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山本粧子の Hola! ジャガイモ人間      ~ペルーからコンニチワ~┃ 第4回

ブエノスディアス! 山本粧子(やまもとしょうこ)です。

いよいよ、今週ペルーへ出発します。
2年は日本に戻らないのですが、思い残すことは今のところありません。出発前に、フランスに留学していた時にバイト先で出会った友人のレティシアに京都で会ってきました。
彼女とはかれこれ10年以上の付き合いになります。
彼女は6年前に来日し、日本社会でバリバリと働いています。私もこれから、レティシアと同じく、外国人として海外で働き、生活をするので、喝を入れてもらいました。

さて、今回は、フライドポテトについて書きます。
なぜなら、ペルーの国民食と言われる料理「LOMO SALTADO(ロモ・サルタード)」にフライドポテトがガッツリ入っているらしく、現地で実際に口にする前に、一度フライドポテトについて調べておきたいと思ったからです。

ロモ・サルタード

「ロモ・サルタード」は、牛肉と玉ねぎなどのお野菜を炒めて、フライドポテトと混ぜ、米を添えて食べるボリュームたっぷり、パワフル料理です。
フライドポテトは料理の添え物というイメージが強いですが、炒め物のなかに入れ、さらに主食(米)を添えるって、すごい発想ですよね。

ヨーロッパ生まれのフライドポテト

南米アンデスで生まれたジャガイモを使って、南米ではさまざまな調理方法が発明されていたわけですが、ジャガイモを油で揚げる調理法は、南米ではなくヨーロッパで発達しました。

発祥地は諸説ありますが、日本フライドポテト協会のウェブサイトによると、17世紀にベルギー南部のナミュールで、ジャガイモを細く切って揚げたことがフライドポテトの起源と言われているそうです。

ベルギーでは、フライドポテトを「フリッツ」と呼び、国民食のようになっています。
私自身も、ベルギーを訪れた際、バケツに入ったムール貝の白ワイン蒸しと山盛りのフリッツの組み合わせや、マヨネーズがどっさりかかったフリッツを何度も食べました。

ホワイトハウスに招かれたフランス人シェフのメモに、フライドポテトと思われるレシピが残っていることから、19世紀初頭にはアメリカにも伝わったと考えられます。
1856年、イギリス人のイライザ・ウォーレンが若い女性向けの料理本を出版した際、細長くカットしたジャガイモの揚げものを「フレンチフライドポテト」として紹介しました。この本は2年後にアメリカでも出版され、他の料理書にも引用されました。
こうしたことから、アメリカではフライドポテトが「フレンチフライ」の名で広まったのでしょう。

その一方で、イギリスではフライドポテトのことを「チップス」と呼びます。
「チップ」はもともと、果物や野菜を薄くスライスするかサイコロ状にカットし、乾燥させたもの全般を指したそうですが、ジャガイモのチップだけは油で揚げました。
同じ英語圏でもアメリカでは(そして日本でも)「チップス」といえば、いわゆる薄切りポテトのスナック「ポテトチップス」ですから、混乱してしまいますね。

でも、イギリスの国民食「フィッシュ・アンド・チップス」を思い浮かべれば、フライドポテト=チップスが実感してもらえると思います。
白身魚と細長いジャガイモのフライを盛りつけたこの料理は、東ヨーロッパから移入してきたジョセフ・マリンという人が、1860年台にロンドンで売り出したのが始まりだそうなので、この頃にはすでにイギリスでもジャガイモのフライが「チップス」の名で食べられていたことがわかります。

このように、19世紀から20世紀にかけて、ジャガイモのフライは瞬く間に全世界に広まり、国ごとに異なるさまざまな名前で呼ばれるようになりました。

戦時の食糧難を支えたジャガイモ

スタートはヨーロッパですが、日本でフライドポテトと言えばやはり、ハンバーガーのサイドメニューとしての存在が一番身近で、それゆえに「アメリカン!」な印象が強いのではないでしょうか?

アメリカでは、20世紀初頭には、フライドポテトがカフェなどで食べられていましたが、レストラン側からすると手間ひまがかかる料理だったそうです。
なぜなら、注文を受けて、ジャガイモの皮を剥いて切り、170度から180度の油で揚げて、できたて熱々を提供しなければならなかったから(そうでなければ、ジャガイモはすぐ黒ずむし、しなしなで美味しくなかったのです)。さらに、当時はフライヤーが今ほど発達しておらず、高温の油をたっぷり入れた鍋の近くでの作業は危険でした。

アメリカにおけるフライドポテトの歴史が大きく変わったのは、第二次世界大戦がきっかけでした。
戦時中、アメリカではお肉が配給制となり品薄になってしまい、食堂などでは、ハンバーガーの肉を小さくするか、何か代案を考えなければいけない状況になってしまいました。その危機を救ったのが、ジャガイモだったわけです。
ジャガイモは安価で手に入りやすかったため、フライドポテトが多くのレストランの定番メニューになったそうです。
戦後、アメリカ人にとってフライドポテトはなくてはならない存在となりました。

少し話がそれますが、冒頭に登場した私の友人レティシアのおばあちゃん(1920年、フランス北西部のノルマンディー生まれ)の話では、戦時中は、じゃがいもが一番手に入れやすい食材だったし、自分の庭であまり世話しなくても育ったため、主食として食べていたのだそうです。

日本でも、ジャガイモは厳しい環境でも育つことが重宝されて普及していきましたが(第2回参照)、欧米でも、食糧難を支える存在であったことが、ジャガイモが食卓に定着するきっかけになったのですね。

ハンバーガーの相棒として

では、フライドポテトとハンバーガーがセットになったのはなぜでしょうか。
そこには、ハンバーガーチェーンとして世界中誰もが知っているマクドナルドと関係がありました。

マクドナルドの創業者であるマクドナルド兄弟は、フライドポテトはハンバーガーより利益率が高いことに目をつけ、ハンバーガーとフライドポテトの相性の良さを宣伝しました。
さらに、マクドナルドは、冷凍ポテトの製造を始めたJ・R・シンプロットと提携し、生のジャガイモを風味と食感を損なわずに冷凍する方法を開発したり、揚げ油の比率(大豆油と牛脂の比率)を研究したり、さらには、調理時間と温度を自動制御するコンピュータを導入しました。

こうして冷凍ポテトを短い時間で揚げられるようになり、現在のように大量のお客さんにスピーディーにフライドポテトを提供できるスタイルが確立されていったそうです。

ハンバーガーとフライドポテトははじめから常に一緒だったわけではなく、さまざまな歴史の要因とビジネスの思惑の中で、現在の「セットメニュー」が作り上げられたのですね。

「ロモ・サルタード」のように料理の中で食材の一部として使われたり、ハンバーガーやステーキの横にガッツリ添えられていたり、いまや無くてはならない存在となったフライドポテトは、単なる添え物ではなく主役になることもしばしばです。
ヨーロッパの街では、気軽に立ち寄って小腹を満たせるフライドポテト専門店が少なくありません。

スタイルは違いますが、日本にもフライドポテト専門店が増えてきているようです。
ペルーへ出発する前に、日本のフライドポテトを食べておこう! とレティシアおすすめの京都のフライドポテト店へ行ってきました。

DE FRITES STAANのフリット・レギュラー

2023年9月に京都にOPENしたばかりの「DE FRITES STAAN」は、フードメニューはフライドポテトのみという、正真正銘の「フライドポテト専門店」です。
プレーンなフライドポテトをさまざまな種類のディップソースと楽しめるREGULARスタイルのほか、すきやき風フライドポテトもありました。

フライヤーや揚げ方はオランダ方式。ジャガイモは、冷凍ではなくフレッシュで季節ごとに最適な国産のものにこだわっているそうです。中はホクホク、外はカリカリでした。
ペルーではこれを超えるフライドポテトに会えるのでしょうか?

それでは今日はこの辺りでアディオス!

【おもな参考文献・ウェブサイト】
●アンドルー・F・スミス著 竹田 円訳『ジャガイモの歴史』原書房
●ペルー・ムチョ・グスト 美味しいペルー料理のレシピー       
 http://www.consulado.pe/es/Tokio/Documents/recetario_perum.pdf
●一般社団法人日本フライドポテト協会 フライドポテトについて
 https://www.chipsjp.xyz/potato/

〈プロフィール〉
山本粧子(やまもと・しょうこ)
神戸市生まれ。大阪教育大学教育学部教養学科芸術専攻芸術学コース卒業。卒業後、国境の街に興味があったことと、中学生の頃から目指していた宝塚歌劇団の演出家になる夢を叶える修行のため、フランスのストラスブールに2年ほど滞在しながら、ヨーロッパの美術館や劇場を巡る。残念ながら宝塚歌劇団の演出家試験には落ち、イベントデザイン会社で7年半、ディレクターとして国内外のイベントに携わる。また、大学時代より人の顔をモチーフに油絵を描いており「人間とはなんだ」というタイトルで兵庫県立美術館原田の森ギャラリーや神戸アートビレッジセンターにて個展を開催。趣味は、旅行の計画を立てること。2016年からは韓国ドラマも欠かさず見ている。2023年秋より南米ペルーのイカ州パラカスに海外協力隊として滞在し、ペルーとジャガイモと人間について発信していく予定。