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第10回 マウントバッテン卿夫妻とネルー=ガンディー王朝の盛衰|本田毅彦(京都女子大学教授)

EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。
※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。

来たる2024年の4・5月に、インド共和国は下院の総選挙を迎える。モディ首相の率いるインド人民党(BJP)が長期政権をさらに継続するのか、ラフル・ガンディー氏の率いるインド国民会議派(以下、国民会議派と略記)が勢いを取り戻すのか、インドの内外から大きな注目を集めている。
 
 その国民会議派のありようを、政治コメンテーターたちが揶揄する際にしばしば用いるのが、「ネルー=ガンディー王朝による、インド共和国の支配」というレトリックである。それによれば、20世紀半ばに独立を達成して以降、インドの政治は国民会議派によって長く牛耳られた。さらに、共和国首相の地位は、同党の指導者だった初代首相ジャワハルラル・ネルーと、その娘や孫によって間欠的に占められてきた(子孫たちは、現在も同党の事実上のオーナーである)。従ってインドには「ネルー=ガンディー王朝」が存在したと言うべきだ、と(ただし、「ガンディー」は、同家がマハトマ・ガンディーの子孫であることを示すのではなく、ジャワハルラルの娘であるインディラが結婚した相手の姓が「ガンディー」だったことに由来する)。

他方、ヒンドゥー・ナショナリズムに基づくインド人民党のインド近代史観は、言うまでもなく政治・宗教イデオロギー的であり、それを一言でまとめるとすれば、「インド人(ヒンドゥー)の手に、インドを取り戻す」ということになる。つまり、インドの歴史の流れは、ムスリムによる支配、次いでイギリスによる支配によって歪められたため、それを正す必要がある、と。

そして、インド人民党寄りのコメンテーターたちの中には、さらに進んで、以下のように示唆する者もいる。インドは1947年にイギリスからの独立を達成したが、ネルー=ガンディー王朝の存在が、真の意味でインド人が「インドを取り戻す」ことを阻んできた、と。

英領インド帝国最末期における、イギリス君主制からインド国民への主権移譲のプロセスが、少なくとも表面的には、奇妙なほどに友好的に見えることは否定できない。そこには、最後のインド副王ルイス・マウントバッテン、最後のインド副王妃エドウィナ・マウントバッテン、そしてインド独立運動の指導者だったジャワハルラル・ネルーの間での、不可思議な「友情」が作用していた。そして、これら三人の関係は、それを王朝的と呼ぶかどうかは別として、「世界最大の民主主義国家」であるインドにおいて、同一の家系の出身者たちが長く権力の中枢にあり続けたことにも関わっている、と思われる。

今回は、見るからに華やかな、これら三人の男女が、どのような経緯で出会い、英領インド帝国の解体とインド共和国の誕生という、世界史的な転換点において、どのような役割を果たしたのかを、ふり返ってみたい。

エドウィナの生い立ち

エドウィナ・マウントバッテン(旧姓は、アシュリー)の祖父は、ユダヤ人の銀行家アーネスト・カッセルであり、エドワード七世の盟友だった。カッセルは、イギリスのジェントルマン資本主義の最盛期(地主貴族と金融資本家たちが結合し、国際経済を制御した)に活躍した、代表的なマーチャント・バンカー(ロンドンの金融街を基盤にし、主として諸国家の政府に対して貸し付けを行う投資銀行家)であり、世界でも指折りの富豪だった。エドワード七世の豪華な社交生活を、資金的に支えた。

カッセルにはアマリアという名の一人娘がおり、そのアマリアがウィルフリッド・アシュリーと結婚して1901年に生まれたのがエドウィナだった。しかしアマリアは、幼いエドウィナと妹メアリを残して1911年に亡くなったため、カッセルの全財産は、エドウィナとメアリに引き継がれることになった。

エドウィナは、父アシュリーの再婚後は祖父の手で育てられ、当時のイギリス上流階級の少女が受ける、ごく一般的な教育(花嫁教育)を受けた後、祖父の社交活動のホステス役を務めるようになった。ただし、上流階級に属してはいるものの、自分がユダヤ系であることを周囲が白眼視していることは、強く意識していた。

カッセルは、1921年に死去した。その時点でエドウィナは20歳であり、祖父の後見を失って「糸の切れた凧」のような状態になったが、今や彼女は、誰もが羨む資産家だった。従ってエドウィナは、第一次世界大戦後に復活したイギリスの社交界において、彼女がユダヤ系であることを苦にしなければ、上流階級に属する男性たちにとり、是非とも手に入れたい結婚相手だった。結局、エドウィナが選んだのは、王家とのつながりが深く、海軍将校としての将来性も豊かであるように見えたルイス・マウントバッテンだった


エドウィナとルイス・マウントバッテン

ルイス・マウントバッテンは、ヨーロッパ王族カーストの典型的な一員だった。ルートヴィヒ・アレクサンダー・フォン・バッテンベルクを父とし、ヴィクトリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットを母として、1900年に生まれた。父親は、ヘッセン大公ルートヴィヒ二世の四男の長子であり、母親は、ヘッセン大公ルートヴィヒ四世(ルートヴィヒ二世の孫)とイギリス王女アリスの間に生まれた長女だった(アリスは、ヴィクトリア女王の次女)。従ってルイスは、ヴィクトリア女王の曾孫である。

ヘッセン大公家とイギリス王家との関係の深さから、バッテンベルクは、ドイツの王族だがイギリス海軍で勤務する道を選び、順調に昇進を遂げて第一海軍卿の地位にまで達した(第一海軍卿は、イギリス海軍内で武官の就きうる最上位のポストだった)。しかし、第一次世界大戦が始まると、バッテンベルクがドイツ系であることへの風圧が強まり、第一海軍卿の地位を辞した。また、自分の姓すら、イギリス風のマウントバッテンに改めた。父の跡を追い、イギリス海軍の将校として勤務していた息子のルイスにとっては、父の失脚は衝撃だった。ルイスは、父親が味わった屈辱を雪ぎ、王族カーストのメンバーとしての誇りを回復することを、生涯の目標とするようになる。そのための方途は、海軍将校としてのキャリアと、王族カーストのメンバーとしての活動をダイナミックに結び付け、その双方で「成功」を収めること、だった。

エドワード七世とカッセルの関係の親密さから、エドウィナとマウントバッテンは幼少時から互いを見知っていた。エドウィナとマウントバッテンは共に、特権階級に属しながらも、「自分の背景には、挽回(redeem)しなければならない部分がある」と考える点で共通しており、そのことが、両大戦間期における、型破りで、野心的な彼らの姿勢につながった、と考えられる。両者は、生き方の上での同志的なものを互いの中に見出し、結婚を決めたはずである。

二人はまた、同世代の親しい友人の多くを第一次大戦で失っており、自分たちが生き延びたことについて、ある種の居たたまれなさを感じていた。そのため、進歩的思想への共感を示す一方で、刹那的享楽へ走るという傾向が、二人には共通して見られた。また二人は、夫婦でありながら、互いに対して感情的にコミットすることを避けようとしており、両者ともに、婚姻外での活発な性生活を持った。ただし、上流階級の男女にふさわしく、嗣子を得なければならないとの意識も共有しており、その結果、二女を儲けた。しかし、待望の男子は得られなかった。

マウントバッテン夫妻とジャワハルラル・ネルー

ネルーは、典型的な植民地的エリートの家系の出身だった。しかし彼は、マハトマ・ガンディーの理想に共鳴したことから、高名な弁護士だった父親と共に国民会議派の活動に身を投じ、イギリス帝国主義によるインド支配の打倒を目指すようになった。やがてネルーは、ガンディーの後継者として国民会議派の指導者になるが、第二次大戦中のイギリスの弱体化を受けて、イギリス撤退後のインド社会のありようを構想する必要に迫られた。第二次大戦中、国民会議派とは異なり、イギリスの戦争遂行に協力したムスリム連盟が、その政治力を強化し、パキスタンの建国を声高に唱えるようになっていた。そのためネルーは、彼にとっての師父であるガンディーが生涯の目標としてきた、一体としてのインドの独立と、ムスリム連盟が求めるムスリム・ネーション樹立の要求を、どのように折り合わせるのか、という難題に直面することになった

マウントバッテン夫妻とネルーの最初の出会いは、第二次大戦後の1946年3月、シンガポールにおいてだった。第二次大戦の後期、マウントバッテンは東南アジア戦域の連合軍最高指揮官だった。その際、イギリスがアメリカ合衆国への依存を深めていくのを痛感した彼は、戦争が終了した後には、アメリカの意向により、イギリスがインドの独立を認めるのは時間の問題だ、と考えるようになった。日本軍降伏後もマウントバッテンは、東南アジアでの秩序回復/維持のために、シンガポールを中心として活動していた。他方、ネルーは、第二次大戦中に日本軍支配下のマラヤで苦難を味わったインド人兵士/インド系住民を慰問し、その実情を確認するために、1946年3月にマラヤを訪問することとなり、最初に降り立ったのがシンガポールだった。

マウントバッテンは同地の空港でネルーを出迎え、官邸に招いた。マウントバッテンの行動は、イギリス王室に極めて近い立場の自分が、近い将来、独立インドの首相になる可能性の高いネルーに、この段階で会っておくことは様々な意味で有意義なはずだ、との判断に基づいていた。両者は夕食を挟んで長時間の会談を行った。そしてその場には、美しく、精力的で、魅力にあふれるエドウィナも同席しており、妻に先立たれていたネルーの心を捉えた。会談の結果、マウントバッテンとネルーは、インド国民軍(日本軍の同盟勢力だった)に参加したため、イギリス軍によってマラヤに抑留されていたインド人兵士たちをインドへ帰還させることで、意見を一致させた。

それから1年たらず後の1947年2月、マウントバッテンの予感が見事に的中し、マウントバッテン夫妻は、最後のインド副王、同副王妃として、ニュー・デリーに到着した。マウントバッテンは、壮麗な副王宮殿のダーバー・ルーム(謁見室)で、エドウィナを傍らにして、副王としての就任宣誓を行った。立会人の中には、これもマウントバッテンの見通しどおり、1946年9月に暫定政権の首相になっていたネルーの姿があった。

この時点で、インドの独立は既に確定しており、マウントバッテンの役割は、それを、いつ、どのような形で実現するのか、だった。そしてエドウィナは、マウントバッテンのこうした使命を、彼女が持っていた、あらん限りの魅力と交渉力でサポートすることを決意していた。

かくして、英領インド帝国を短期間に解体し、インド独立を実現するという、マウントバッテン夫妻とネルーの共同プロジェクトが作動した。彼らの基本戦略は、次のようなものだった。インド社会にとっての悲劇であるインド/パキスタン分割の責任は、すべて、消えゆく英領インド帝国が負う。その代わりに、独立後のインドは、英領インド帝国の統治システムの根幹(とりわけ、インド軍のありよう)に大きな変化を加えず、維持する。そしてこのプロジェクトは、インド/パキスタン分離に伴う多くの人命の損失を伴いながらも、遂行された。

制作されなかった映画「インディアン・サマー」

2000年代後半、マウントバッテン夫妻とネルーを主人公にし、1947年のインド/パキスタン分離独立の経緯を描く映画が、ハリウッド資本によって企画された。しかし、撮影開始の直前(2009年10月)になってキャンセルされている。そして、その数年後(2014年4・5月)に行われたインド議会下院の総選挙で国民会議派は大敗を喫し、インド人民党のモディ政権が誕生した。

幻の映画の原作は、2007年に刊行された『Indian Summer: The Secret History of the End of an Empire(インディアン・サマー―帝国の終わりについての隠された歴史)』(アレックス・フォン・タンゼルマン著)という歴史書である。その中で著者は、エドウィナとネルーの関係は、精神的なものにとどまっていたのかもしれないが、紛れもない恋愛だった、と記していた。

映画は、可能な限り、インドにおいて「現場」を用いて撮影することが構想されており、主役の三人には、いずれも著名なスター俳優を起用することが決まっていた。エドウィナ・マウントバッテンはケイト・ブランシェット、ルイス・マウントバッテンはヒュー・グラント、ネルーはイルファン・カーンが演じるはずだった。

他方、インド政府は、外国資本がインドで映画撮影を行おうとする場合、その映画の内容がインド共和国/インド国民のイメージを損なうものであれば、撮影を認めない、というルールを定めていた。そして、「インディアン・サマー」の制作者たちが脚本をインド政府に提出したところ、同政府は、映画の中で、ネルーとエドウィナの関係が恋愛であったことが明示されることにクレームをつけた。この時点でも、少なくとも国民会議派の指導部にとっては、ネルーは「聖人」でなければならず、彼が既婚女性と不倫関係にあったなどというスキャンダルは、国民会議派政権にとって「不都合」だ、と考えたのであろう(国民会議派は、2009年4・5月に行われた下院の総選挙で勝利を収めた直後だった)。映画の制作者たちは、そうした箇所が描けないのならば興行的な成功は望めない、と判断し、企画をストップさせたのだった

ネルー=ガンディー王朝の賞味期限

従って、幻に終わった映画が、2014年のインド下院選挙での国民会議派の大敗をもたらしたわけでは、もちろんない。しかし、両者のタイミングの近さについて考察を行うことは、許されるだろう。

既に触れたように、ネルーは、マウントバッテン夫妻からの果敢な工作もあって、最末期の英領インド帝国との政治的取引へと導かれ、独立後も、英領インド帝国の統治システムの主要な部分を維持することに同意した。そして、その、英領インド帝国の統治システムの中核には、君主制があった。他方、ネルーは、国父マハトマ・ガンディーからの指名により、既に国民会議派の指導者として「聖別」されていたが、その上さらに、ヴィクトリア女王の曾孫であるマウントバッテンと、その妻エドウィナからの承認と協力を得て、英領インド帝国の幕を引いてみせた。従って彼は、新たな国家の首相になるのと同時に、事実上の君主として即位するのにふさわしい人物だった、と言えるのではないか。

ネルーのそうしたカリスマは、数世代にわたってネルー=ガンディー家の人々によって引き継がれた(やはり首相になった、ネルーの娘[インディラ]と孫[ラジヴ]が次々に暗殺されたという悲劇が、同家の歴史の神話性を補強した)。しかし建国後70年余りを経て、ついに同家のアピール力も賞味期限切れが近付いた、ということなのだろう(王朝的支配は、腐敗をはびこらせてもいた)。ただし、現在に至るまで、政治コメンテーターたちが「ネルー=ガンディー王朝による、インド共和国の支配」の弊害を批判し続けているのにも関わらず、映画「インディアン・サマー」の企画の再始動が見られないのは、なぜなのだろうか。

モディ政権は、インドをグローバル・サウスの盟主にすることを目指しており、そのような観点からは、東西冷戦期のインドに、「非同盟運動」のリーダーとしての地位をもたらしたネルーの業績は、なお利用する価値があるのだろう。しかし仮に、モディ政権が次回(2024年4・5月)のインド下院総選挙で圧勝を収めるとすれば、もはや、ネルーの国際政治上の業績にも敬意を払う必要を認めなくなるのでは、と思われる。

首相在任時のネルーは、中国との友好関係に幻想を抱いていたが、1962年の中印国境紛争で見事に裏切られ、失意の中、1964年に亡くなった。従って、習近平主席に対抗しようとするモディ首相にとっては、ネルーは外交政策上の「反面教師」でもある。「インディアン・サマー」の関係者たちは、機会を見逃さず、インド政府へのアプローチを再開するのかもしれない。