、そして彼のおかげで助かった仲間たちの請願運動によって名誉勲章が与えられたこと。それだけでももちろん感動的ですが、まだ戦死者と帰還兵という直接の当事者同士の物語に留まっています。
特攻文学論的には、命のやり取りが未来へポジティブな力を与える描き方をしているかどうかがポイントになります。その部分を、あの演説は「魂の言葉」「包摂の言葉」によって見事に表しました。
つまるところ、物語を特攻文学たらしめるのは、言葉の力と言ってもいいのかもしれません。個別のものを意味づけ、関連づける文脈の力ですね。braveな行為をただ忠実に再現しただけでは、あそこまで感動しないと思います。
坂元 Netflixで《名誉勲章: 米軍の英雄たち》という再現ドラマ+ドキュメンタリーの番組も観たのですけれど、確かにすごいなあと思っても感動には至りませんでしたねえ。
井上 名誉回復運動のくだりだけでも足りなくて、戦場でのbraveと、家族や仲間たちによる名誉回復運動、不全だった父と息子の関係をもすべて包摂するラストシーンの演説が「惑星直列」を完成させたのだと思います。そこで、文化も宗教も違う日本人のわれわれの涙も誘う深い感動をもたらしたのだと思います。
次回から2回は「番外編」をお届けします。名誉の仕組みにも繋がる「国葬」について、過去に井上にインタビューした記事です。どうぞお楽しみに!
◎著者プロフィール
井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。
坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。