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いやな壺に入ると超気持ちいい。

本を読んで、ホラを吹く。 第一回は壺のお話。

「つぼつぼ」 

 いやな壺に入ると超気持ちいい。
 そのことを、バクちゃんの壺で知った。
「なに、きみ、壺もってないの」
 衣のはげた串カツをタレにくぐらせながら、バクちゃんはおどろいた顔をする。壺を持ってないわたしよりも食べかけの串カツをタレに二度漬けするバクちゃんのほうがどうかしている、と内心おもったけれど、いまさらなにをいってもどうにもならないひとだし、
 花瓶なら玄関にかざってあるよ、
 とだけ応える。
「花瓶は壺じゃなくて、あれ、壺なのかな? ていうかそういうんじゃなくて」どうもバクちゃんは全体的に生き急いでいるっぽくて、口のなかをもごもごさせつつ泰然と会話をつづける。「いやな壺とか、おちつく壺とか、おかあさんの壺とか、そういう壺」
 壺にいやとかおかあさんとか、ある?
「うぶぶぶぶぶぶ」と、バクちゃんは咀嚼で濁った笑いを発し、珍奇なものでも発見したかのように、衣がわずかにこびりついてる串でカウンターの隣席に座るわたしを指す。
 豚肉の赤と玉ねぎの白とタレの黒とが成す柔らかい混沌が、バクちゃんの歯のすきまからこぼれる。
 向こうに立つ店員がテーブルのクロスに染みだす肉汁を見咎め、ものすごい表情でわたしたちを睨む。わたしは、すいません、と小声で謝罪した。店員に届いたかはわからない。

 バクちゃんの家の離れは四畳ほどのプレハブだった。入ると、棚から床まで所狭しと壺がならんでいる。確実に百は超えているだろう。おおきいものやちいさいもの、高級そうなもの、貧相なもの、きなこもちみたいな色のもの、銀白色に輝いているもの、動物のかたちをしたもの、たくさんの動物が集合したかたちをしたもの、どちらかといえば水差しに近いものなど、バリエーション豊かというより雑多な印象を受ける。
 妙な収集癖があるのだね、とバクちゃんに率直な感想を伝えると、
「集めたくて集めたわけじゃないが」
 とどこか不満げにかえされる。
 レジ袋やクッキー缶ではないのだし、意識しないあいだに増えていた、なんてはずもないだろう。誰か陶器作りが趣味のひとでも家族にいるのかな。
「作ったんでも買ったんでもない。生じるんだな」
 バクちゃんの説明によれば、この世のなかには焼成によらない壺が存在する。ひとのこころから生まれる壺だ。その壺は持ち主の感情だとか、感覚だとか、トラウマだとか、イメージだとか、いろいろサイコロジカルな要素を内包している。壺に入ると、そうした諸々のフィーリングを味わえるのだそうだ。
 ええ、すごいな。最近のあたまおかしいひとはそんな超能力みたいな。
「おかしくはない。最近でもない。たとえば、『後漢書』には壺中に天国を見いだす男の故事が記されているし、江戸時代にも壺に頭を突っこんで遠方の実家にいる親の末期を幻視したり、壺に身体をつかって気持ちよくなりそこから出られなくなるひとの話もある。昔から存在はした。まったく健全で、健康的なんだよ」
 わたしは今まで見たことも聞いたこともない。
「考えてもみなさい。きみの家に置いてある壺、まあ花瓶でもいいんだけど、手に入れたときの記憶がはっきりしているものはいくつある? ほとんどはいつのまにか、そこにあったような気がしないかな」
 つらつらおもいかえすに、家の玄関の花瓶は数年前の蚤の市で購入したものだ。その花瓶を売っていたのはバクちゃんだった。知り合ったきっかけだ。とにかく硬くて丈夫な壺を、と注文したら、そのとおりのものを見繕ってくれた。あれも無から生じた代物だったのだろうか。
 バクちゃんは小屋に収められた壺の由来をひとつずつ解説していく。バクちゃんのだけでなく、バクちゃんの家族の壺もいくつかあるようだった。
「やっぱり入るなら自分の壺なんだけど、たまに他人の壺に入ると新鮮」
 え、入るの、他人の壺。
「逆に入らんでどうするの」
 なにかものを入れるとか、活けるとか……花を?
「それじゃあ花瓶だ。壺を知らないなんてもったいない。ひとつ持ってき。これなんかどう。これがいい。これにすべき」
 そうして情熱をもって押しつけられたのが、いやな壺だった。

 その壺は、ひどい出来だった。ふっくらとした胴回りで、そこそこおおきめで、居間に置くと絶妙な邪魔くささを発揮する。かといって、バクちゃんのオススメに従って入壺するには容積不足の感があり、片足をつっこめても両足はトゥーマッチなように見える。
 バクちゃんのいうには、壺に入るか入らないかは信心の問題らしい。入るとおもって入れば入る。入らないのは気持ちが足りないのだ、と。わたしにしてみれば、信じて入ってもいやな壺だ。いやな壺のなにがいやなのかは見当もつかないけれど、いやな壺だといわれて渡された時点でじゅうぶんに嫌気がさしている。
 さっさとバクちゃんにかえそう、かえそう、と決意をもてあそんでいるうちに一週間が経過し、なんとなくいやな壺のある日常が馴染んでくる。見た目はただの不格好な壺なのだし、くずかご代わりにも使えそうだったが、いやな壺を下手に刺激して家じゅうにいやさを撒き散らされても困るのだった。
 バクちゃんは会うたびに「入った? どうだった?」としつこく訊ねてくる。
 いやだったよ、と応えた。
 いやな気分になった、草津っぽいにおいがした、バッタの味がした、エンピツみたいな味がするときのウニみたいな味がした、グリッチの効いたノイズ音、寂れて空間の広くなったデパートに入ったような、足の裏がむずむずした、とそのときそのときのおもいつきを吹かしていたら当然バレて、「ちゃんと入れ」と怒られた。
 お叱りのあとも、しばらく放っておいた。すると、バクちゃんはなんの前置きもなく住所を訊いてきて、正直に教えると、翌日に家までおしかけてきた。
 うちはなんもないからおかまいもようできんよ、とやんわり追いかえそうとするも、
「おかまいされるために来たんではなく、かまうために来た」
 とバクちゃんは傲岸にまかりとおり、居間を一見するなり、
「ほんとなんもねえのな」と貶した。
 謙遜した手前、いいかえすのも気がひけるけれど、なんもねえのなはないでしょう。玄関に花瓶はあったし。
 それでもバクちゃんは不遜な面で、
「いや、さすがにこれだけなんもない家は初めてで。虚無を具現化しろといわれたって、これだけのなんもなさはなかなかできんよ。ミニマリズムだ。イコライザーだ。あ、冷蔵庫はあるんだ。何冷やすの?」
 ネコ以外のものとか。
「ネコ以外? ってか、うわっ、壺、この家だと邪魔だなー」
 そうなんだよ、邪魔なんだよ、とわたしはうなずき、だからさっさと持ってかえってくれ、と頼む。バクちゃんは一回入ってくれたら引き取るという。なんでそこまでしてわたしを壺に入れたいのか、わからない。そういう性的嗜好かなにかなのか。
「性的かどうかはわからないが、嗜好ではあるかもしれない」とバクちゃんはしかつめらしく自己分析する。
 わかった、とわたしは折れた。一回だけ、一回だけだからね、とバクちゃんと固く約定を交わして壺に左足をそろりと入れる。
 膝くらいまで隠れた。タテはいいとして、ヨコは両足を収められるほどの幅がないようにおもえる。わたしはバクちゃんの顔を伺った。凪のようだ。どうせ疑問を投げたところで、「自分を信じろ」とか「親友がついているんだ」とか少年ジャンプめいた応援しかかえってこないだろう。
 あきらめて左足も持ちあげ、壺の口に突っこむ。
 入った。
 おお、と純粋な驚きを呈していると、バクちゃんが「ちゃんと腰までつかりなさい。できれば肩まで」とうるさい。いわれるがままに腰を落とす。
 入りきった。
 はじめ、生ぬるい感触が全身をつつんだ。手足の先端がほのかに熱を帯びる。そのあたたかさが腕から肩、胸、腹に広がりながら次第に粒状に分化していき、モップ糸になでられる感覚へ変わる。モップ糸めいたなにかは統一的な方向に蠕動していたが、やがて一毛一毛が意志をもったかのようにばらばらに蠢きだした。これはもうモップというよりイモムシ? という連想がよぎった途端、にぶい不快感が肌を浅く刺した。すでに各部位で温度も異なっていて、腰のあたりの泥につかったような生あたたかさに反して、首筋あたりがやけに冷たい。うわっ、きもっ、やだっ、とおもわず声をあげてしまう。つかりはじめて一分ほど経つと、みぞおちがむやみにしくしくしだして、右の肩のあたりもふるえて、これは、たしかに、なんか、いや。いやだ。いやいやいやうわーっこれちょっとねえ出たほうがよい、よくない? いやいやあーっ……もう、あーっあーっ……うひえ。やーだーもう、やーだー。
「いやな壺だろう」とバクちゃんは腕をくんで満足そうにうなずく。「出たかったら、いって。ひっぱってあげる」
 やだやだいやいや出っ、出たっ、ん、出る? いや? 出なくてはいいかな? なんかいいかも。いやじゃなくなってきたかも。むしろ? 気持ちいい? すごいいい。
「えっ。うそ」
 バクちゃんは了承も得ずにわたしを壺からひっぱりあげた。そして、入れ替わりに両のつま先をそろえて壺にダイブする。それから十秒もたたないうちに顔が紅潮し、「ぎょええ」と昭和レトロな叫びをあげて、壺から飛びでた。
 出てきたバクちゃんは、わたしを問いつめる。
「やっぱり、いやすぎる。え、これ、きみはいやじゃなかったの」
 わたしは、ふつうに気持ちよかったですが、と応える。
「は。ふつう。気持ちいいってなに。これはいやな壺なの。ねえ。わかる? いやな壺。いやな壺で気持ちよくなっちゃいけないの。いやな壺だから」
 そんなこといわれてもなわたしである。誰がいったんですか。「は?」いやな壺に入って気持ちよくなっちゃいけないって、誰が決めたんですか。「誰が決めたとか」法律? 法律で決まってますか? 民法ですか? 刑法ですか? それとも憲法で禁じられてますか? 「法律とかじゃ……ないけど」じゃあそんなのおまえルールじゃん。いやな壺入って気持ちよくなるのは、権利でしょう。
 毒気を抜かれたバクちゃんは「そっか……そうかな……ごめん」とつぶやきながら、わたしの家を辞した。

 それからわたしは毎日いやな壺につかった。朝起きてひとつかり、昼に仕事から帰ってきてひとつかり、夜にも牛乳を飲んだ後にひとつかり。
 いやな壺に入っていると、日常生活で遭遇したいいこともわるいこともふつうなこともすべてどうでもよくなる。その破滅感が快い。
 全身をわしゃわしゃもぞもぞもモップがけされる感覚も慣れればマッサージっぽい。好みでいえばもうちょっとモップ糸が太いほうが好みだけれど、わたしもおとなだし、なんでも注文通りとはいかないのはわかっている。それでもガソリンスタンドでの洗車風景に通りがかるたび、車がうらやましくなる。
「どこ見てるの」
 とバクちゃんがいう。
 外、とわたしは応えて、カフェの窓の向こうで回転モップに洗われるマツダのフレアワゴンを眺める。ワゴンともなれば表面積も増えてよりもじゃもじゃ感をあじわえるのだろうな、と夢想する。
「きみのシロノワール、溶けてる」
 とバクちゃんはいう。
 そうかな、とわたしは応えて、洗車機にすいこまれていくフレアワゴンを見入る。ああ、でもあれか、やっぱ洗車機のモップだとな。一方向。ベクトルの問題がな。やはり、いやな壺はランダムなもじゃもじゃに魅力があるのであって。
「壺のなかに楽園がある、という考えは古代からあった。たとえば、中国。蓬莱や方丈といった幻の仙境は壺のかたちを象っているとされ、蓬壺や方壺などとも別称された。そこから一歩進んで、仙境は壺のなかに封じこめられている、と信じるひとびとも出はじめた。壺中天の伝説も、そうしたバリエーションのひとつと看做すことができる」
 それはすごい、とわたしは相づちをうち、フレアワゴンがぴかぴかになって去っていったあとで寂しくなっている洗車機を見つめつづける。自分もやろうと何度夢見たか。セルフタイプならお金さえ払えばどうにかなるだろうか。
 調べたかぎりでは人間が立ち入ると安全装置が作動するらしい。でも、生身で洗車機に突入する Youtuber の動画も観た。あれはどうやったのだろうか。相談するに然るべき筋があるのだろうか。いや、実現したところでな。いやな壺みたいな繊細な毛さばきはのぞめないか。
 やはり壺でないと、壺でないとな。
「仙境には何があるか。長生不老の妙薬だね。始皇帝は人民の保有している気持ちいい壺を徹底的に徴発し、そのなかから特に見込みのありそうな壺を選り分け、各国から召し集めた方士たちにそれぞれ数千人から数万の捜索隊を与えてぶちこんだ。悪名高き始皇帝の壺狩りだ。日本では、豊臣秀吉も似たようなことをやった。けっきょく、始皇帝も秀吉も蓬莱の壺には巡りあえなかったけれど」
 金でどうにかなることもあるし、ならないこともあるよねえ、とわたしは嘆く。
「そういうこと」とバクちゃんはコーヒーに乗ったクリームをスプーンですくって食べる。
 シロノワールのソフトクリームはどろどろに溶けていた。わたしは溶けた氷菓を好かないので、バクちゃんにゆずった。バクちゃんは口内を真白にあまったるくもちゃもちゃさせて、なにごとか喋っていたけれど、いやな壺で占められたわたしの頭にはまったく要領を得ない。
 レジでの支払いを終え、店を出るや、バクちゃんは「ねえ、あれ返して」とわたしの袖を引いた。
 あれって、と問いかえしながら、いやな壺なんだろうなあ、と予想する。
「いやな壺」
 バクちゃんがくれたんでしょう。
「あげてない。いったよ」
 いったっけか。
「いった」
 記憶にない。
「きみってそういうとこあるよね」
 そうかな。でもなあ、かえすってもなあ、どうせ物置にあった壺じゃない。いやな壺でしょ。いらないでしょう。
「いる」
 いらないよ。いやな壺だよ。そんなの欲しがるなんて、変。
「変なのはそっち!」とバクちゃんはキレた。「みんな壺あるよ。いやな壺持ってるよ。なんもないきみのが異常なんじゃん。なに、あの家。なに、あの部屋。こわいよ。だれもいなくて、なんもなくて。からっぽで。
 あげくにはいやな壺が気持ちいいだあ? っざけんなよ。自分の壺じゃないだろ。勝手にひとの壺で気持ちよくなってんじゃないよ。あれはそういうのじゃない、そういうのじゃないんだよ。だってさあ……もう……ごめん、あやまるから、あやまってほしいならあやまるから、だからごめん、かえして」
 バクちゃんはコーヒー屋の店先で土下座しだす。しかもぐじゅぐじゅに泣きはらしている。そこまでならわかるけれど、ついでに反吐までぶちまけて、ソフトクリームとパイ生地と胃液とチェリーとメロンソーダのどろどろがレンガで舗装された道を点々と描く。
 とおりすがりのひとびとから「うわあ」だの「土下座ゲロだ」だの、そのまんまな悲鳴があがる。
 わたしは、みっともないなあ、と土下座するバクちゃんを軽蔑していたが、野次馬が増えるにつれ、自分もそのみっともなさの一部である事実を悟る。

「あいかわらず、なんもないね。ごはんとかどうしてるの」
 牛乳飲んでりゃ二日くらい食べなくてもなんとかなる、とわたしは応える。あと玄関に花瓶があるでしょうが。
 いやな壺はいつもとかわらず不吉な雰囲気で白い居間に鎮座していた。
 いやな壺、とわたしはつぶやいて、バクちゃんとあらためて問うた。いやな壺なのに、なんで取りかえしたいの。いやな壺でしょう。
「いやな壺だけどさ」とバクちゃんはダウナーな調子で返事する。「なかったらなかったで、なんかいたたまれなさがね。だれにでもあるもんだしね」
 そういうもんかなあ、とおもいながら壺の口に手をかける。持ちあげてみると、以前となんだか違って見える。立派な壺だった。腰から肩にかけてふっくらと盛りあがり、褐色と黒色の入り混じって飴色に映える釉薬がなまめかしさを際立たせる。それだけなら愛想もないが、口のまわりにちょこんちょこんと隆起した四つの耳が、愛嬌を加えている。堂々たる風格。なんだか急に惜しくなってくる。
 せめて、あと十日、と延長を申し出て了承してくれるバクちゃんではない。どうする。素直にかえすのか。いやな壺の真価をわかっているのは自分だけだ。バクちゃんに返還したところで、また物置の肥やしにするだけだろう。
 バクちゃんにこの壺に入りたいかを訊ねてみる。
「いや……入りたくはなくない?」
 意味がわからない。入らない壺を、なぜ手元に留めておきたがるのか。入ってこその壺ではないのか。もったいない。こんなやつに壺を持つ資格はあるか。いや、ない。
 やっぱり、かえしたくない、と告げる。
 もちろん、バクちゃんは再度キレる。
「ここまで来てそれはない。かえせ」
 やだ。
「殺す」
 そこから先は陰惨な暴力の応酬だった。詳述は避けよう。結果だけ述べたい。
 いやな壺は床に落ちて割れた。
「あっ」とバクちゃん。
 あっ、とわたし。
「ああーっ……」とバクちゃん。
 ああーっ……とわたし。
 白い居間に長い沈黙が横たわる。
 割れ、とわたしは噛んでしまう。いいなおす。割れるんだねえ、いやな壺……。
「うん……割れる」
 丈夫そうで、永久不滅ってかんじしたんだけど。
「かんじだけじゃあなあ」
 ふたりして、粉々になった破片をとぼとぼ拾い集める。「どこに置いとけばいい?」そうだなあ、あとでどっかから古新聞もらって、包んで不燃ゴミ出すから、今はそのへんまとめて置いといて。
「わかった」とバクちゃんは、わたしの指さした台所のシンクの方へよんぼり歩く。
 あ、そうだ、冷蔵庫ならあぶなくないかも。やっぱ冷蔵庫入れといて、と指示を変える。冷蔵庫を開けたバクちゃんは「うわ」と棘のあるうめきを漏らし、破片の束を冷蔵庫に納めた。
 閉ざされた冷蔵庫を茫洋と眺めながら、バクちゃんはいう。
「冷蔵庫の電気、ついてるんだ」
 ああ、うん。
「昔、なんだったかな、ゲーム機のソフトがさ、動かなくなると、冷蔵庫に入れて三十分冷やすとまた動作復活するって民間療法があって」
 似たような話をネコで聞いた。
「ネコ?」とバクちゃんは問いかえす。
 冷やしネコ。外国だったかな。どこかは忘れたけど、電気冷蔵庫を初めて見たひとが、死んだネコも生きかえるとおもって冷蔵庫でずっと保存してたって話。
「似てなくない、それ」
 そうかなあ、とわたしは首をひねる。バクちゃんは世間の常識とすこしズレたところあるからな、とわたしはこれまでの付き合いを振りかえる。
 いくらバクちゃんがアレだとしても、わたしが他人の壺を割ってしまったことには変わりない。そこは素直に詫びたいし、埋め合わせしたい。
 そこで、玄関の花瓶を渡そうと決めた。もともとはバクちゃんから購入したものだったけれど、バクちゃん自身はそれをすっかり忘れていて、首尾よくプレゼントということで通った。
「こんないい花瓶を。うわー、ありがとう」
 わたしも昔、おなじようなセリフをいった気がする。
 バクちゃんはこちらが想定したより大盛りあがりで、ともすれば踊りだしそうな気配すらあったが、バクちゃんもいい年齢だったので、そこはさすがに踊らなかった。
 でも、喜びまくった。
「ありがとう、ありがとう。こんないい壺、じゃないや、花瓶。花瓶やばい。花専用の瓶。ややねじれぎみで、アートがある。かっこいい。ありがとう。うれしい。うれしいよ」
 そして、腕をふりあげ、「うれしいな」と繰りかえしながら、花瓶を床におもいきり叩きつけた。割れない。バクちゃんは床を転がっていく細長の花瓶をつかむと、もう一度ふりあげて、床に。
 また転がっていく。割れない。
 バクちゃんは意地になったように何度も花瓶を床にぶつける。わたしん家の床なので遠慮してもらいたかったが、バクちゃんの気迫に押されて何もいえなかった。
 十数回ほど反復したところでバクちゃんの息もあがり、破壊への挑戦は止まった。花瓶は割れなかった。欠けや傷ひとつ生じなかった。
「子どものころ」とバクちゃんは花瓶を拾う。「一回だけ、いやな壺に入ったことがあって」
 二度とは花瓶を振りあげようとせず、その重さにひかれて右手はだらりと垂れていた。瞳が夜の色によどんでいる。どこか遠くを見ているようだった。視線の先には、うちの出入扉しかない。
「そのときはほんと死ぬほどすごく心底ありえないくらい、いやな気持ちになって、こんないやな気持ちになれるんだから、この壺は、この壺だけは本物なんだとおもって。だから、きみにも、きっと」

 その後、わたしは別の知り合いたちを回って壺を持っているかどうか訊ねてまわった。隠し持つ、というと人聞きがわるいけれど、自分からいわないだけでみんな壺を所有していた。見つけるとお願いして、いやな壺や気持ちわるい壺に入らせてもらった。でも、どの壺もただひたすらいやな後味だけが残った。バクちゃんのいやな壺みたいに、ふしぎな心地になることはなかった。
 毎朝起きて目覚めるとき、毎晩家に帰宅するとき、自分にも壺が生じていますように祈ってドアを開ける。
 でも、出迎えてくれるのは、真っ白で空っぽないつもの居間だ。
 冷蔵庫で、いまもバクちゃんのいやな壺の破片が冷えている。

                             〈千葉集〉

   今回読んだ本はこちら☟ 

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 ※「つぼつぼ」は『壺イメージ療法』にインスパイアされたフィクションです。書籍の内容とは一切関係がございませんので、ご了承ください。


【本を読んで、ホラを吹く。】
創元社の本を読んで、作家・千葉集が法螺を吹くシリーズ企画。ジャンルとジャンルの境界線上を彷徨いながら、不定期にショートショートを連載中。
【千葉集 略歴】
作家。第10回創元SF短編賞(東京創元社主催)宮内悠介賞。文芸ニュースサイト「TREE」で連載書評「読書標識」を担当。また、はてなブログ『名馬であれば馬のうち』では映画・小説・漫画・ゲームなどについて執筆。