いちばん好きなこと

 いつもより早い下校時間に、わたしは教科書ばっかり売っている本屋さんにいた。学校から一駅で家には着くのだけど、ゲーム機もパソコンもないから、いつもと同じ時間までこの町にいたほうが楽しい。それに、田舎なので、一駅といっても十五分はかかる。数ヶ月後には受験生という肩書きができて遊びづらくなるだろうから、一五分だけでも遊んでいたい。
「ねえ、ミモちゃんはさ、古文の参考書どれ使ってるの?」
 すこしだけ背伸びをして、本棚の上の方を見つめている。古文はあまり人気がないのか、取りづらい所にしか置いていない。勉強をほとんどしなかったハルノピも流石に勉強しなきゃいけないと思っているのか、軽くメイクした大きな目には似合わない真剣な目をしていた。
「文法、少しくらいやってる?」わたしは微笑というよりも半笑いを意識しながら言った。
「少しは・・・」
「夏休み明けテスト、何点?」
「三十九点!!ギリ赤点!!」こっちを見て、きれいに並んだ歯をにっこり見せた。
「おっけ、知ってた。あー、その感じだとたぶん文法よりも単語だけ覚えた方が点数とれるから・・・。えっと・・・。あったあった」
 私は、古文の参考書の中で一番売れているというのに、本棚が並んだ一番隅の一番上にある『マドンナ古文単語』を手に取った。比較的身長が高い私でさえ、背伸びをしなければいけなかった。
「これ、皆使ってるやつだから、一番いいと思う。全部覚えようとしないでいいから、最初の方にある三十個だけ覚えてみて」
 わたしは表紙に描かれたひどくデフォルメされた女講師のイラストを撫でながら言った。彼女は迷うふりだけはしていたけれど、興味がないようで、誰も知らないようなカラフルな参考書を小脇に挟んだ。
 彼女が他の教科の参考書を探している間、この本屋さんにはわずかしかない小説のコーナーを眺めていた。わたしは本を読むことが好きだ。たぶん推薦入学の面接で、そんなことを言ったと思う。けれども、つい二年前に何を読んでいたのかは思い出せず、目の前にあるのは見たこともない表紙ばかりだ。わたしはお財布の札入れに二千円があることを確認して、去年の芥川賞を取ったという人の処女作を手に取った。八百円もした。
 本屋さんを出たばかり、ハルノピは緑色のビニール袋に入った参考書を大事そうに抱えていた。にこにことうれしそうにしている彼女の前で、わたしはリュックサックに文庫本を差し込んだ。
「何買ったの?」ハルノピが聞いた。
「この間の芥川賞の人。少しだけだけど、読んでみたかったんだ」
 わたしが言うと彼女は「へー」と首を傾げた。「わたし、あんまり本読まないけど、芥川賞とか直木賞とかはもっと読まないな。なんか、みんな読んでるものを読んでるのって、ちょっと嫌じゃない?音楽でもそうだけどさ、本気で好きなもの?で、個性とか出していきたいよね。あそうだ、オーケン聞きなよ、オーケン」
「オーケン?」
「大槻ケンヂ。筋肉少女帯の。知らない?かっこいいんだけどなあ」
「知らない。わたし、ちょっとしか音楽聴かないから」
「ミモちゃんはそうだよねえ」
 ハルノピは、さっきより上機嫌に歩いている。わたしはその隣で自転車を押しながら、駅前の彼女の家までに、何度も女子高生らしさをうらやましく思っている。大槻ケンヂは知っている。このあいだ、十時に始まる、ドラマのエンディングのクレジットにその名前があった。あれは、確か歌詞の提供だった。有名な人だ。わたしに自慢するほどじゃない。でも、有名なものを好きになることはいいと思う。

 好きなもの。コカコーラ、ペプシではだめ。じゃがりこ、ヤンヤンつけボー、コアラのマーチ。でも、みんなは太るのが嫌だって言うから、わたしも食べないでいる。好きな曲、あいみょん、Official髭男dism、米津玄師、back number、全部Spotifyにダウンロードしていて、いつでも聞ける。趣味、特にない。いつでも何にでも興味がある。そして、白痴みたいに何も知らない。もちろん、白痴ってなんのことなのかも知らない。
 わたしにとって、一番いいものは一番人気のあるものだ。一番売れていて一番話題になって一番角が立たないもの。普遍的なもの。友達と共通認識を持てること。一般的なもの。
 中学生の時から女の子が戦っているのは校則だ。あたりまえのように拘束してくるし、女の子はそれに反抗する為に生きている。生理が来てから他人のことを気にしなくちゃいけなくなって、みんなが反抗しているから、わたしもそうしている。でも、怒られるのが怖いから、スカートを折って、すぐに外せるように靴下を止める糊を塗って、一センチ二センチ三センチなんて、チキンレースをしている。
 男たちはそんなわたしたちのことを少し馬鹿にしている。この間、お昼ご飯を食べていたら、いつもクラスの男子からも馬鹿にされてるような人たちが後ろの黒板とカーテンの間でこんなことを話していた。「あれはファシズムなんだよ。見てみろよ調子に乗っている女の子たちは皆同じ靴下を履いているだろう?」
 プレイボーイのうさぎの顔がワンポイントの靴下は、中学生の時からずっと人気だ。わたしのは、全校生徒の過半数に近い白いうさぎちゃん。聞き耳を立てているわたしたちにぴったりで、ハイルヒトラー、みたいにぴんと両耳でナチス式敬礼。でも、君たちだって好きなスマホのゲームの話をして、あのキャラが欲しいみんなが持っているものが欲しいと話しているのを聞いたことがある。それに、わたしは、あの中の一人の男の子がわたしの事をかわいい、と言っていたことを知っている。その告げ口を、わたしはラインで聞いた。もちろんわたしのスマホはiPhoneで、林檎を食べる仕草をした白雪姫が描かれたスマホケースはクラスの五人とおそろいだ。
 ハルノピは少し遠回りしてまで駅の駐輪場に着いてきてくれた。いつもよりずっと空いている駐輪場の一番手前に自転車を置いて、そういえばこれと同じ自転車をみんな持っているなと思い立って、鞄の奥に転がっていた白いゴムをハンドルに巻いておく。わたしは「じゃあ、[かたつむり]でお茶でも飲んで帰る?」と聞いた。

「ねえ、今日、大森くん、やばくなかった?」
 彼女が身を乗り出してそう言ったのは、アイスティーとカフェラテお願いしますとわたしが言ったすぐ後だった。
「委員長挨拶?」
「そう、一緒に聞いたじゃん。ね、わたし、ほんとにやばくて、知ってるじゃん、好きなの。なんであんなにカッコいいんだろ。いまでもやばい、ほんとに」
「めんどくさいなあ」本当に、女の子の本気の恋は誰が聞いていてもうれしくなるようなものだと思う。それが、他者から見たら叶わない恋だとしても、その一瞬だけは人の心をエモにする。
 [かたつむり]のおばさんが、わたしの分ののアイスティーとハルノピの分のカフェラテを持ってくる。
 ずずっ、とカフェラテを飲むのを聞いて、コーヒー的なものは音を立てても良いものかどうか少し考えてしまった。わたしは平均的なあったかいコーヒーの飲み方がわからないから、九月も終盤になってからもアイスティーを頼んでしまう。
「わたしたち、知ってるじゃない。大森君が新学期から体育祭に向けて頑張ってたの。ね、いっしょに見にったでしょ?七月の全体練習の時」
「ああ、あれね。紅組の人たちが、実行委員長が遅れてきたのは何事だって騒いだ時。まあ遅刻するあいつが悪いと思うんだけどさ。うまくまとめたよね」
「そう。今日ほどじゃないけどさ、大森君、やっぱかっこいいし、人をまとめる力があると思うんだよね。いい加減だけどことば?みたいなところでどうにかできる、っていう」わたしはストローに口をつけた。お気に入りの[かたつむり]の紅茶はいつでも紙パックの紅茶と同じ味がする。

 九月の終わりにある体育祭は、わたしたちの高校の一大イベントだ。二年生の四月に発足した実行委員会は引き抜き制で選ばれていて、一年生の時に各部活でどれだけ活躍したか、で決められる。体育系も文化系も変わらずに選ばれる。たいてい実行委員長は人数が多い体育系から選ばれる。でも、今年は帰宅部だったあいつが選ばれた。生徒会に所属していたこともあるだろうけど、気さくさ、器量、そんなところで評価されたのだと思う。
 あいつとわたしは、同じ中学校の出身だ。隣の駅にある中学校から今の高校に進学したのはわたしたちだけだった。わたしはそのせいで友達を作るのに苦労したし、あいつはそのおかげでみんなに好かれるようになった。
 たしかに、あいつは高校に入ってからカッコよくなったと思う。中学の時は野球部だったから坊主だったけど、今は前髪が眉毛にかかるくらいなのをふわふわにしている。たぶん、わたしよりも髪の毛のセットに時間をかけているんじゃないかと思う。体育祭の、最後のスピーチも、わたしすら感動してしまうくらいによかった。言っていることは誰もが考えつくような陳腐なものだったけれど、しゃべりかたとか言葉の選び方とか、声の良さとかが絡み合って、心を動かすスピーチになったのだと思う。
 今のあいつは、イケメンだしスポーツも勉強もなにもかもができる、一般的に言って、一番付き合いたい人間だと思う。

 ハルノピ、ミモ。わたしたち二人のあだなは少し変わっている。わたしに関しては名字も名前も関係がない。昔からずっと、コクヨの小さなメモ帳に日記を書いていることを知っているやつが、勝手に呼び出したもの。高校に入ってからあだなをつけられる人とは違って、わたしはずっと一見意味がわからない名前で呼ばれ続けている。ハルノピのほうはまだよくて、春陽と書いてハルヒと読むことからあだなになった。ピは、彼ぴっぴ、みたいなつまんないものだけど、いいあだなだと思う。いつでも明るい彼女にぴったりだ。日向。太陽。晴れの日。春の日。青春の日。MEMOくらむようなハルノヒ。わたしたちは言葉の上でもぴったりだと思う。
 でも多分、明日、明後日、その次も、ハルノピにとって雨の日なるかもしれない。ずっと、彼女があいつのことを話す度にそう思っていた。アイスティーがなくなって、排水溝みたいに不快な音を立てる時間にわたしたちはそれぞれ帰路につくけれど、その後、彼女はあいつのことを思い、わたしは彼女のこれからを思う。

 ごめんなさい。わたしは、今日、あいつからラインを貰いました。そして、それはあなたとわたしが友達になる、ずっと前から確定していたことです。

 次の日、わたしはわたしの教室にいた。体育祭の翌日と翌々日は、授業がないことになっていたのだけど、実行委員だけは翌日、後かた付けの為に一日を費やす。わたしは、あいつに指定された五時から三〇分遅れてきた。けど結果として五分ほど待つことになった。告白のときは、落ち着かない。心じゃない。心は決まっているから、どうでもいい。ただ、一般的な、普通な、ポジション。告白されるのに一番適切な場所を選ばなければと思った。結局、黒板と本棚とストーブと黒板消しクリーナーとカーテンの間で、あいつを待った。いつだってあいつは本気なのだから、少なくともスマホはいじらなかった。
「おう」
 あいつが奥のドアから入ってきて、少し残念そうな顔をした。あいつは、わたしと一緒で一般的を求めて生きてきたと思う。一般的に野球部で坊主にして、好きな相手と同じ高校に行って、頑張って身なりに気を使って、勉強に一生懸命になって実行委員になって、理想的な高校生をしている。
「映画と違うでしょ。今までは教室じゃなかったから」最初にわたしが言った。
 現実はもちろん、超現実的なロマンティックと違う。夕方の教室に、夕日が射し込むことはない。東側から日が射し込むように設計されているから、西日は決してわたしたちの陰を作らない。ただ、ただ薄暗いだけの教室に、動くことのないカーテンがあるだけ。
 あいつは一番前の机に腰掛けて、肩を鳴らした。
「疲れたよ」
「お疲れさま。実行委員長」
「スピーチ見てくれたか?」
「見てない」
「そうか」
「結構評判だったんだよ。先生にも褒められたし、あのあと皆泣きながら駆け寄ってきた」
「そう。すごく考えて文章作ったのかな」
「本当に。今まで人前で話したことないから。前日には徹夜でさ、寝不足だった」
「そう。じゃあ、聞かせて。考えてきたんでしょ?」
「うん」
「はい、どうぞ」あいつは間髪入れず、
「好きだ。付き合ってください」
「ごめんなさい。嫌です」
「おし、じゃあ次の機会に」

 わたしは、この人と結婚するんじゃないか。そんな気がしていた。秋の夜は早く来て、夏の大三角形が、山並みに近いところで輝いていた。自転車は高校に置いてきた。どうせ、明日も休みなのだ。急ぐ必要はない。わたしたちはさっきまでの告白がまったくなかったかのように、中学の時と同じように少し距離を取りながら歩いている。比較的身長が高い私が見上げなければいけないくらいの高さで、あいつは、実行委員長がいかに辛いかを楽しそうに語っていた。来年の受験の話をすると、少し顔色が曇って、「東京だよ」と言うとうれしそうな顔をした。
 ハルノピが、今の私たちを見たらどう思うだろうか、と思う。一番無難なものを選んできたわたしが、彼女の、一番恋いこがれる男の子を否定したことについて、疑問や怒りを抱くだろうか。
 ほんとうに、人が産まれてから噂というものは足が速い。あいつが誰かに言いふらさなくても、彼女の耳にはすぐ入るだろうと思う。そのとき、きっと彼女はわたしのことを恨むだろう。正確に言うと、方向が定まらない怒りを、とりあえずわたしに向けようとするだろう。でも、それでいいと思う。だれしもが同じような経験をしている。そして、時間が経てば仲直りをして、同じように[かたつむり]でお茶をするんだ。わたしは、友達に対しても一番なもの、普通なもの、一般的な関係を選んでいくんだと思う。
 あいつについても、一緒だ。わたしたちはずっと、こんな関係を続けて来た。今更、変わったことをしようとする気はない。これは、言い訳かもしれない。正直、明後日会う時がすごく怖いな。でもそれは、女の友情という言葉でくくったとしたら普通なものだ、そう思いたい。

 わたしは、この人と結婚するんじゃないか。家まで着いてきたあいつの寂しそうな顔がいじらしくなって、改めてそう思った。
 部屋に入って、ひさしぶりにペンを持つ。高校になって一回目、中学から七回目の、小説じみた告白をメモ帳に書くのに「彼」の文字を使うのはまだ早い。