なにもみえない電車

 はじめて上野駅に降り立ったとき、僕は焦りと呼んでいいような期待感の中にいた。田舎者にとって、絶えず行き交う電車は東京そのものを形容していて、ワイドショーで忌み嫌われている満員電車はむしろ憧れだった。がたんごとんの忙しなさとは裏腹に乗客たちは静かな動きで列を作り、一千万の秩序を保ちつづける。コンクリートジャングル。いつかの田舎者たちは東京をそんな風に呼んでいたけれど、少なくともめぐりまわる路線図だけは人工の整然とした美しさがあった。
 上京してから数年経ったが、ほとんど電車に乗ることはなかった。僕が住んでいるのは大学近くのアパートで、繁華街も近くにあることもあって、町の外に出る機会が少なかった。東西線と山手線を接続する駅は常に人で賑わっている。バスロータリーでは酔っぱらいの怒号とブラックニッカの瓶が飛び交う。駅と電車とはまったく関係なく存在しているのだった。いつも僕は電車ではなく駅にいた。

 僕は東京の電車が、いったい何を運ぶものなのか未だわからないでいる。

 高校への通学時間は片道一時間を超えていた。一時間に一本しか運行しない電車は、どれだけ雪が降っても遅延することがなかった。線路上に積もった雪の壁を突き抜けていく。両脇に雪の飛沫を巻き上げて進む電車には、ジョーズのテーマが相応しかった。一日の十二分の一を電車の中で過ごしていたが、勉強嫌いの僕がそれを有効活用することはなかった。取るに足らない本を読んでいるか、思いに耽っているように頬杖を突いて外を眺めているかだった。国道に沿って走る電車は直線を引くように田圃の中を突き抜けていく。盆地であるから、どの方角にも針葉樹だらけの山が見えた。そしてその山々の更に奥には郷土富士が望んだ。
 未だに本物の富士山を見たことがない。山梨県には一度行ったことがあるが、あいにくの曇天で謁見は適わなかった。しかし郷土富士の末広がりとそう変わらないだろうと思っている。遠くにそびえるそれは、県民歌に歌われる程度には荘厳だった。車窓から眺めるときは憂鬱になっているときだと決まっていた。色恋が理由だった。一般的な少年と同じように、言語化できない感情に戸惑っていた。


「おう」僕は無表情を努めながら彼女に声をかけた。意識していないと口元が緩みそうだった。高校からバスで三十分かかる最寄り駅の待合室は学生服でいっぱいだった。体育館ほどの大きさがあり、サロンのように机が並べられていた。三つある自動販売機のどれにもコカコーラは並べられていなくて、仕方なく買ったペプシコーラの缶が緊張で凹んでいる。
 彼女は驚きもせず僕の顔を見ると微笑んだ。彼女は美人ではなかった。むしろ、不美人なのかも知れなかった。それでもその容姿は僕の胸を痛める程度には美しかった。彼女は僕の名字を呼んで、傍らの椅子を軽く引いた。それには座らずにリュックサックを置く。右足に体重を預けて腰に手を当てた。自分が動揺していると思われたくなかった。
「何時?」本当は彼女が乗る電車の発車時刻を知っていた。僕の帰る方向とは二十分早く、ダイヤが昨日と今日で違う訳がない。
「三十分後」
「そうか」
 彼女から一つ離れた椅子を引いて、数学の問題集を広げた。ほとんど開いたことがないそれには一切の癖がついていなくて、新学期が始まってからとほとんど変わりがなかった。もちろん勉強をしようと思って開いた訳ではない。彼女の近くにいることの理由付けだ。右手でペンを回しながら、時折彼女のほうを盗み見る。
 彼女の電車の時刻が近づくにつれて、僕は饒舌になる。二人の間に然したる関係はないから、頭を使ってどうにか話題を探す。僕は彼女が好きだという漫画の話を読んだこともないのに話したりする。打算。彼女が駅のホームに行く時までに話が終わらない風を装うのだ。そうして僕は彼女を改札まで見送る大義名分を得ようとする。
 電車がホームに入るまで三分ほどになると、あたり前のように僕たちは話をやめ、さよならをする。彼女がこちらを見て微笑んだのに、僕はポケットに手を突っ込んで、じゃあな、と簡便に叫ぶ。本当は手を振りたいのだが、そこから恋心が漏れることを恐れて、しない。
 帰りの電車に友人と共に乗る。他愛のない会話をした後つかれてしまって、皆は英単語帳をめくり始める。僕は所在無くガラスに手をやり、その周りを白く曇らせ、雪で潰された資材置き場を隠した。取るに足らない少年の脆さを運ぶ電車を、郷土富士はふてぶてしい大人の目で見ている。


 どこで知り合ったか定かではない。彼女が大学生なのか社会人なのかさえ覚えていない。女の子と会うときは酒を控えることに努力しなければいけなかった。元来大酒飲みの僕は自制心がなく、気づけばべろべろになっていることがある。女の子のほうも、僕の飲むスピードに合わせるから、僕が誰なのかわからなくなってしまっていた。
 いつでも色恋はするつもりがなかった。むしろそれに揺るがされるのは僕の嫌悪を引き出すようなことだった。酒の勢い。定型文でのいい訳はうんざりだ、回らなくなった頭の片隅にはずっとそれがあった。駅の横を流れる小川で酔い醒ましをしようと言われた時、僕は醜い色欲のにおいを感じた。それは女の子からももちろんだけれど、自身の内面からもわき出てくる醜さだった。終電までは数十分の猶予しかない。僕も彼女も、しらじらしい演技をするのだ。
「ァ、シュウデン、ナクナッチャッタ」
 何回もの再演。打ち切りたくても打ち切れない、くだらない漫画。ドクタースランプ。その結果なにが産まれるのかははっきりしていて、それは絶対に善ではない。二日酔いの後悔を終わりにしようと思った。
「終電だろ?」
 腕に手を回していた女にそう言うと、彼女は恨めしげに見上げた。僕はこの種族の人間がどうしてその表情をするのか知っている。その時の感情は、あなたと離れて寂しいとか触れていたいとかでもなく、セックスがしたいという直接的なものでもない。自分の性的な魅力を否定されたという感情だけである。否定されたという恨めしい気持ち。
 玉三郎とは行かないまでも、アングラ演劇の主人公くらいの役者である僕は、醜く片方の唇を持ち上げて、努めて低くした声で言う。
「好きなんだよ。また会いたい。だから、お前が俺のことを好きになってくれるまで、耐えたいんだ」
 我ながら、身の毛もよだつ思いがする。

 駅の改札口で僕たちは手を絡ませている。肩が触れるように身を寄せて、女は僕の肩の上に頭を乗せる。甘い香水の匂いよりも強い酒のにおいに気づかない振りをしながら、誰にも聞こえない睦言をささやき合う。
「マタ、アイタイネ」
 名俳優、名女優。端から見れば厚顔無恥な二人に見えるが、実際は頭を働かせて、軟着陸させようとしている。終電まで三分になると、儀礼的にキスをして、別れを惜しむふりをしつつ改札を抜けて、階段を上るまでの女の背中を見つめた。決して振り返ることはない。ポケットにつっこんでいた手を出して唇を拭う。
 最終電車が高架を鳴らす。僕は東京の電車が、いったい何を運ぶものなのか未だわからないでいる。ここからは偽物の富士も見えない。