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思考と感情の融合 〜理性優位主義の間違い〜

私たちが生活する中で、基本、思考と感情は融合することなく、それぞれがお互いに影響を及ぼし合っています。残念なことに、それは我々に新しい価値観もってきてくれるものでありながら、我々は日々、それらに頭を抱えて生きています。

理性的に考えれば正しい選択肢も、その場の感情で誤った選択をしてしまうのはよくあることです。

そんな、状況の中で生まれるのが「理性優位主義」です。つまり、感情のような刹那的で、不安定なものに右往左往されず、永久的に安定している「思考」による解を求め、それが感情よりも優位なものであると考える主張です。思考とは客観的な視点によって導かれるため、以降その判断に悩まされることは極めて少ないです。また、仮に悩まされるような判断をしたとしても、客観的証拠は時間と共に変化しにくいものなので、今後の行動にも活かしやすいです。反対に、感情によって判断した場合、それはギャンブル的な判断に近く、その判以降に頭を抱える例は少なくないことを我々は経験則として知っていることでしょう。

また、この主張の背景は、刹那的な感情に左右されることに疲れた人々が、理性という安定したものを求めた結果生まれたものだと考えられます。つまりは、感情主義を拒み、感情を意味のないものと捉える合理主義をとった上での主張でしょう。合理主義を好む人々、受け入れる人々はもとより合理主義を受け入れている人々です。つまり、合理主義の根本にある合理的な判断を下すことが正しいと考えること自体が、極めて合理的な判断なのです。したがって、合理主義は合理主義により固められており、合理主義の人々をそのループから抜け出させることは困難です。しかしながら、これは完璧な合理主義を持つ人々のことに限ることでしょう。一般的に考えると、合理主義を取る人々も、感情と常に隣り合わせで、場合によってはそれと格闘し、合理主義を守り抜いています。そんな中でも、彼らは合理主義を信じています。

宗教の歴史をみても、その動きが大きくなった時は何度もありました。感情を一切無くし、理性を持ったものだけが社会に存在することで、社会全体が良いものになると唱える人々は少なくありませんでした。しかし、それはやはり現実的にそれは厳しいものでした。ある意味ではそれらは机上の空論にすぎず、理想を掲げていただけだったのかもしれません。もしかすると、その理想とは裏腹に、むしろ社会全体としてあるいは人間の尊厳的な意味で悪影響がある可能性もあります。また、そもそも感情を取り除くなど極めて困難なことだということは我々も重々理解しているはずです。
現代社会に生きる我々の多くの人々が一度は、感情を取り除き、理性のみで動けたらと願ったことがあるのではないのでしょうか。

しかしどうでしょうか。感情がないことが良いことなのでしょうか。ここで言う感情とは、単なる喜怒哀楽を示すものではなく、刹那的に思い浮かぶ気持ちのことを大きく指しています。

私には、理性優位主義は感情を捨てることを望む、ある意味では人間の尊厳を捨てようとする哀しい人々に見えます。

人間に尊厳と言うと少し大袈裟に聞こえるかもしれません。しかし、決して大袈裟なものではありません。我々の感情は、現実的な考えのもとで動く社会の中から少し孤立して動く、芸術という新しい社会をここまで作り上げてきたのです。

また、感情は個人の人間性を作り上げる上で非常に役に立っています。はじめに記述したように、思考と感情は互いに影響し合っています。それは単に影響し合っているだけでなく、その影響により、さらに高次の思考、さらに高次の感情になっているのです。

瞬時に生まれる感情が、思考を刺激し、その思考により似たシチュエーションのとき、過去生まれた感情より高次のものが生まれてくるでしょう。これを繰り返すことにより、互いが刺激しあうことにより、新しい価値観が構成されていくのです。

少し分かりにくいと思うので、例え話をします。次のシチュエーションを思い浮かべてみてください。
あなたは今、電車に乗っています。席は少し空いており、乗客全員がイスに腰掛けています。ゆったりとした時間を過ごしていた矢先、少し離れた席に座っていた老婆が突然倒れてしまいました。その、老婆はあろうことか、助ける間もなく息を引き取ってしまいました。ゆったりとしてい時間は、悲鳴や動揺を隠せない人々のヒソヒソ話と共に一気に冷え上がり、緊張感が巡っています。救急隊がつくと、その非常性は現実味を帯び、より一層緊張の糸が強張ります。
あなたは、この状態で突然「死」を目の当たりにします。物理的にも、精神的にも近い場所で死を目の当たりにしたあなたは何を感じ、何を思うでしょうか。

死への恐怖を感じるのでしょうか。それとも、老婆を見た瞬間の自らの行動を振り返るのでしょうか。

今あなたがこのシチュエーションを考えること、これこそが思考です。思考の中ではあなたは論理的で知性的な判断を下し、それに伴った行動をとることでしょう。しかし、残念なことに、この思考をいくら深めても、実際これと全く同じシチュエーションに陥ったときに感じることと同じ思いをすることはできません。ですが、今ここで思考をしたことで、これからの人生で実際に起こった場合、感じる感情はより深いものになっているでしょう。
これが、思考が感情を刺激すると言うことです。

これは、そのまま逆のことが言えます。
あなたが仮に上記のようなシチュエーションに先に陥ったとしたら、その一連の事象が終わった後、家への帰り道で、刹那に感じた自らの感情を振り返り、深く考えるでしょう。
これが、感情が思考を刺激するということです。

そして新たに得た感情が思考に、思考が感情に刺激を与え、高次のものになっていくのです。


こうした流れを通して、我々は人間性そのものを高次のものにしていく必要があるのです。


これを振り返ると、思考つまりは理性を優位とする理性優位主義は、残念ながら最終的は、人として高次の段階に足を踏み入れることができないのです。

感情が動くと言うのは、常に感情、思考までもが振動し、それに左右されるのは間違いなく疲れます。ですが、その感情の揺れすらも愛することで、思考をも高次の段階に導くことができるのです。

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