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推しの、みなもと。✿第11回|実咲

私の推しである行成ゆきなり、その彼が第12話で映ったのは、道長にかな文字の指南をするシーンでした。
当時は漢字が「男手(おとこで)」、かな文字が「女手(おんなで)」とされており、公文書は全て漢文で記されていました。
男性である道長は、かな文字の優美な筆が不得手だったのかもしれません。

第12話では、道長の結婚とまひろの初恋の終わりも描かれていました。
道長が結婚した相手は、左大臣源雅信まさのぶの娘倫子ともこ
性格の悪い相手なら憎むこともできたかもしれませんが、倫子はまひろがずっと親しくしている心おだやかな姫君で、まひろも内心複雑な面持ちでした。
また、今回初登場した源明子あきこもほぼ同時期(諸説あり)に道長の妻となります。そして一緒に登場した兄俊賢としかたは、行成と少し年の離れた友人になります。
「光る君へ」では道長、斉信ただのぶ公任きんとう、行成が仲の良い光景を描いていますが、後に「かんこう四納言しなごん」または「一条朝の四納言」と称される同時代の公達といえば俊賢としかた、斉信、公任、行成の四人を指します。
彼らは一条天皇の朝廷において活躍し、それぞれ大納言・権大納言ごんのだいなごんに昇ったことからこの呼び名がついているのです。

作中では、藤原氏と源氏ばかり出てくることに辟易している方も多いのではないでしょうか。
これは平安中期あるあるで、この後も大半が藤原氏か源氏です。
この藤原氏と源氏、ってそもそもどういった一族なのでしょうか。

時は飛鳥時代、乙巳いっしの変からはじまる大化の改新において、天智てんち天皇と共に大きな力を発揮した中臣鎌足なかとみのかまたりという人物がいます。
彼が亡くなる直前にもらったのが「藤原」という名前。ここから藤原氏という氏族がはじまります。
この藤原(中臣)鎌足の息子が藤原不比等ふひとで、その不比等の息子たち(藤原四子)がそれぞれ四つの家の祖となりました。
長男の藤原武智麻呂むちまろ南家なんけ)、次男の藤原房前ふささき北家ほっけ)、三男の藤原宇合うまかい式家しきけ)、四男の藤原麻呂まろ京家きょうけ)です。
このうち、平安時代には房前の子孫である北家が権力を握ることになり、道長や紫式部もこの北家の末になります。
なお、この藤原四子は奈良時代に天然痘てんねんとうが流行した際に、感染した兄弟のところへ見舞いに行ったりしたことにより兄弟全員が近い時期に亡くなっています。
流行り病にはソーシャルディスタンスを守り濃厚接触を避けるべきなのは、今も昔も変わらないことですね。

さて、一方の源氏。彼らはすべて天皇家につながる人たちです。
天皇家にたくさん子供が生まれた際に、全員を皇族として養っていくのは国家権力であっても大変です。
そこで、皇位継承の見込みが薄そうな身分の低い母親から生まれた子供などを、皇族から臣下にすることがあります。
これが、「臣籍しんせき降下こうか」というもので、その際に与えられた苗字が「源」なのです。
また、親王しんのう(天皇の子供)の子供である三世王なども臣籍降下する場合があります。
それぞれ元々どの天皇の子孫だったのかが分かるように天皇の名(諡号しごう/天皇の死後つけられる)を頭につけて、嵯峨さが源氏げんじ(嵯峨天皇の子孫)などと呼ばれます。
たとえば源頼朝は、せい天皇の子孫である清和源氏という血筋になります。
紫式部の書いた『源氏物語』は、主人公が天皇の皇子で臣籍降下した源氏の君であることが題名の由来です。

また、源氏とくれば平氏はどうなのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
平氏もまた、天皇の子孫で、平清盛は平安京への遷都を行ったかん天皇の子孫であり桓武平氏と呼ばれる一族の出身です。
「光る君へ」第12話で登場した「さわ」のモデルと推測される筑紫の君が、平維将たいらのこれまさの娘なのですがこちらも桓武平氏です。
彼の子孫は、後に鎌倉幕府の執権である北条氏になります。

道長の妻になる、源倫子は父源雅信が宇多うだ天皇の孫にあたります。つまり、倫子は天皇のひ孫です。
また、もう一人の妻である源明子の父は源高明たかあきらで、彼は醍醐だいご天皇の皇子。明子は天皇の孫になりますです。
しかし高明はあんの変という謀略に巻き込まれ失脚し、左遷され現在の福岡県にある大宰府だざいふ(軍事・外交、九州地方の内政を担当)へ追いやられてしまいます。
また、「天神様」として有名な菅原道真すがわらのみちざねも、もう少し前の時代ではありますが昌泰しょうたいの変という謀略によって左遷され、当地で亡くなっています。(福岡県の太宰府天満宮てんまんぐうは道真が葬られた場所とされています)
作中の時代では高明はすでに失意のうちに亡くなっており(帰京はできました)、彼の息子の俊賢と明子は生活の上でも政治的立場の上でも苦しい身の上でした。
そのため、父が現役の左大臣である倫子が道長の正妻となったとされています。

道長は後に「男は妻がらなり(男の価値は妻次第)」という言葉を残しています。(すごい言葉だ)
ちなみに、この言葉が残されているのは、「光る君へ」にも登場している赤染あかぞめ衛門えもんが筆者の一人ではないかとされている歴史物語『栄花えいが物語』の一節です。
後に権力の頂点に昇ることになる道長にとって、この二人の妻の生まれの高貴さは大きな後押しの一つでもありました。

そして、じつは行成も血筋に関してはなかなかのものです。
母方の祖父源保光やすみつは醍醐天皇の孫。
父方の祖母の恵子女王けいこじょおう も醍醐天皇の孫で、その夫で祖父藤原伊尹これただは摂政太政大臣です。
道長は同じく摂関家の息子ですが、母及び父方の祖母が中級貴族(地方官クラス)の出身で、じつは行成は道長とタメを張れる、いやむしろ勝てるほど由緒正しき血筋の生まれなのです。
世が世なら、摂政関白の地位に就いていたのは行成だったかもしれないのです。
なお同じくF4仲間の公任(トップ争い脱落決定済)も、母が醍醐天皇の孫で父が関白太政大臣なので、こちらも生まれはピカイチだったりします。
しかし行成は早くに祖父と父が亡くなったばっかりに、大変な道のりがこれからも待っているのです……。

(つづく)

書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。