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第8回 「ベニシアさん」と、アメリカ人のインド副王妃メアリ・カーゾン|本田毅彦(京都女子大学教授)

EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏。

※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。


「猫のしっぽ カエルの手」に映りこんだ、古写真

 「猫のしっぽ カエルの手」と題する番組が、NHK・Eテレで2013年から2023年にかけて放送されていた。京都・洛北の大原に住む、あるイギリス人女性が、ハーブ研究家としての自身の生活を紹介し、また、現代日本の民芸作家たちを訪ね歩く、という趣向の番組だった。イギリス人女性の名はベニシア・スタンリー=スミスさんといい、イギリス貴族階級の生まれだが、若き日にインドへ渡り、さらに日本へやって来て大原で生活するようになった、と紹介されていた。その、ベニシア・スタンリー=スミスさん(以下、NHKの番組に倣って、「ベニシアさん」と記すことにする)の訃報が、2023年6月に伝えられた。
 
 数年前、「猫のしっぽ カエルの手」を見ていた際に、筆者は、ベニシアさんの自宅の一角に、ある美しい女性を撮影した古写真が飾られていることに気付いた。それは、19世紀末から20世紀初頭にかけて英領インド帝国の副王・総督の地位にあったジョージ・カーゾンの妻、メアリ(結婚前の姓は、ライター)を写したものだった。メアリはアメリカ人だったが、イギリスの名門貴族であるカーゾンと結婚した。そしてカーゾンが、当時のイギリス帝国の最上位の官職の一つであるインド副王・総督の地位に就いたために、メアリは副王妃になった。かくして彼女は、アメリカ人女性でありながらイギリス社会のヒエラルキーの最上位に達した、言わばシンデレラ的な存在として、当時の英米のメディアで囃し立てられることになった

 大原のベニシアさんは、このジョージ・カーゾンの弟の家系に属しており、カーゾン夫妻の直系の子孫ではない。しかし彼女は、カーゾン家のカントリー・ハウス(イギリスの貴族たちが、その所領に構えた本宅)であるケドルストン・ホールで育った。従って、少女時代のベニシアさんの身の回りには、カーゾン夫妻の生涯を想起させるものが溢れていた。

 ベニシアさんの経歴は、彼女がカーゾン夫妻の生涯から強い刺激を受けたことを示している、と思われる。ベニシアさんは、イギリスの貴族・上流階級に属する女性たち向けの花嫁学校で学んだ後、カーゾン夫妻が最高権力者として過ごしたインドを訪ね、さらに、国際的ジャーナリストでもあったカーゾンが、日清戦争直前に取材した日本へと赴き、京都に腰を落ち着けたのだった。

19世紀後半の「女海賊」たち

 ところで、やはり数年前に、NHK総合で「ダウントン・アビー」と題するイギリス発のドラマが放送され、こちらも多大な人気を博した。20世紀前半の、イギリス貴族が所有する架空のカントリー・ハウスを舞台に、そこに住まう貴族たちの生活と、その人間関係、さらに、そこで働く召使いたちの人生模様を描いていた。ダウントン・アビーは屋敷の名称であり、典型的なイギリス貴族男性が所有しているが、彼の妻はアメリカの大富豪の娘だ、と設定されていた。

 実は、こうした設定は、19世紀末にイギリス社会の上流階級とアメリカ社会の上流階級の間で見られた人的交流に着目したものであり、ベニシアさんの憧れの対象だったカーゾン夫妻は、その典型例だった。

 18世紀から19世紀前半にかけて、イギリスの貴族たちは、イギリス植民地帝国の拡大とイギリス農業の効率化からの恩恵を得て、途方もなく豊かになった。今日、イギリス各地で我々が目にする豪華なカントリー・ハウス、イングリッシュ・ガーデン、美術品のコレクションなどは、この時期に彼らが築いたものである。しかしイギリス貴族たちの黄金時代は、1873年以降の大不況によって終わりを告げた。

 他方、アメリカ社会は、南北戦争終結後、西部開拓の進展などに伴って急速な経済成長を開始した。いわゆる「金ぴか時代」の到来であり、多数の富裕層が出現した。つまり、ほぼ同じ時期に、大西洋を挟んで、イギリス社会では伝統的なエリート層が経済的に衰退し、アメリカ社会ではエネルギッシュな新興エリート層が誕生していた。そして前者が新たな収入源を求めていたのに対して、後者は社会的ステータスの上昇を目指していた。従って、両者の間で、その子弟・子女を結婚させることは、理に適った「取引」だったわけである。

 このような事態に注目したアメリカ人作家、イーディス・ウォートンが、『バッカニアズ(海賊たち)』と題する小説を執筆している。同作品の主人公は、アメリカ社会の新興富裕層の娘たちであり、ヨーロッパ(イギリス)の貴族令嬢向けの教育を施されたのち、首都ワシントンの社交界にデビューする。しかし、自らの結婚相手として、アメリカの金持ち男性では満足せず、大西洋をわたってイギリスの社交界に進出し、イギリス貴族男性と結婚することを目指した。カリブ海で暴れまわった海賊たちを髣髴とさせる、野心と活力に溢れたアメリカ娘たちが、今度は逆に、大西洋を渡ってイギリスに襲来し、爵位を奪取する(貴族夫人になる)、というわけである。しかしウォートンは同作品を完成させる前に亡くなり、その死後の1938年に、『バッカニアズ』は未完の状態で刊行されている。

メアリ・ライターとジョージ・カーゾンの結婚

 メアリ・ライターは、こうした「バッカニア」の一人だった。ライター家は、ドイツ語地域のスイスからアメリカにやって来た移民で、数世代にわたって農業に従事したが、メアリの父、レヴィ・ライターはシカゴで織物商を営むようになった。西部開拓に赴く人々にとってシカゴは旅路の出発点になっており、彼らはそこで開拓事業に必要な物品を購入した。ライターは開拓民の需要に機敏に対応し、ビジネスの拡大に成功する。大規模なデパートを共同で経営するまでになるが、シカゴが大火に見舞われ、彼のデパートも焼け落ちてしまう。しかしライターは、シカゴが大風の吹く土地柄であることを考慮し、その店舗や商品に十分な保険をかけていた。支払われた保険金でデパートを再建しただけでなく、焼け野原になったシカゴの主要地を購入し、その値上がりを待って転売することで、巨利を得た。さらにライターは、時機を見てデパートの経営に関する自分の持ち分を売却して投資家になり、首都ワシントンへ移住している。ワシントンを目指した理由の一つは、愛娘メアリを同地の社交界にデビューさせることだった。
 
 メアリは、社交界のレディになるための準備を十分に施されており、実際にデビューしてみると、その美貌、知性、教養があいまって、ワシントンで引く手あまたの存在になった。さらに野心を燃やしたライター夫妻は、家族をあげて大西洋を渡り、メアリをロンドンの社交界にデビューさせる。美しく、気立てがよく、そして多額の婚資を有するメアリは、イギリス貴族たちの間でも垂涎の的になった。
 
 しかしメアリは、一目会った時から、ジョージ・カーゾンに恋心を抱いた。高慢だがハンサムで、名門貴族の跡継ぎであるカーゾンは、オックスフォード大学を卒業後、若くして下院議員となり、国際問題を論じる著述家として頭角を現し、将来の首相候補とすら目されていた。従ってカーゾンは、イギリス社交界で「最も求められる独身男性」の一人だったが、ただ一つの難点は、カーゾン家の財政事情が逼迫していることだった。イギリス首相となるのには、それなりの政治資金が必要だったから、である。逆の見方をすれば、メアリはカーゾンにとって願ってもない結婚相手であるはず、だった。

 しかしカーゾンは、なぜかメアリにプロポーズすることをためらい、メアリは「長い春」が終わるのを待つことになった。結局二人は、1895年4月、メアリが25歳になる直前、そしてカーゾンが36歳3か月の年齢で結婚した。

アメリカ人のインド副王妃として

 カーゾンはイギリス政界での昇進を速めており、既にメアリとの結婚前に、インド省政務次官を務めていた。結婚直後に外務省政務次官になり、やはり高い評価を得た。その陰には、華やかな19世紀末イギリス社交界でのメアリの「内助の功」があった、と考えられている。かくしてカーゾンは、弱冠39歳で、念願のインド副王・総督のポストを手にした。

 1899年、英領インド帝国の首都であり、インド政庁の所在地だったカルカッタ(現在のコルカタ)に着任したカーゾンは、史上最年少の副王・総督として、インドの内外で積極的な政策を展開する。ヴィクトリア女王が1901年に逝去すると、斬新なメディア戦術を用いて、初代インド女帝ヴィクトリアに関するインド社会の人々の記憶を、英領インド帝国の建国の神話の域にまで高め、それにより、同帝国の基礎を盤石なものにしようとした。

 メアリは副王妃としてカーゾンに同行しており、その優美さから、インド社会の人々からも注目の的になった。そうした彼女の存在が最も光輝いたのは、ヴィクトリア女王の後を継いでイギリス国王=インド皇帝となった、エドワード七世の即位を宣言するために、ムガール帝国の古都デリーで1902年末~1903年初頭に開かれた、「インペリアル・ダーバー」という大規模な政治儀礼(インドの政治権力者が即位にあたって行ってきた儀礼を、イギリス人たちが転用したもの)に際して、だった。そのハイライトの一つが、ムガール皇帝のかつての居城、ラール・キラ(「赤い城」を意味する)を舞台にして行われた大舞踏会であり、無数の電灯が煌めく中、多くの宝石と孔雀の羽根を大胆にあしらったドレスに身を包んだメアリが、カーゾンにエスコートされて登場すると、居並ぶ貴顕・淑女たちは皆、その豪奢さに息を吞んだ(孔雀は、インドでは王権の象徴だった)。

 しかし、カーゾン夫妻の栄光は、長くは続かなかった。メアリはインドの気候になじめなかったこともあり、疲労を深めていた。また、カーゾンは、英領インド軍司令官キッチナーとの政争に敗れ、1905年に任期の途中で副王・総督職を辞することを余儀なくされた。

 イギリスに戻った後もメアリの体調は回復せず、1906年に36歳で死去した。カーゾンの悲嘆は深かったが、第一次世界大戦を機にイギリス政界の中枢に返り咲き、外務大臣のポストまで務めている。

洛北・大原と、ケドルストン

 ベニシアさんが少女時代を過ごしたケドルストン・ホールは、イングランド中部のダービシャー州にあり、現在はナショナル・トラストが所有し、一般に公開している。そしてケドルストン・ホールには「イースタン・ミュージアム」と名付けられた一画があり、カーゾン夫妻がインドやアジア各地で収集したコレクションが展示されている(その中には、ラール・キラでの大舞踏会でメアリが着用した孔雀ドレスも含まれる)。少女時代のベニシアさんは、そうしたコレクションに囲まれて、アジアへの関心を深めていったのだろう。

 1971年に来日したベニシアさんは、英語教師としての活動を京都大学近くで始めた。日清戦争前に日本を訪ねた際、ジョージ・カーゾンは京都へも脚を延ばしており、そこでの経験を著述の中で書き残していた。ベニシアさんを京都に導いたのは、その記述であったのかもしれない。1996年にベニシアさんは洛北の大原に移住し、古民家での生活を始める。そしてハーブ研究家として注目されるようになり、NHK・Eテレの番組の制作に関わることになった。
 
 ところで、ケドルストン・ホールには、カーゾン家の人々が何百年もの間、礼拝のために用いた教会が存在する(元来は、ケドルストン村の住民のための教会だった)。そしてジョージ・カーゾンは、メアリの死後、その教会の傍らに、メアリと自分のための墓廟を建てた。とはいえ、カーゾンは再婚しており、その再婚相手の女性は(またもや、と言うべきか、富裕なアメリカ人女性だった)、夫の、亡き前妻へのこうした「純愛」の証を、どのような思いで眺めていたのだろう。墓廟には、カーゾン夫妻の生前の姿を象った白亜の大理石像が仲睦まじく横たえられていて、天使によって天国へ導かれるのを待っている。カーゾンはムガール建築への関心が深かった。従って、この墓廟は、ムガール皇帝シャー・ジャハンが、その皇妃、ムムタズ・マハルの早世を悼んで建立したタージ・マハルを意識して建てられたはずである。ちなみにタージ・マハルも、その建物全体が、白亜の大理石で覆われている。カーゾンは、その生涯の最期まで「帝国」の華麗さへの憧れを抱き続けた、ということなのだろう。

 一方、洛北の大原は、「高貴な人の住まう、隠れ里」というイメージを醸し出している。天台宗の主要な門跡寺院(皇族や公家が住職を務めた寺)である三千院が存在し、また、その近傍には、平清盛の娘であり、安徳天皇の母である建礼門院徳子が、壇ノ浦の戦いでの平家一門の滅亡後に隠棲した寂光院が静かに佇む。ベニシアさんは、そうした大原に、自分の故郷である、英領インド帝国の栄耀栄華を偲ばせるケドルストン・ホールに通じるものを感じていたのだろう。