見出し画像

第2回 マウントバッテン=ウィンザー朝としての現イギリス王室|本田毅彦(京都女子大学教授)

★EU離脱、首相の交代、王室の関係など、なにかと気になる国、イギリスの「これから」を、歴史を紐解きながら考えていく連載『イギリスは我が道を行く』。★第2回はエリザベス二世の夫、フィリップについて。彼の家系を読み解きながら、近年のイギリス王室のかたちについて考えます。★筆者は、『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏です。

※強調部分には関連映像リンクが貼ってあります。そちらの映像もぜひご覧下さい。


フィリップ・マウントバッテンの出自

今回は、エリザベス二世/フィリップ公夫妻の関係から、近年のイギリス王室のありようについて考えてみたい。エリザベス二世はウィンザー朝の君主だったが、その息子のチャールズ三世はマウントバッテン=ウィンザー朝の君主である。チャールズ三世の父親であるエディンバラ公フィリップがマウントバッテンを姓としていたために、王朝名にマウントバッテンが加えられることになった。

フィリップ公の家系的背景は、興味深いものである。19世紀末~20世紀初頭の国際政治において、ヴィクトリア女王/アルバート公夫妻の子・孫たちのネットワークが、当時のイギリスが有していた影響力を背景として、ヨーロッパの諸王室で強い存在感を放っていたことを示す顕著な例だから、である。

まず、フィリップの父方の家系を見てみよう。1830年、オスマン帝国からギリシアが独立したが、その背景には、ヨーロッパ諸列強の力があった。それゆえ、独立を果たしたギリシアの国王には、イギリスを含む列強の力関係のバランスをとる形で、ドイツのバイエルン王国出身の王子が即位した。しかし、その国王が1862年に軍のクーデターで退位を余儀なくされ、後継者が吟味されることになった。候補としてヴィクトリア女王/アルバート公の息子アルフレッドの名も挙がったが、結局、デンマーク国王クリスチャン九世の次男が王として迎えられた(ゲオルギオス一世)。ただし、新たなギリシア国王の姉二人(デンマーク国王の娘たち)は、ほぼ同じ時期にイギリス王太子妃(アレクサンドラ)とロシア皇太子妃になっている。つまり、イギリスとロシアの双方にとって都合のよい人物がギリシア国王に選ばれたわけであり、フィリップは、その孫にあたる。

フィリップの出自

他方、フィリップの母方の家系であるバッテンベルク家(後のマウントバッテン家)は、ドイツのヘッセン大公家の分家であり、同家出身のルイス=アレグザンダーがヴィクトリア女王/アルバート公の孫娘であるヴィクトリアと結婚した。ルイス=アレグザンダーはイギリス海軍で勤務を始め、順調に昇進を遂げて武官としては最高のポストに就いた。しかし第一次世界大戦が始まると、ドイツ系であることを疎まれてその職を失い、一族の姓も、ドイツ系であることが明白なバッテンベルクからマウントバッテンに改めた。そして、ルイス=アレグザンダーの長女アリスがギリシア国王ゲオルギオス一世の四男アンドレアスと結婚し、1921年にコルフ島で生まれたのがフィリップだった。つまり、フィリップは、ともにイギリス王室と関係の深い/その影響下にある二つの王族の出身者の間で誕生した、ということになる。

流浪のギリシア王子

第一次世界大戦後、トルコとの間での戦争に敗れたギリシアでは君主制が一時的に廃止され、王家はギリシアを逃れた。一族はフランスで生活を始めたが、フィリップの父親アンドレアスは家族を捨て、モンテカルロで愛人とともに暮らした。母親アリスは精神を病み、幽閉/修道院生活を送ることになった。フィリップは母親の実家(マウントバッテン家)を頼り、イギリスへ渡った。スコットランドのプレップ・スクールで学んだ後、新たにドイツで開校したイギリス流のパブリック・スクールへ入学した。しかし同校の校長はユダヤ人であり、ナチス政権成立後にドイツを離れ、別のパブリック・スクールをスコットランドに設けたため、フィリップもそこへ転校している。同校を卒業したフィリップは、ダートマスのイギリス海軍兵学校へ進んだ。

フィリップは、夫の死後にマウントバッテン家の家長になっていた祖母ヴィクトリアによってかわいがられた。また、フィリップの家庭は解体状態だったため、事実上、フィリップの後見人は、叔父であるルイス・マウントバッテン(ルイス=アレグザンダーの次男)が務めるようになった。

エリザベスとフィリップの出会い

そのルイス・マウントバッテンは、父の跡を継ぎ、イギリス海軍将校の道を歩んでいた。海軍トップの地位を追われた父の汚名を雪ぐことを決意しており、第一次世界大戦末期には短期間だが実戦に参加し、大戦後には軍務におけるコミュニケーションの重要性に注目して専門の兵科として電信を選んだ。他方、王族としての素養のためにケンブリッジ大学でも学び、国際政治の将来に関してリベラルな展望を身に付けた。マウントバッテンのキャリアを導いたのは、王太子時代のエドワード八世、そして政治家ウィンストン・チャーチルとの親密な関係だったが、リベラルな志向を持つ王族であるとのイメージを活用し、当時、力を強めていた労働党の政治家たちとの間でも良好な関係を築いた。

退位したエドワード八世に代わってイギリス国王となったジョージ六世は、第二次世界大戦開戦直前、エリザベス王妃と二人の娘たち(エリザベスとマーガレット)を伴い、海軍兵学校を訪問した。国王一家の同校訪問の予定を知ったルイス・マウントバッテンは、在学中の甥フィリップが案内役になるように手配した。フィリップは眉目秀麗な青年になっており、マウントバッテンはエリザベスがフィリップに関心を抱くことを期待していた。マウントバッテンの目論見通り、エリザベスはフィリップにひとめぼれした、とされる。エリザベスとフィリップが互いに好意を抱いたのは確かであり、文通が始まった。

第二次世界大戦中、フィリップは、若年の海軍将校としてインド洋、地中海、そして太平洋で勤務した。幾度かの海戦に参加して活躍し、勲章も与えられた。極めて優秀な指揮官であり、21歳で駆逐艦の先任将校になっている。ただしフィリップは、イギリス王家に近い存在だったがイギリスの王族ではなく、イギリス人ですらなかったため、海軍での勤務で特別扱いされたわけではなかった。したがって、負傷/戦死の危険は通常の兵士と変わらなかった。エリザベスの不安は大きなものだっただろう。

エリザベスとフィリップの結婚

日本が降伏した後にフィリップはイギリスへ帰国し、艦艇勤務から陸上勤務へ移った。マウントバッテン家が居住していたケンジントン宮殿で、居候生活を始めた。海軍の若きホープだったが、文字通りの一文無しでもあった。しかしエリザベスと再会し、ロンドンの社交界を舞台として二人は交際を本格化する。1946年夏には、国王一家が滞在するバルモラル城に招かれた。その際に、国王からの許可を得たうえでエリザベスにプロポーズし、受け入れられた。1947年7月に二人の婚約が発表されたが、その直前にフィリップはイギリスに帰化し、自らの姓をマウントバッテンとした。

ジョージ六世/エリザベス王妃は、エドワード八世が退位した際の経緯から、ウィンザー公爵(退位後に、エドワード八世に与えられた称号)夫妻を嫌悪するようになっており、ルイス・マウントバッテンもウィンザー公爵夫妻のシンパなのでは、と疑っていた。そして、そのマウントバッテンが、国王一家を操作する目的でフィリップを国王家の婿として送り込もうとしているのでは、と、当初は考えていた。また、エリザベス王妃の兄の一人が第一次世界大戦中に西部戦線で戦死していたため、彼女のドイツへの憎しみは強かった。彼女の目から見るとフィリップは、イギリス海軍の英雄ではあるものの、まさしくドイツ人だった。しかし結局、両親は娘の選択を認めた。

第二次世界大戦が終結してからあまり時間が経っておらず、イギリスでは配給制度も続いていたので、エリザベスとフィリップの結婚儀礼は比較的簡素に行われた。フィリップの姉たちは式に参加することを強く望んだが、その夫たちがナチス政権の高官であったことを厭われ、招待されなかった。

当時、ウィンストン・チャーチルは野党保守党の指導者だったが、政界での影響力は絶大だった。チャーチルは、自分のおかげでルイス・マウントバッテンはキャリア上の危機を幾度も切り抜けたと考えていたが、そのマウントバッテンが、エリザベスとフィリップの結婚式の直前に、チャーチルの目から見ればイギリス帝国のカギとも言うべきインド/パキスタンの早期の独立を、最後のインド副王=総督として実現させていた。さらにチャーチルは、国王夫妻と同様に、エリザベスとフィリップの結婚は、マウントバッテンが自身の影響力を強めるために行った策動だ、と信じていた。他の王室メンバーや廷臣たちの中でも、同様の懸念を抱く者は多かった。

しかしフィリップは、結婚後も、王族としての活動と並行して、現役の海軍将校としての勤務を着実に続けることになった。また、クラレンス・ハウスでのエリザベスとの新婚生活では、明らかにフィリップがリーダーシップをとっていた。

エリザベスの即位とチャーチル首相の警戒心

エリザベスとフィリップは、ジョージ六世の名代として1952年にケニアを公式訪問していた最中に国王の逝去を伝えられたが、エリザベスと同様にフィリップも、強いショックを受けた。エリザベスの即位とともに、自身の海軍将校としてのキャリアを断念しなければならなくなることが想定されたから、である。

政権を奪還していたチャーチルの保守党政権の下、エリザベス二世の戴冠式は華麗に、大規模に行われた(皇太子だった日本の上皇も招待され、参加した)。世論調査では、戴冠式のテレビ中継が行われることを国民の78%が望んでいたが、首相チャーチルをはじめとして、政府の姿勢は消極的だった。エリザベス二世を説得し、テレビ中継を行うことを受け入れさせたのはフィリップだった。結婚式の際とは異なり、フィリップの姉たちも招待されている。しかしフィリップは、式が始まるのにあたって、エリザベス二世と並んでウェストミンスター寺院に入場し、その身廊を歩むことを許されなかった。

結局、フィリップには、ヴィクトリア女王の配偶者だったアルバート公のようには、「王配」(Prince Consort)の称号は与えられなかった。エリザベス二世はそうすることを望んだが、チャーチルが認めなかったから、である。チャーチルは、国王の配偶者としてフィリップが政治に関わる可能性を、完全に摘み取ろうとした。したがってフィリップは、アルバート公のようには、君主に送られてくる機密書類を女王とともに読むことができなかった。それほどまでにチャーチルは、フィリップを経由してマウントバッテンの影響が王室へ及ぶことを警戒していた。

フィリップは、王室における自身の立場の限界を受け入れ、妻の君主としての活動をサポートする役割に徹することを決意した。海軍将校としてのキャリアを断念しただけでなく、少なくとも公的には、政治的な発言は一切しなかった。数知れぬエリザベス二世の公式海外訪問に同行し、彼女をエスコートしたのはもちろん、彼女の代役として、単独での公式訪問も行った。また、イギリスのみならず世界全体に良い影響を与えることを目的として、青少年にスポーツや社会貢献に取り組むことを呼びかけて支援し、顕著な成果を上げた者には賞(エディンバラ公賞)を与えるという活動を続け、多大な成果を挙げた、と評価されている。

エリザベス二世は、自分とフィリップの間に生まれた子供たちの姓を「マウントバッテン=ウィンザー」とすることを1960年に宣言した。即位の際、首相チャーチルの助言に基づいて王朝名がウィンザーのままとされたため、フィリップは、自分の姓(マウントバッテン)が自分の子供たちに伝えられないことを屈辱と感じていたが、それが雪がれた、ということになる。しかし、フィリップがマウントバッテン姓を名乗るようになったのは二人が結婚する数カ月前のことであり、それほどのこだわりを自分の姓に持っていたのだろうか、とも思われる。むしろ、エリザベス二世/フィリップ公夫妻への、ルイス・マウントバッテンの奇妙なまでの影響力を想像するべきなのかもしれない。

テレビ番組「ロイヤル・ファミリー」

エリザベス二世は、とりわけ自分の即位後は、子供たちの教育をフィリップに委ねることにした。しかしフィリップは、自身が破綻した家庭の出身であり、スパルタ的な教育機関のもとで成長したため、権威主義的な姿勢で子供たちに接することになり、長男で、感受性の強かったチャールズとの関係がとりわけて気まずいものとなった、とされる。しかし実際には、エリザベスとフィリップの間に生まれた四人の子供たちは、いずれも、フィリップが愛情深い父親であることをよく理解しており、2021年のフィリップの死に至るまで、彼らと父親の関係は親密なものだったことがわかっている。

興味深い証拠として、1969年にBBCとITVによって放送されたテレビ番組「ロイヤル・ファミリー」があり、これはフィリップのイニシアティヴで実現した番組だった、とされてきた。当時フィリップは、君主制がイギリス社会から「飽きられつつある」との危機感を抱いており、その結果、テレビ番組を通じて王室一家の日常を国民に示すことで、君主制をより身近なものにしようとしたのだ、と。

エリザベス二世はフィリップの提案を受け入れ、子供たちも協力することになった。一年近くに及んだ撮影期間の当初は、テレビカメラの前での彼らのふるまいはぎこちなかったが、徐々に慣れていった。しかし撮影が進むのにつれて、企画を提案したはずのフィリップが、家族の心理的負担を気遣って不機嫌になっていった。

放送されてみると、同番組は驚異的な視聴率を記録した。つまり、フィリップは当初の目的を達したことになる。しかし王室周辺では、同番組のせいで王室の神秘性が損なわれた、との批判も強かった。そして、これ以降、王室はマス・メディアに対して強く警戒的になり、とりわけフィリップのマス・メディア嫌いが顕著になった。

実際には、こうした企画を思いついたのは、ルイス・マウントバッテンだったようである。「ロイヤル・ファミリー」が放送される前に、ルイス・マウントバッテンは、自らがナレーター/プレゼンターを務める形で、現代史を振り返るテレビ番組をITVに制作/放映させ、高い視聴率をあげていた。そして、その番組の制作スタッフと「ロイヤル・ファミリー」のそれは、主要な部分で重なっていた。ここでもフィリップは、野心的な叔父によって利用されていたのだろうか。

既に触れたように、そもそもエリザベス二世とフィリップの結婚自体が、ルイス・マウントバッテンのお膳立ての成果だった、と説明されることが多い。しかし、二人の結婚が、若き日のエリザベスの、極めて現実主義的なワーク・ライフ・バランス戦略に基づいていた可能性について論じるところから、次回は始めたい。